35.悪女のお仕事②
バックヤードに繋がる扉の先は、人間がやっと一人通れるぐらいの狭い通路になっていた。なるほど、これならば女性たちが逃げようとしてももたもたすることは容易に想像がつく。
(こちら側の扉の管理が甘かったのはこういう理由なのですね)
狭い通路を何とか通り抜けると、広い無機質な空間に出た。壁や天井には剥き出しのパイプが張り巡らされていて、まさにバックヤードという場所である。
『エイヴリル、機関室はこっちだよ』
すっかり慣れているらしいリンはエイヴリルの手を引いて案内してくれる。階段を降りていくと、室温が上がって熱気が伝わってきた。機関室に近いのだろう。
『この先におじさんたちがいる。何喋ってるのかお互いにわかんないけど、いい人たちだよ』
『なるほど。リンさんがおっしゃるのでしたら安心です!』
もたもたしている時間はない。時間的にもうすぐ次の寄港地に到着してしまうのだ。それまでに交渉を終えないといけなかった。
そうっと扉を開けると、会話が聞こえてくる。
「どうなってるんだ。次の寄港地では半日停泊するはずが、半刻で出港するようにというお達しが来てる」
「それ、燃料や物資の補給は間に合うのかよ」
「マートルの港でたっぷり積んであるから問題ないが……何だってこんなに急ぐんだか。クルーズ船のはずなのにちっとも遊べやしない」
(おばあちゃんやキャシーさんからすでにお知らせが行っているみたいですね)
なるほど、と頷いたエイヴリルは声をかける。
「はじめまして、機関士の皆さん。少しお話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
ムッとする熱気の中で立ったまま朝のコーヒーを飲んでいた機関士たちは、突然現れたエイヴリルを見て怪訝そうにした。
「きみはどこから入ってきたんだ? ここは危ない、一般客は立ち入り禁止たぞ」
「勝手に申し訳ございません。ですが私はこのバックヤードに繋がるお部屋におりまして」
「ん? ここは従業員専用の通路からじゃないと入れない立入禁止区域のはずだが」
三人の機関士の中で一番のベテランらしい男性の反応に、エイヴリルは察した。
(この方たちは船の一部区画に隠し部屋があることをご存知ないようです。もしかしたら事情を知れば味方になってくれるかもしれません)
すると、リンがエイヴリルの背後からひょっこりと顔を出す。
『ねえ、何飲んでるの? わたしにもほしいな』
「あっ、またお前か」
すると、顔見知りらしい機関士たちの表情が少し柔らかくなった。リンがしょっちゅうあの部屋を抜け出してバックヤードにきているというのは本当なのだろう。
『なんか香ばしい香りがする。お酒じゃなくてこれなぁに?』
「ここは遊び場じゃないんだ。危ないから来るなと言ってるのに」
『見たことない飲み物だね』
「ん? もしかして、このカップの中身が知りたいのか? これはコーヒーだよ。コーヒー」
『こーふぃー、ってなんだろ。黒いね』
「お前もどうしていつもこんなところに来るんだ。両親と一緒に船の旅を楽しめばいいものを」
「この客船には子供が好みそうなものが置いてない、探検して回るのも無理もないさ」
「確かに」
リンを中心にして会話が進んでいて、無邪気なリンは彼らと仲が良くかわいがられていることがよくわかる。そして、一方のエイヴリルは状況を把握しつつも目を輝かせていた。
(ここがヴィクトリア号の機関室……! 本で見たのとほぼ同じです……!)
「わぁ。ここもここもそこもここも! 全部本で読んだのと同じですね! こんなに大きなエンジンがヴィクトリア号を動かしていると思うと何だか興奮します……! この船には同じ形のエンジンが三つ。奥に見えるのはボイラーですね。ヴィクトリア号は石炭を燃やして蒸気を発生させエンジンを動かす仕組みの蒸気船です。他にも、船内の電力を供給している場所でもありますね。たえず石炭を焚べて燃やし続ける火夫や機関士の皆さんには頭がさがります……!」
本で見たものが目の前にそのままある。いつだって本で学んだものの実物を目の前で見られる時はとんでもない喜びを感じるのだ。だてに実家で隠されて育っていない。
(そういえば、以前ディラン様に悪女として連れて行っていただいたサロンコンサートの古城も凄かったですね)
あのときもわくわくして夢中になりディランに笑われてしまった。そのディランは今どこで何をしているのだろう。テレーザを捕まえた後、自分のことを探してくれているのだろうか。
(置き手紙などせずに、ディラン様に直接確認してから二等船室エリアに行くべきでした。きっと心配されていることでしょう……)
そんなことを考えたところで、一人の機関士がぽかんと口を開けて自分を見ていることに気がついた。
「あら? なにか?」
「いや……見たところアンタは一等の客だろう。どうして船の機関室なんて見て興奮しているんだ? 普通、最上階のデッキからの景色とかスイートルームの豪華さとか夜な夜な繰り広げられるパーティーに夢中になるものなんじゃないか?」
「ええと、そういう遊びには飽きましたから」
別に今は悪女を演じる必要はないのだが、リンの手前ちょっと大人ぶりたくなった。
エイヴリルと機関士の会話を聞いていたリンは言葉がわかっていないのに「さすが……!」というキラキラした瞳でこちらを見ている。ちょっとうれしくなってしまったが、喜んでいる場合ではないのを思い出す。
(いけません。こんなことをしている場合ではありません)
そう思ったところで、エイヴリルはあることに気がついた。
「あら。こちらのボイラーからは異音がしますね。もしかして故障中なのでしょうか」
★お礼★
『無能才女は悪女になりたい』小説2巻の重版が決定しました!
小説を重版していただけるのはじめてで、とってもうれしいです。
お手に取ってくださった皆様、本当にありがとうございます!
現在、書籍1-2巻とコミックス1巻が発売中です!
ぜひ、この機会にコミカライズ・書籍版もお読みいただけるとうれしいです。
また、書籍3巻は2024年3月発売予定です。
WEB版は三章のおわりまで毎週水曜日の20時に予約投稿を完了していて、3月の3巻発売日に三章最終話が更新される予定になっています。





