夜の帝都
「それじゃあトオル君。働くのは明日からお願いする。今日はゆっくり休みなさい。」
サクラさんはそう言うとアンディラに2階を案内するように告げた。
「ウチのギルドは1階はギルドと受付で、2階は寮になってるんだよ。」
この建物はどうやら3階建てのようだが、アンディラの話曰く3階は使われていないようだった。
階段を上がり2階に着く。小さな部屋がいくつか並んでおり、どれもスタッフ用の部屋なのだとアンディラは言った。
「一番奥がサクラさんの部屋、その手前がボク、もう一個手前が君の部屋。それ以外は空き部屋ね。」
アンディラが俺の部屋の扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。
「じゃじゃーん、どう?掃除は毎日してるから綺麗でしょ?」
部屋自体の大きさはそこまで広くない。だが、清潔感のある部屋に非常に好感を覚えた。
簡易なタンス、質の良いシングルベッド、書き物机に鏡台。生活に必要最低限の物が揃っている。
「で、トイレはここで、お風呂はここ。大きなお風呂に入りたかったら外に銭湯あるから声かけてね!一緒に行こう!」
なるほど。水道設備は元の世界と変わらないぐらい発達しているようだ。
部屋の説明を終え、「ボクは死体を片付けないとだから、またね!明日からよろしくー!」と足早に去っていくアンディラを見送る。
「本当にこれが現実なんだな。」
未だに理解が追いついていない部分があるが、これは紛れもない現実である。
聞き覚えのない国や大陸も、魔法も、記憶喪失も、全て現実だ。
「はあ……。」
一気に精神的な疲れが押し寄せてきた。それもそうだろう。疲労していないはずがない。
その時何気なく鏡台が目にとまった。
そう言えば、自分の顔がしっかり思い出せなかったのだ。
だから先程アンディラが俺を「綺麗だ!」と連呼していてもあまり実感が湧かなかった。
好奇心のあまり、俺は鏡台を覗き自分の顔を見ようとする。
「……!?」
そうだ。確かにこの顔には見覚えがある。
艶のある黒檀の髪、闇に溶けそうなほど黒い目、性別を感じさせない美しい顔立ち。
これが俺の顔……?
俺の顔と言うよりかは。
この顔は、母の顔によく似ている。
「そうだ、思い出した。」
俺の顔は母の顔によく似ていたのだ。
波打つように記憶が押し寄せてくる。
これは母の顔で俺の顔。
冷や汗がポタリと俺の手の甲に落ちた。
冷たさで混乱が少し収まる。
何かとても嫌なことを思い出しそうだった。
……このことを考えるのは止めた方が良い。
少なくとも今はその時ではない気がした。
やけに疲れたな。
精神的な疲労だけでなく、強い肉体的な疲労を自覚する。
俺はおもむろにベッドに横たわった。
心地よい肌触りのせいか俺は急激な眠気に襲われた。
少しだけ眠ってしまおうか……。
強い眠気に抗えるわけなく、俺は意識を手放した。
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空腹時の吐き気は最低な感覚だ。
目が覚めた時、窓の外の暗さから今が夜であることがわかった。
どうやらかなり長い時間眠ってしまっていたようだ。
吐き気を抑えていると、グゥーと高らかに腹の虫が鳴いた。やはりこの感覚は不快だ。
何か物を食べたい。
その時、俺は残酷な事実を思い出す。
俺は無一文なのだ。
「どうする?野草でも食うか?」
残念ながらこの帝国の首都、言わば“帝都”には草一つ生えていない。綺麗に除草されている。
八方塞がり。このまま飢えて死ぬしかないのだろうか。
「それは困る!この部屋に何かないのか!?」
俺は必死の思いで部屋を探った。
食べ物があれば良い、または金銭の類い。
……残念ながら食べ物は無かったが、タンスの下にコイン一つを見つけた。
「良かった、金だ……!」
このコイン一つでサンドイッチ一つは買える!
思わぬ収穫だ……!
俺は歓喜のあまり目頭が熱くなるのを感じた。
そして少し違和感を覚えた。
このコインはどう見ても元の世界の通貨ではない。それなのになぜ、俺はこのコインの価値を知っていた?
訳の分からない感覚にそこはかとない恐怖を感じる。これは一体どういうことだ。
……考えていても埒が明かない。
そう、考えるのは栄養補給をしてからだ。
俺はコインを握りしめ、この自室の扉を開いた。
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昼の帝都と夜の帝都。騒がしさは同じだが、喧騒の質が違う。
そう、簡単に言うならば“民度”が低い。
健全な商人や住人は引き払い、今大通りにいる人らは皆ギルドで倒れていたガラの悪い男たちと同じような者に見える。
俺は少しだけ身の危険を感じながらも健全な店を探す。
昼はあんなに良い街なのに、夜になるとこんなに怖い所になるなんて……!
テキトーに店を選んでしまっては何を盛られているかわからない。きっと眠り薬か何かを盛られて人さらいに連れ去られるのが関の山だ。
ここは慎重に店を選ばなければ……!
店を吟味する中、俺は複数の人からの視線を感じた。
道行くガラの悪い男たちからジロジロと見られている。
無論、気分の良いものでは無い。
それに、命を危険を感じる。
俺はなるべく足早に帝都を歩く。
……健全な店はないのか!?
その時だった。
ガンッ
「痛った……!」
屈強な男に思い入りぶつかられたのだった。
瞬間、俺の顔は青ざめる。
これは面倒なやつだ……!
「おいおいおい、どこ見て歩いてんだよ……アァン!?」
身長およそ190cm弱、筋肉隆々、傷跡多数のタトゥー多数。
髪の毛は重力を無視するかのようなセット。
明らかにチンピラだ。
「あ、あぁ……その。」
「てめぇ、オレサマの服が汚れちまったじゃねぇか!?
どう落とし前つけんだゴルァッ!」
大の大人が子どもにメンチを切らないで欲しい……!
強面に凄まれ本能的に俺は怯えた。
どうしよう、これは一大事だ。こんな大男の拳一つ食らったら死ぬ。かと言って金はない!どうしよう!
「ご、ごめんなさい……。」
「あ?ゴメンで済むなら警察いらねぇんだよ!」
この世界に警察がいるのか……!?
という疑問はさておき、やはりピンチなのは変わりない。
それにこのベタな展開、続くのはお決まりの……。
「てめぇの身体で支払ってもらおうか……んん?」
「やっぱりそう来るか……!」
「アァ!?舐めてんのかてめぇ!」
「む、むごい。」
ベタにベタを重ねる俺。先程から恐怖で汗が止まらないが打開策は一切思いつかない。
騒ぎを聞きつけて周りに人集りもでき始めた。
誰か助けてくれてもいいんじゃないかな……?
否、夜の帝都において喧嘩は娯楽なのだ。
それを肌で感じただ絶望する。
「へっへっへ……。良いカモだぜ。」
大男が俺の胸ぐらを掴んだ。
すごい力だ。驚きだ。このベタベタな展開にも驚きだ。
俺は不意にとある人物に目をとめた。
路地の壁に寄りかかり、この騒ぎを遠巻きに眺めている人物。
ボロボロの黒いローブのフードを深く被り、顔は良く見えない。
身長はそう高くなく、ガタイも良くない。
しかし何故か不思議と、強いオーラを感じる人物だった。
そしてその人物は、おそらく、俺をずっと見ている。
「おいてめぇ、よそ見してんじゃねぇぞ!」
大男が大きな声で叫ぶ。
何ヘルツで叫んだかわからない。あまりの音量に鼓膜にダメージを感じた。
「うる……さ!」
「ぁんだよ!アァン!!?」
先程からこの大男の語彙力はどうなっているのだろう。
突然、大男が凄むのを止めて俺の顔をマジマジと見だした。
ん……んんん?
この流れはもしや……?
「なんだてめぇ、女かよ?」
こうなると思った!そうだ!絶対にこうなる!
自分で言うのもなんだが、俺の顔面偏差値はかなり高いくて、なおかつ女顔だ!
実感はないが事実はこうだ!
と、なればこの先に続くのはおそらく「てめぇを売れば良い金になるぜ……へぇっへぇっへぇっ……。」である。
「てめぇを売れば良い金になるぜ……ヘッヘッヘッ……。」
「へぇっへぇっへぇっ……」ではなく「ヘッヘッヘッ……」であったが、おおよそ内容は変わりない!
いずれにせよピンチだ!
俺は抵抗を試みた。人に売られるのも殴られるのも御免こうむる!大男の腕をつかみ必死に見悶える。
俺が抵抗を始めたことで、周りの野次馬が沸き立った。
くっ……、この野蛮人め!助けるとかそういう発想はないのか!
「ちっ……くそ、てめぇ抵抗してんじゃねぇぞ女!」
しまった。
大男が拳を振りかぶった。
殴られる。
俺は目を瞑ろうとした。
だが、驚いたことに、俺は大男の拳をどうすれば避けられるのか瞬時にわかったのだ。
こういう状況の時はどうすれば良い。
足がフリーだろ?
その足は飾りか?
否、ヤツを蹴り伏せるためにあり!
「ハァッ!」
俺は腹筋の要領で足を強く蹴りあげ、遠心力と共に大男のこめかみに叩き込む。
「ガッ……グアッ……!」
ヒット。大男の力が抜け、俺は解放される。
ずっと胸ぐらを掴まれていたせいか、制服の生地が酷く傷んでいる。
「このっ……、クソアマ、ふざけた真似してんじゃねえか……!」
大男がキレて、野次馬が楽しそうに沸く。
だが、この状況下にあっても不思議と俺の精神は落ち着いていた。
忘れていたことを思い出したからだ。
こういうヤツの潰し方、俺は知っている。
「クソがーっ!」
大男が力任せに俺を叩き潰そうとする。
残念だが、狙いが甘く隙も大きい。簡単に避けられる。
その上利用もしやすい。
俺は素早く大男の横に回り込み、大男の振り下ろした拳の力の向きに合わせて蹴りを加えた。
「なっ、……?」
思わぬ力に大男はバランスを崩し、惨めに床に転がった。
「ヒューッ!」
「やるねぇ、お嬢ちゃん!」
「カッコイーぞー!」
まるでコロシアムの見世物になった気分だ。
やはりあまり良い気分ではない。
なにより、俺は男だ!
と、いうのは正直どうでも良かった。
恥をかいた大男はいよいよ本当に理性を失ってしまったからだ。
「グアァァァアアア!グォォオオオオッ!!!」
人語すら発さなくなる。こうなるとただの獣だ。なんて見苦しい。
……なるほど。サクラさんやアンディラの言っていた「猛獣共の相手」とはこういうことを言うのかもしれない。
俺は襲いかかってくるであろう大男の猛攻に耐えるため、戦闘の構えをとった。
「ゥバァァウッァァアアアア!!!」
その時だった。
ゴシャッ
全く気配を感じなかった。
黒いボロボロのローブ。
かの人物が大男の突進を片手で受け止めたのだ。
あまりの離れ業に息を呑んだ。
それは周りの野次馬も同じ。沸き立った空気が一気に沈静化した。
ローブの人物はそのまま、男を地面に転がす。
「ウバゥッ……。」
「ほんっとうに醜いんだが、オマエ。」
ローブの人物が口を開いた。
若いが威圧を感じる男の声だった。
ローブの男がツカツカと転がった男の元へ歩き、そのまま男を踏みつけた。
「グゥ……!グゥゥ……!」
「この帝都で乱暴は御法度だぜ。建前上は。」
「グゥ……。グゥ!?」
ローブの男が大男の頭を掴み、そしてこう言った。
「あまりオレの目の前で馬鹿げた真似をしてくれるな。」
「あっ、……。ひ、ひぃ……!ヒイイィ……!」
大男はおそらくローブの男の顔を見たのだろう。
たちまち大男の顔は青ざめ、汗をタラタラと垂らし、自分のしでかした不祥事の重みを理解した。
このローブの男、只者じゃない。
「さて、てめぇらも散れ散れ!全員殺されてぇか!?」
ローブの男が群衆に向かって叫んだ。
群衆は恐れをなしたかのように途端に散り散りになり、大男も抜かした腰を引きずりながらどこぞへ消えてった。
残ったのは俺とローブの男のみだ。
「っと、怪我はないか?」
「助けてくれても良かったじゃないですか!」
「あれ、アンタ、男だったのか?」
「初めから最後まで男です!」
シレッと言うローブの男。
だが俺は知っている。この男が俺が脅されていたのをずっと遠巻きに見ていたことを!言わば見殺しにしようとしていたのだ!
「わりぃわりぃ、でもアンタならオレの助け無しでも大丈夫だったろ?」
「すごい怖かったんですよ!助けるならもっと早く助けて下さいよ!」
「なんだおめー、意外と図々しいな……。」
ローブの男は俺の剣幕に引かれたようだった。
しばらくして、ローブの男は根負けしたように降参のポーズをとった。
「はぁ、悪かったよ。ホントに、スマンかった。お詫びに何か奢らせてくれ。」
ローブの男は手を差し出した。
これは……握手か?
「何だかアンタとは長い付き合いになりそうだからな。」
俺は少しだけ考えてから、彼の手を握り返す。
彼の図体と若さには似合わないほどの戦闘経験を積んだ手のひらだった。
「オレは……、そうだな、マークだ。マークと呼んでくれ。」
ローブが少しだけ揺れ、マークの口元が見えた。
少しだけ笑っていた。
「俺はトオルです。……よろしく。」
そしてゆっくりと手を離した。