9.悪女らしさ
「お目にかかれて光栄です。王妹のエミーリア・クンツェンドルフですわ。エイヴリル様、シェラード侯におかれましてはご機嫌麗しく」
なぜか、ディランよりも先に名前を呼ばれてしまったエイヴリルは固まった。
(ディラン様よりも先に私の名前を……? しかも、まだ名乗っていないのに私の名前をご存じのようです……⁉︎ 一体、どういうことなのでしょうか)
けれど、王妹を名乗ったエミーリアからの挨拶は続く。
「これまでの君主の方針により、我が国に他国のお話はあまり入ってきませんの。観光客と触れ合った一部の者たちからの噂話を広めて楽しむ世界ですわ。正式な使節団のご到着、誠に喜ばしく思っております」
うっとりと澱みなく話すエミーリアの様子に、エイヴリルは遠い目をした。
(これは……コリンナがバカンスのときに残した逸話のことを指していそうですね)
きっと、ディランも同じ表情をしていることだろう。そのバカンスのときに、クラウトン王国から慰謝料や賠償金の請求をされなくてよかった。今頭に浮かぶのはそれしかない。
エミーリアはエイヴリルを見つめながら恍惚として続ける。
「わたくしは……っ、」
しかし、突然異変が起きた。勢いよく喋りすぎたせいか、王女は次の言葉を続けようとして咳き込んでしまったのだ。
「コホッコホッ。……っ」
なかなか咳は治まらない。それどころか、苦しそうで、話すことができない様子だ。
にもかかわらず、ずらりと並んだこの国の重鎮たちは手を貸したり人を呼ぶことをしたりしない。まっすぐに前を見て、直立不動の状態を崩さなかった。
(えっ? どなたも介抱をされないのでしょうか!)
国王でさえ、わずかに心配そうな視線を送ったものの、声をかけることはしない。まるで、心配でも手助けをすることができないかのようだ。
(クーデターによって王位を手にしたばかりの国王陛下には、味方が少ないのでしょうか。だとすれば、王妹殿下もそれはよくわかっていらっしゃって、この場に完璧な正装で現れたのだわ)
事情を察し、側近たちの顔を見ると、彼らは無表情そうに見えてもこの状況に満足しているような空気が伝わってくる。重鎮にしか見えない文官も、わずかに口の端をあげているように見えた。
(煌びやかな世界にいらっしゃるけれど、お二人とも孤立無援なのですね)
ついさっきまで、ディランと出会えたことを幸せに感じていたエイヴリルの心は萎んでしまった。
エイヴリルはローレンスの命令のもと、悪女としてここにいる。自分にできることといえば。
(これは……エミーリア殿下がこの場を退出できるよう、順番を奪うしかありません……!)
そう決めると、エイヴリルは目立つように大きく一歩前に出た。隣でディランが動揺しているのが伝わってくるが、自分はアレクサンドラの監修のもと、しっかりと悪女を演じるのだ。安心してほしい。
「私は、エイヴリル・アリンガムですわ」
よかった、うっかりランチェターと名乗るミスは免れた。そう思った瞬間に、謁見の間に並んだ側近たちの一部から、奇妙なざわめきが上がる。
「エイヴリル・アリンガムって」
「三年ぐらい前に訪れたという、あのひどい悪女の名か?」
「なんだっけ……当時の国王陛下の側近ともお忍びで遊んだという噂だったか。金目のものを全部貢がせ譲らせたせいでその方の恥となり、逆に事件化しなかったっていう」
「うわぁ」
めまいがしそうになる呟きまで聞こえてしまった。本当だろうか。
しかし、エミーリアの言葉のほか、彼らのざわめきで、コリンナがエイヴリルの名を騙ってとんでもない逸話を残しているであろうことは確定した。
ローレンスからの命令の内容を考えると、ここは好きにやった方がいいのだろう。ローレンスの『行けばわかる』も、きっとそういう意味なのだ。
ということで、気合いを入れたエイヴリルは頬に手を当てて悪女っぽく微笑む。
「ここには、見知ったお顔がたくさんあるようです?」
「「「「!」」」」
奇妙なざわめきをあげていた側近たちの周辺だけ、空気が凍りついた。
「この前のバカンスが素敵でしたので、また、お高そうなものを探しに来ましたの」
「「「「!?!?」」」」
今度は彼らの顔色が青くなった。コリンナの威を借りてではあるが、悪女っぽく振る舞えているのではないだろうか。満足しながら、ちらりと王妹に視線を送る。
皆の注目がこちらに移ったタイミングで侍女が登場し、この部屋から肩を抱えられて退出していくところだった。無事に、注目を逸らすことに成功したらしい。
(よかったです)
ほっとして微笑み、仕上げに悪女として『この滞在中に、何か高いものください』と丁寧な言葉でお願いしようとしたところで。
「……ぷっ。くくく……ははは」
壇上の王座に座っている国王リステアードが、いきなり吹き出した。
吹き出すだけでは終わらない。そのまま大笑いに繋がってしまった。突然のことに、エイヴリルは目を白黒させる。
(何か……国王陛下を惹きつけるようなことがあったのでしょうか?)
事態を把握できないでいるうちに、ディランがすっとエイヴリルの前に出た。
「ご無礼を。到着直後の挨拶ということで、今回はここまでにしていただいてもよろしいでしょうか。後は、この後の晩餐会で」
「ああ。それがいいな。面白い滞在になりそうだ。下がっていい」
リステアードの言葉で、ディランとエイヴリルは正式な礼をし、謁見の間を後にすることになった。
見送る側近たちから向けられるのは、恐れをなした視線、不思議なものを見るような視線、好奇の視線、さまざまだ。
(最後の大笑いだけはわかりませんが……予想外のご挨拶でしたが、何とか無事に終えられたようです。エミーリア殿下も退席できてよかった)
控え室に戻る途中、ほっとため息をつくと、ディランからポンと頭を撫でられた。褒められるとうれしくて、自然と笑みを返すことになる。
「悪女らしくないな?」
「!」
それが、今の表情だと思ったエイヴリルは、あわてて緩みかけた頬を引き締める。
なお、帰り道は行きとは別の文官が案内してくれた。案の定、行きに比べて半分以下の時間で着いたのだった。




