45.海の前の古い教会
ふと頬に手がかかり、ディランが真剣な瞳で告げてくる。
「顔をよく見せてくれ」
「はい、この通りです」
エイヴリルも顔を上げてしっかりディランを見つめ返す。ディランの碧い瞳に自分が映っている。大好きな人のもとにやっと帰って来れたのだと思うとホッとする。
しかし、エイヴリルの顔を見たディランの眉間に皺が寄った。
「エイヴリル、顔にところどころ傷がついている。しかもこれは……煤か? 汚れが」
「!? えっとこれは」
そういえば、自分はボイラー室で石炭を焚べた後、木箱に入れられて運ばれたのだった。木箱の中の居心地は最悪だった。あちこちに体中をぶつけ、よく見ると傷だらけになっているらしい。
ディランが驚くのも無理はなかった。
「きみにこんなことをしたのは誰だ? 絶対に許さない」
「いえあの違うんですこれは」
「きみを閉じ込めていた部屋の人間はどこにいる」
「箱です箱、これは全部箱が悪くって……ってあの!?」
必死に箱が悪いのだと説明しても、すっかり頭に血が昇ってしまったらしいディランの誤解はなかなか解けない。ディランの指がエイヴリルの煤だらけの頬を撫でていく。
傷口に触らないように、でも優しく撫でずにはいられない、そんな手つきだ。
ふと、手がおとがいで止まる。どうしたのだろうと首を傾げようとしたエイヴリルだったが、それはできなかった。
少しの間の後、空気の震えだけで伝わるような躊躇いのある問いが聞こえた。
「……許してくれるか」
いつもはその意味がすぐにわからない気がするのに、なぜか今日はすぐにわかったように思えた。
と同時にディランの顔が近づき、返事をする間もなく唇が重なる。
優しく触れるだけのキスだった。
わずかな間だけ重なった唇はすぐに離れ、沈黙が満ちる。
頬に触れているディランの手は壊れものを触るように優しい。名残惜しそうに離れた手は、エイヴリルの背中に回って、また抱きしめられた。
今度は何かからエイヴリルを守るためではない、愛おしむような優しい腕だ。
そうして、耳元で告げられる。
「結婚式まで我慢しようと思っていたんだが」
「……ふふふ。ディラン様、ここも古い教会みたいですよ」
悔しそうなディランの言葉にエイヴリルが微笑めば、やっぱり強く抱きしめられた。まるで子どものような振る舞いに、ここがランチェスター公爵家ではないということを忘れてしまいそうだ。
(幸せ……ってこういうことのような気がします)
いま、すとんと腑に落ちた気がする。
そして、エイヴリルは抱きしめられたまま説明する。
「ディラン様。この傷はここまで運ばれてくるときに箱の中で私が一人でぶつけたのであって、誰かにされたわけではないのです」
「……そうなのか?」
「はい。箱の中がとにかく居心地が悪くて。あちこちにぶつかって痛かったです」
「なるほど。だが、箱の中の居心地が良ければ、エイヴリルはそれはそれで眠りそうだもんな……」
「ふふふ。よくわかってくださっていてうれしいです」
微笑みあったところで、入口の方からクリスの声がする。
「――ディラン様、二等船室区域の捜索が始まりました。ディラン様も行かれますか?」
ディランは名残惜しそうにエイヴリルの肩を抱いた後、鋭く返事をする。
「ああ。今すぐに」
「ディラン様、二等船室区画の非常階段の裏にある隠し部屋に女性たちが閉じ込められています。武器は銃で四丁。見張りが外に三人、中に四人です。配置は扉と中央、柱前に」
「わかったありがとう」
ディランはエイヴリルの頭をポンと撫で、教会を出るとヴィクトリア号へと消えていったのだった。




