36.悪女のお仕事③
「よく気がついたな。これは上部の部品が劣化して破損したところなんだ。ボイラーのうち故障しているのは一つだけだから問題はないが、できればすぐに修理をしてしまいたい」
「部品はあるのですか?」
「ああ。だが、故障に気がついたのがついさっきで、人手が足りなくて後回しになっているんだ」
(なるほど。夜が明けると乗客も船員も活動が活発になります。大きなエネルギーが必要になるのは当然ですね。このボイラーの修理に割く人員と時間がないのは当然のことです)
エイヴリルはランチェスター公爵家のボイラーなら自分で修理できるし、豪華客船の機関室の構造はだいたい頭に入っている。ということで、元気よく手を挙げた。
「私、手伝います」
「は? お嬢さんが? これの修理を? 何言ってんだ?」
「いいえ、手伝うのは向こう側です」
「は?」
心底意味がわからないという顔をした機関士に向け、部屋の奥を指差す。すると、彼はますます首を傾げたのだった。
ということで、エイヴリルは別の部屋でボイラーに石炭を焼べていた。重いスコップを持ち、石炭を掬って火の中に放り投げるとそれは赤く燃えさかって消えていく。
「あんた……職業体験か何かか? にしても、何でこんなところへ……?」
目の前の光景が信じられないらしい火夫が顔を引き攣らせているが、エイヴリルは気にしない。
「お仕事はそれなりに慣れています。向こうのボイラーの修理をするのに人員が必要だと聞きまして、その間私が代わりにここを手伝わせていただきます」
「いや……ありがたいんだが……その……?」
火夫は、どうしても事態に納得いかないらしい。
確かに、エイヴリルが着ている服はパーティー用のドレスではないもののそれなりに高級だとわかる品だし、言葉遣いだって上流階級の客だとわかるだろう。
そのどこぞのご夫人っぽい女が楽しそうに石炭を焼べているのだから、困惑するのも無理はなかった。
(ボイラーは船の動力の要です。素人の私が修理を手伝うのはあまりにも危険すぎます。たくさんの命を預かる大切なお仕事ですから。でしたら、私は石炭を焼べましょう)
もっともらしい言い訳をしている自覚はある。だって、エイヴリルは二日前に豪華客船の構造に関する本を読んでからずっと石炭を焼べてみたかったのだから。
少し離れた場所でリンが『エイヴリルがんばれ〜!』と応援してくれる。手を挙げて応じたエイヴリルはそのままその手で額を拭く。汗と石炭が滲んで真っ黒だった。
その姿を見た火夫がますます引いている。
「も、もういいよ。誰か代わりの人間を呼んでくる……っつーか、そろそろ向こうの修理も終わる頃だし」
「まぁ。もう終わってしまうのですか? 残念です」
「あ……ああ?」
(ここに来てからまだ十分ほどしか経っていないのではないでしょうか?)
そう思ったところで、さっきの機関士の一人が顔を出した。
「修理、終わったぞ……ってうわっ⁉︎ おまえ、本当に石炭を焼べたのかよ」
「はい。貴重な経験をさせていただきました」
ニコリと微笑めば、ドン引きし呆気に取られていた火夫と機関士たちは顔を見合わせて笑い出す。
「すごい令嬢がいたもんだな」
「普段ここで石炭を焼べながら、『上では華やかなパーティーやってんだろうな~落としたフォークを自分で拾うことがない生活、いいな~』って話してるのが馬鹿らしくなったわ」
「ええ、私はフォークを拾う側ですね」
ついうっかり本音が口から滑り出たところで、リンがこそこそと耳打ちをしてくる。
『悪女ってすごく計算高いんだね。さっき皆の髪を結ってあげたのも、いま石炭を焼べるのを手伝ったのも、全部相手の心を掴んで作戦をスムーズに進めるためなんでしょ? さっすが悪女! なんてかっこいいんだろう。憧れちゃうよ』
『ああっ!?』
そういえばそうだった。エイヴリルはここに船を止めてくれるようにお願いしに来たのだ。興味深い経験をして楽しんでいる場合ではない。
(しかも、皆さんの髪を結って差し上げたことがいい結果に繋がったのは偶然ですし、石炭はただ私が焼べてみたかっただけです)
しかしリンにはなるべく黙っていようと誓う。せっかく喜んでくれているのだ、できるだけイメージを壊したくない。それにそろそろ本題に移らないと。ということで、エイヴリルは思い出したばかりの用件をあわてて切り出した。
「あの、皆様にお願いがあります」
「何だ? 石炭はもう間に合ってるぞ」
「いいえ、そういうことではなくて――この船を次の港で停めていただきたいのです」
「……は?」
ついさっきまでエイヴリルの奇行に首を傾げていた男たちは、全く意味がつかめていない様子だった。





