50.ファーストダンス
それから一週間後。ランチェスター公爵家の領地にある本邸は、ここ数年間で最も華やかな夜を迎えていた。
中庭に面した大広間では、ランチェスター公爵の婚約者、エイヴリル・アリンガムを紹介し歓迎するパーティーが催されている。
外部からの招待客はいない。この大広間にいるのは、全員が本邸で働く人間たちだ。
本当は、王都に戻ったばかりのアレクサンドラが臨席したがっていたそうなのだが、王太子ローレンスが「アレクサンドラが行くなら自分も。公務はしばらく休む」と言い出したため、泣く泣く欠席することにしたらしい。
(アレクサンドラ様とローレンス様の関係はとても面白いですね)
そんなことを考えて気を紛らわしながら、エイヴリルは上座の椅子に座っていた。
仮面舞踏会や先日のヴィクトリア号でのパーティーを除いて、エイヴリルが夜会というような場に出るのは初めてのこと。
しかも、なぜかディランと並んで皆に注目される席に座らされている。状況はわかっているものの、なかなか受け入れられないエイヴリルは遠い目をした。
「わ、私は本当にここでダンスを踊るのでしょうか……?」
「練習では完璧だったのだろう? ダンスレッスンの先生を依頼したご夫人が『自分の弟子にならないか』と本気で誘ったと聞いたが」
「それはそれ、これはこれですわ。意味が違います」
うまくダンスができるかも心配だが、デビュタントを済ませていないエイヴリルにとっては、こんな華やかなパーティーが自分のファーストダンスの場になるなんて信じられない。
(だってコリンナが出席したデビュタントでさえ、格式はそんなに高いものではありませんでしたから。いくらディラン様が内輪でのパーティーだとおっしゃっても、私にとっては公爵家主催の華やかなパーティーにしか思えません)
ぐだぐだと考えているうちに、ざわついていた会場が自然と静かになった。ピアノの音が鳴り始め、弦楽器の調べがそこに重なっていく。
いつの間にか立ち上がっていたディランが、エイヴリルに向けて真っ直ぐに手を差し出してくる。
「――エイヴリル・アリンガム嬢。あなたの初めてのダンスの相手を務める栄誉を、私にくださいますか」
「はい、公爵様」
覚悟を決めたエイヴリルが微笑んで手を取れば、ディランはそのままエイヴリルを立ち上がらせて大広間の中央へと進み出る。
会場の端では、正装し微笑んで見守ってくれているクリスやグレイスの姿が見えた。
今日エイヴリルが着ているレモンイエローのドレスは、ヴィクトリア号で身につけたドレス同様にディランが贈ってくれたものだ。
袖が肩のところでふわりと膨らんだ可憐なデザインは、エイヴリルによく似合っているとメイドたちから好評だった。
大広間の中央にエイヴリルとディランが向かい合って立つと、一旦音楽が止まった。少しの間の後、今度はワルツの旋律が会場に響く。
公爵家で働くほぼ全ての人間がここに集まっているはずなのに、不思議と音楽以外の音は聞こえない。まるで、二人を見守ってくれているような空気を感じる。
ディランの肩に左手を置けば、距離がぐっと近づいた。抱きしめられることは普段もあるはずなのに、なんだか恥ずかしい。
けれど、エイヴリルははじめてのダンスをとても心配していたが、実際に踊り出してしまえば体が覚えていたようでホッとする。スムーズにステップが踏めて、ディランの足を踏んでしまうという失態はなさそうだった。
(先生と毎日、日が暮れるまでレッスンしましたものね……!)
あのときは仮面舞踏会に出るための特訓だったのだが、まさかこうしてきちんとファーストダンスを踊れるなんて。感激するエイヴリルは、ディランに話しかける余裕まである。
「ディラン様。このドレス、お屋敷で働く皆さんが褒めてくださったのです」
「だろうな。本当によく似合っている」
「……この本邸の母屋で働くシエンナさんも、別棟で働くジェセニアさんも、皆が一緒に褒めてくださいました」
「皆、俺より褒めたのか?」
ワルツの合間に聞こえた、ディランの拗ねたような声につい噴き出しそうになった。
「いいえ。ディラン様が褒めてくださるのが一番うれしいです。……ですが、ここに来た初日、別棟の新人メイドと勘違いされた私は、二つの棟で働く使用人の仲の悪さを肌で感じたのに。きっと、近いうちにきっとこのお屋敷はもっと素敵になると思います」
「……ああ、同感だな」
耳元で囁かれて、どきりとする。けれど今はダンスの最中だ。驚いて離れるわけにもいかなくて、エイヴリルもそのまま続ける。
「私はこのランチェスター公爵領が、マートルの街が、そしてこのお屋敷がとても好きです」
「……エイヴリルはここに進んでついてきてくれたが、正直不安だったんだ」
「ディラン様……?」
意外な言葉にエイヴリルは首を傾げる。ディランがエイヴリルの領地入りに反対していたのは知っている。その理由は払拭しきれていない『悪女エイヴリル』の評判や、前公爵との関係に関わらせたくないからなのだとエイヴリルは思っていた。けれどどうやら違うようだ。
「俺は、あいつは嫌いだが領民と領地のことは大切に思っている。それを、あいつのせいでエイヴリルに嫌われたらどうしようかと」
「……何をおっしゃるのですか」
「ここにはいい思い出がなかったんだ。だから、大切な場所なのに自信を持って好きだと言えなかった。エイヴリルは喜んでここに来たいと言ってくれたのに」
ワルツが終わりを告げ、エイヴリルの耳元ではディランの声だけが響く。
「でも、初めて心から好きだと思えた。この地を」
「ディラン様……」
エイヴリルは義妹コリンナの身代わりでランチェスター公爵家に嫁いだことで、ディランに救われた。誰かに愛されることを知って、自分も誰かを大切に想うことを知った。
それは、家族に恵まれなかったエイヴリルの中でなかなか育たずにわからなかった特別な感情だ。かけがえのないものを自分に与えてくれた人の、これまでに抱えてきたであろう葛藤を知って胸が痛くなる。
(――きっと、ディラン様も私と同じだったのですね)




