27.大好きな人のもとへ
「……私には好きな人がいたんです。結婚の約束をしていましたが、私の実家が没落することになり婚約は解消されました。彼は粘ってくれたのですが、彼のお父上が許してくださらなかったのです。縁談を失った私は下働きのメイドとして名門貴族の家で働くことになりました。それだけならまだよかったのですが」
「…………」
覚えのある内容にエイヴリルは言葉を失ったが、クラリッサは気づかない。
「その家の当主がひどい遊び人という話だったのです。いろいろな噂を聞いて私は震えました。それで怖くて、送りの馬車を途中で降りてしまったのです。歩きながらゆっくり気持ちを整理するつもりだったのですが……その途中で攫われてここに」
(なるほど)
リミントン子爵家にきちんと送り出されたはずのクラリッサが攫われたのはそういう事情があったようだ。加えて、前公爵に関わる悪い噂も今回の件の一因となってしまったことにエイヴリルはため息をついた。
(ランチェスター公爵家が前公爵様の別棟を放置し続けたことが、こんなふうに弊害を引き起こすなんて。公爵家のためにも、やはり一刻も早く何とかしないといけませんね)
そう思ったエイヴリルは聞いてみる。
「もしここを出られたら、クラリッサさんはそのお屋敷で働きたいと思いますか?」
「……はい。ですが数年間耐えて、実家に先払いされた給金分の仕事ができたら、元婚約者のところへ行きたいと思っています。ここに捕らわれている間に決心がつきました。彼のお父様は結婚に反対ですが、ずっと待っていてくれると言う彼を信じたいです」
「そうですか。わかりました」
エイヴリルとしては、ほかの屋敷を紹介できるのではと考えての問いだったのだが、クラリッサの答えは意外でびっくりするほどしっかりしたものだった。
(クラリッサさん……)
クラリッサのまっすぐな瞳を見ていると、なんだかディランの顔が思い浮かんだ。さっき、愛していますと伝えたときの驚いたような表情がびっくりするほど自分の胸を打つ。
(そうですね。お互いに、大好きな人のもとに帰れますように)
大きく頷いたエイヴリルは、誰にも聞こえないような小声でクラリッサに問いかけた。
「クラリッサさん、ひとつだけ教えてください。テレーザさんという方はここにいらっしゃいますか?」
「テレーザ? ……確か、私たちを見張っている方々の中のお一人がそんな名前だったような」
「本当ですか! 今はいらっしゃらないようですが」
「出航するまではここにいたのですが、そういえば姿が見えないですね」
(思った通りですね)
やはりテレーザはマートルの街を逃れてこの船に隠れていたのだろう。そして、キャシーも老婆もトマスもウォーレスも皆仲間なのだ。
エイヴリルがランチェスター公爵夫人だと知っているテレーザと鉢合わせたら結構まずい気はする。そのときは、ディランを手玉に取った悪女を演じるしかないだろう。
(弱気でお恥ずかしいのですが、あまりうまくできる気がしません。全力で避けましょう)
この先の振る舞いを決意したエイヴリルだったが、ちょっと待って、とクラリッサが教えてくれる。
「ただ、そのテレーザさん? は次の港で船を下りると言っていたような。その先は異国へと向かう長い船旅になります。私たちも異国へと売られます」
「まぁ、それは嫌ですね」
「嫌ですね、ってそんなあっさりと……。あなたは異国に売られるのがこわくないのですか?」
あまり動じず穏やかに微笑んだエイヴリルに、クラリッサは心底不思議そうだ。けれど、エイヴリルはさらに笑った。
「ええ、大丈夫です。私はここで一番の悪女ですから。皆さんのことは私が何とかしますわ。どーんと、大船に乗ったつもりでいてくださいね」
「…………」
大船にはもう物理的に乗っている。けれど、クラリッサはなぜかエイヴリルの言葉で心が楽になったらしい。涙を拭くと、穏やかに微笑んでまた横になった。
『クラリッサ、早く良くなってね』
小さな手で濡れたハンカチをクラリッサのおでこに乗せるリンの姿を見ながら、エイヴリルは考える。
(テレーザさんの行き先についても目論見通りです。マートルの街から逃げるだけなら、一つ港を移動すればいいだけの話なのですから。しかも、ディラン様ならそれを見込んで先回りしていそうです。事態はそんなに悪くはない気がします)





