17.初々しい夫婦のふりとは
エイヴリルとディラン――“ブロウ子爵夫妻”の前に立ったトマスは人好きのする笑みで話しかけてくる。
「この船でははじめてお目にかかるご夫妻ですね。マートルの港から乗船を?」
「ああ。新婚旅行でね。とてもいい街でしたよ」
ディランが形ばかりの笑顔で応じたが、エイヴリルは微笑むだけにしておいた。
(私はお話しせずにただ微笑んでいることに徹したほうがよさそうです……!)
思ったことがすぐに口から出ることがあるのはエイヴリルの悪い癖なのだ。この場は、俯いて静かに過ごした方がいいだろう。
「私はモローと言いまして、商人をしています。この船には商いのために乗船しているようなものです」
「ブロウです。これだけの客船だ、いい商売になるでしょう」
(モロー……。トマス・エッガーさんも偽名をお使いのようですね)
ただ微笑むだけにした代わりに、意識を飛ばしてざっと頭の中の貴族名鑑をめくってみた。けれど、該当しそうな家名はなかった。ここはお互いに偽名らしい。
つまり、トマスの行動には何か裏があるに違いなかった。ということで、絶対に自分があの日のチェスの相手だとバレてはいけない。
自分は初々しい妻初々しい妻初々しい妻、と心の中で唱えながら口を引き結び耐えるエイヴリルに、トマスの視線が向けられた。
「奥方殿のご出身はどちらで?」
「お、」
「妻は箱入り娘として育てられてきました。外で男性に直接話しかけられることに慣れていなくてね」
「!」
咄嗟に『王都に屋敷を構える男爵家の親戚筋に縁が』という設定を答えようとしたのだが、ディランがエイヴリルを抱き寄せて代わりに応じた。
ほっとした一方で、息が苦しい。さっきまでこれ以上近づけないと思っていたエイヴリルとしては過酷すぎる状況である。
(あっ、あの! ……距離が近いを通り越して……むむむむ無理なのでは!)
しかしなるほど、そういう設定なのか。男性に慣れていない箱入り娘ということなら、ほとんど喋らなくてもおかしくない。ディランの機転に感心したエイヴリルだったが、トマスは諦めずに話しかけてくる。
「船旅を楽しんでいらっしゃいますか」
「……はい」
なるべく声を聞かれないよう、空気を多めに吐き出しながら答えると、たどたどしいかすれ声になった。自分でもいい感じだと思う。しかし、この場をどうやって切り抜けたらいいのか。
(きっと、トマスさんは私たちに見覚えがあって疑念を確証に変えるために声をかけてきたのです。それならば、私は悪女に見えないように振る舞わなければいけません)
悪女の対極ともいえる立ち位置の箱入り娘といえば、こちらもまたなぜかコリンナである。もちろん、コリンナはエイヴリルの名前を使って外で遊び放題。実際に箱入りなのはエイヴリルの方だった。
箱入りとは掃除が得意なメイドのことか、いやどう考えても違うだろう。
(初々しい妻。そして男性のことが苦手な箱入り娘で、ついでに声を聞かれてはいけない……! これは、アレクサンドラ様と真逆な振る舞いをすればよいのではないでしょうか!)
アレクサンドラは夫となるローレンスのことを『面倒くさい男』とバッサリ切り捨て、余裕たっぷりにエイヴリルの知らないことを教えてくれ、りんごがあれば握り潰す才媛だ。
(ということは、私はディラン様をとても頼りにし、知らないことがあれば自信なさげに聞き、りんごがあれば配ればいいのです)
顔を上げたエイヴリルは、早速ディランのジャケットの袖をぎゅっと握る。これでとても頼りにしているように見えただろうか。ちなみに、立席形式になっているこの会場のどのテーブルにもりんごはなかった。
ならば、『頼りにしている』をさらに底上げしたい。不安げにディランに助けを求めるのがいいと思う。安易に答えを導き出したエイヴリルは、つま先立ちになり空いている方の手で口もとを隠すようにしてディランの耳に唇を寄せた。
これはパフォーマンスだ。トマスには聞こえないのだから何を言ってもいいのだが、何を言えばいいのか。昨日学んだ船の知識でも披露するべきだろうか。
(そうですね。せっかく、こんな素敵なパーティーでディラン様と内緒話をするのなら)
ディランの横顔を至近距離で見たエイヴリルは、船の知識を直前で引っ込めた。
「さっき、かわいいといってくださってありがとうございました」
「!?」
「私も新婚旅行に連れ出してくれた――あなた、がとても素敵だと思いました」
名前を呼んでしまいそうになったのだが、万一聞こえていたときのことを考えて『あなた』に言い換える。なるほど、これは初々しい妻っぽくていいのではないだろうか。
ディランは、初々しい妻を演じて『王都のアッシュフィールド家で催された仮面舞踏会で出会った悪女』とは全く別の印象を与えようとしたエイヴリルの意図を即座に理解してくれたようだ。
それなのになぜか動揺しているように見えるのがちょっとわからないところだが、もう少し喋りたかったエイヴリルはそこで終わらずに付け足した。
「――旦那様、愛しています」
ディランを揶揄ったわけでも、これまでに読んだどこかの本から初々しい妻っぽい言葉を引っ張ってきたわけでもない。自然に出てきた心からの言葉だった。
言ってしまった後で、エイヴリルはハッと固まった。
(あれ。私は今何を言いましたか……!)




