6.怖がられたい
目を見開き、顔を引き攣らせたまま固まってしまっている前公爵の前、エイヴリルはたくさん息を吸った。
「男爵家の二女として生まれたグレイスは初等教育を終えた後、両親の勧めで学校の先生になるため中等学校に進まずに師範学校へと進学しました。ですが当時師範学校を視察に行ったディラン様とクリス様が優秀な彼女に目を留め、未来のランチェスター公爵家の上級使用人として育てるために引き抜きました。前公爵様はディラン様が人事に口出しをすることに難色を示されたようですが、グレイスに課したペーパー試験の得点が満点だったことから許可を出しました。前公爵様とグレイスの間で有名なエピソードといえば、お目覚めの時間に関わるものでしょう。前公爵様が王都のタウンハウスにいらっしゃることがあったとき、グレイスは前公爵様の性格から察してお目覚めの声かけの時間を勝手に十五分早く設定しています。そのおかげで前公爵様は過去十三回、国王陛下からの呼び出しへの遅刻を免れています。二回は遅刻したようですが、そのときは前公爵様がグレイスの給金を減額したそうです。ですがディラン様はそれを隠れて補填なさいました。王都のタウンハウスでは知る人ぞ知るエピソードです。またグレイスは掃除もお洗濯も給仕も何でもできますわ。それに加えて、わたくしの好みを全て覚えて完璧に対応してくれる細やかな神経の持ち主です。さらにグレイスは過去五回の人事考課にかけられましたが、その結果はすべて最上級の評価を得ています。一筋縄ではいかない前公爵様も高く評価していた彼女は、悪女と呼ばれるわたくし付きのメイドとして非常に優秀ですの」
最後の方はただの自分のメイド自慢になってしまった気もするが、エイヴリルは満足だった。しかし、さっきまで真っ青だったはずの顔を真っ赤にしたグレイスがエイヴリルの袖を引っ張ってくる。
「なんっ……何でそんなことを知っているんですか」
「お気に入りだからです」
「お気にいり!? ……そういえば、アレクサンドラ様と初対面のお茶会でディラン様に対し似たようなことをなさったと伺ったことが」
「? そんなこともありましたね」
首を傾げれば、グレイスは「貴族が集まるお茶会で……旦那様に心底同情します」と遠い目をした。
確かに、あのときエイヴリルはコリンナのように話題の中心になりたがるはた迷惑な悪女を演じたところだった。しかし今は違う。エイヴリルは怒っているのだ。
グレイスへの日頃のお礼と愛を語り終えたエイヴリルは、腕組みをし仁王立ちで前公爵に向き直る。
「この家はわたくしのためにディラン様が維持しているのですもの。それならば、わたくしもわたくしのためにあらゆることを覚えておくのは当然のことですわ。前公爵様よりも、わたくしとディラン様の方がこの家にはふさわしいのです」
「……お、お前がそのメイドたちと仲がいいのはよくわかった。特別に贔屓にしている相手のことを覚えているのは当然といえば当然のことだからな」
そう応じつつも、前公爵は動揺を隠しきれていなかった。
なぜなら、ランチェスター公爵家では雇っている人間の経歴を詳細に記録する。勤める期間が長ければ長くなるほどその資料が膨大になっていくことを前公爵は身をもって知っているのだ。
しかもグレイスはまだしも、シエンナは王都のタウンハウスではなくこの領地の本邸で働く使用人だ。ディラン経由で経歴書に接する機会があったとしても、一度見たぐらいで覚えているエイヴリルが不自然すぎるのだ。ちなみに、当然だが覚える必要はない。
けれど、すっかり怒っているエイヴリルは引き続きえらそうに続ける。
「わたくしは、本気でこの家を乗っ取りたいのです。あれもこれもそれもあれも、何一つとして絶対に譲りませんわ。その、足元に落ちている資料の一枚ですらも」
「……これは書斎の書類だ。お前は帳簿を読みディランのサポートをすることもあるようだが、それとはレベルが違うんだ。……そっちのお前、シエンナだったな。拾え」
(まあ)
前公爵が散らばった書類をかき集めようとしてシエンナの名前を呼んだことに、エイヴリルは驚いた。ディランならば当たり前のことだが、愛人の名前しか呼ぶ気がない前公爵にしては意外な振る舞いだったからだ。
(このようにいきなり代替わりを否定したり、まともな振る舞いをしたり……前公爵様はなんだか掴みどころのないお方ですね?)
しかし今はそれどころではない。エイヴリルはこの書類を回収し、息子とその妻は面倒だから関わらないようにしようと思わせたいのだ。
エイヴリルは書類を拾おうとしたシエンナの肩に手をかけ、止めた。それから、シエンナの代わりに自分で書類を拾い集めると丁寧に形を整えた。
そうして、前公爵に書類の束を手渡す。
「こちらの書類は、国王陛下に提出を命じられた報告書ですね」
「それがどうした」
「昨年、作物の不作により国中が不景気に陥りました。この書類は、そのときに唯一ランチェスター公爵家だけが赤字を免れ領地経営を上昇に転じさせたことについての記録と報告です」
そこで、じっと静かに話を聞いていたグレイスが訝しげな表情になった。
「……エイヴリル様。それって、以前エイヴリル様がお気づきになった『法律の例外』のおかげで税収が大幅アップして公爵家が救われたというものですか?」
「ええ、そうよ」




