33.国家試験のはじまり②
目を閉じれば、わがままいっぱいに屋敷の皆を困らせていた姿がすぐに思い浮かぶ。幼い頃からずっと一緒に暮らしてきたことに、今は感謝しかない。
「わ、私は簡単に会える女ではありませんから」
少し顎を上げて偉そうに言葉を返してみる。これは、コリンナがエイヴリルに何かを命じてくるときの癖だった。エイヴリルとしても、手軽に悪女っぽくなれるので気に入っているテクニックである。
うまくいったかしら、と思ったところで、とても強い風が吹いた。ジャンヌが抱えていた教本の束から一枚の紙が飛ぶ。
それは、風に乗ってふわりと舞い上がった。
「!」
淑やかなジャンヌが一瞬だけ「しまった」という表情を浮かべた直後、何か考える前にエイヴリルの靴底は石畳を蹴っていた。
跳び上がり、風で飛んでいきかけた紙をしっかりと掴むと、しゅたんと着地する。強風とジャンプの勢いの両方で髪が乱れてしまって視界が狭いが、特に気にするところではなかった。
「どうぞ」
にっこり微笑んで渡すと、ジャンヌの口がぽかんと開いた。
「……人助け……」
「あっ⁉︎」
しまった。自分は、三秒前のジャンヌと同じ表情をしていると思う。あわあわと取り繕おうとしたところで、ディランがスッと間に入ってくれた。
「これはエイヴリル様、一体どのような風の吹き回しですか?」
まるで、いつもは人助けなどしないというような言い方だ。とてもスマートでありがたいサポートである。
「たまには人の役に立ってもいいと思ったのですわ」
「……それなのに、反射的に動けたのですか?」
「⁉︎」
ジャンヌの言葉が、助かりかけたエイヴリルの心を抉ってくる。
(おっしゃるとおりです! 私は反射的に動いてしまいましたから……!)
もっと違う返し方をするべきだったと思ってももう遅い。すっかり青くなってしまったエイヴリルだったが、なぜかジャンヌはそれ以上追及して来なかった。
きりりとした眼差しに、どこか小動物を見るような温かさを滲ませる。
「……余計なことを。失礼しましたわ。そろそろ受付の時間ですので、先に失礼いたします。お互いに頑張りましょうね、エイヴリル様」
「は、はい、ジャンヌ様」
これ以上もう何もしゃべってはいけない気がしているエイヴリルは、丁寧な礼で応じるだけだ。
それにすら、ジャンヌはなぜか温かい視線を向けてくるのだった。
(こ、こんな感じで大丈夫だったでしょうか……?)
おそるおそる、ディランを見上げてみたが、いつも通り優しく微笑んでくれている。背後のクリスもニコニコと笑顔を崩さなかった。どうやら大丈夫だったらしい。
ほっとしながら、講堂へ入っていくジャンヌを見送る。ちょうどエイヴリルの受験番号の受付時間になったところだった。時計から目を離し、気持ちを入れ替えて向き直る。
「ではディラン様、いってまいります」
「はい。どうかほどほどに」
ディランの言葉が丁寧なのは、周囲の視線が自分たちに向いているからだろう。思えば、ここは試験会場の前。
誰でも受けられる試験とはいえ、本試験に残るのは幼い頃からそれなりにきちんと教育を受けた貴族令息、令嬢が多いことは容易に想像がつく。
つまり、元々悪女の噂を知っている人間は多そうだ。この先は、コリンナの噂がエイヴリルを先導してくれそうである。
悪女のふりは必要ない。
自信を持って、そう思えた。
◇
試験会場に消えていくエイヴリルを見送ったディランは、周囲に気取られない程度に息を吐く。
「何事もなければいいが」
すると、ずっと楽しそうに見守っていたクリスが問いかけてくる。
「ディラン様は、ローレンス殿下からの本来の任務について、直接エイヴリル様に伝えていないのですね」
「……あれ以上張り切って、任務終了後にクラウトン王国に留め置かれるなんてことになったら困るだろう」
「ははは。それもそうですね」
実は、ローレンスからは『もう悪女として籠絡はしなくてもいい。恐らく、あの国王は一度の面会で見抜いているはずだ』という電報を受けていた。
けれど、これまでにエイヴリルがしてきたことがどんなことに繋がったかは、ディランが一番よく知っていた。そして、さっき声をかけてきたあのジャンヌという令嬢も、エイヴリルの本性を見抜いているのだろう。
それこそがローレンスの狙いに違いないが、夫としては複雑な感情を隠せない。
「試験の結果はどうでもいい」
「エイヴリル様なら、望む結果をお持ちになるでしょうね」
「……。何事もなければ、それでいい」
自分が想像する結果と同じものを口にするクリスに、ディランはただ繰り返すだけだった。





