第136話 The Last Bertina's perspective:黄昏の地で眠る剣士
「先生ッ!! 諦めないでッ!! まだ、まだ助かりますッ!!」
懸命に治癒魔法をかけてくれるシェリーちゃん。その姿を見ると、その双眸には涙が溜まっていた。言葉ではそう言っているも、もう……わかっているのだ。私だけじゃない、シェリーちゃんも……すでに理解している。
私は……もう間に合わない。
あとはゆっくりと死んでいくのを待つだけなのだと。
知っているとも。10年前は私が彼女の場所にいたのだから。
「シェ……リー……ちゃ……ん……」
「先生ッ! 喋ってはダメですッ!! まだ、まだ危ないですからッ!!」
自分の体に重ねるようにして施される治癒魔法。それは私の負傷した箇所を確かに修繕してくれるも……気休めでしかなった。血は止まりつつある。でも、流れ出た血を戻すことはできない。この場でこの体に血を一気に入れることができるのならば、間に合うかもしれないがそんなことは不可能だ。
もう……私は十分だった。十分、もう……十分に生きた。私は残った右手に力を入れると、なんとかシェリーちゃんの右の頬にそれを持っていく。
「……シェリーちゃん……もう……もう……いいよ……ありがとう……今まで、本当に……」
「先生……」
ボロボロと零れ落ちる涙は止まることはない。すでにシェリーちゃんも気がついている。私はもう、間に合わない。あと10分もすれば、絶命しているだろう。彼女は治癒魔法を止めて、私の手に自分の手を重ねてくる。私の体はすでに血塗れで見る人が見れば、嫌悪感を覚えることだろう。でもシェリーちゃんはそんな血塗れになっている私の右手をしっかりと握りしめてくれる。
その暖かさを、決して忘れないように。
そうして私は、彼女に伝え始めた。相手の魔人の能力と、対処法を。私の伝えられるだけの情報は……伝えた。全てを託したのだ。
「……これで……終わり……シェリーちゃん……後は……これを……」
「……これは、先生の……」
「魔剣、朧月夜……きっと……シェリーちゃんの……力に……なる……よ……」
「……先生。任せてください。先生の仇は絶対に……絶対に、私が……私が果たしますから……」
「うん……シェリーちゃん……なら……きっと、できるよ……絶対に……私は……そう……信じているから」
「……はい……はい……絶対に成し遂げます……」
ボロボロと落ちる涙が私の手のひらにも溢れてくるも、もう……暖かさは感じなかった。何も、何も感じなくなって来た。
あぁ……死ぬときはこんな感じなのか……。私は他人事のように、そう思った。それに懸念もあった。それは、少佐の件だ。
少佐に顔向けできないなぁ……と。私はあの魔人を、少佐を殺した魔人を殺すために今まで戦ってきた側面もある。もちろんそれが全てとは言わないが、それでもいつかこんな日が来ると思って私は努力に努力を重ねて……そうして黄昏症候群を乗り越えて、ここまできた。人の先にたどり着いて、勝利を確信した。
でも、私は負けた。届かなかった。あの魔人は……アルフレッドは、私の一歩先を行っていた。そう、一歩だ。たった一歩。敗因はそれだけ。差で言えば、それくらい。だが、勝者は生き残り、敗者は死ぬのみ。その差はわずかだが、結果は大違いだ。あまりにも大きい差。
だがそれでも私は……ここで死に絶えようとも、後悔だけはなかった。最善を尽くした。私は自分の中で最高の能力を発揮した。その上で、敗北を喫したのだ。後悔などあるはずがなかった。きっと少佐に言ったら怒られそうだけど、今の私は満たされていた。
ずっと、ずっと、この人生は苦しみばかりだった。幼い頃から黄昏で戦うために、血の滲むような努力を重ねて、今まで数多くの仲間の死を見てきた。仲間の葬式に出ることもとっくに慣れきった時に私は思った。
――この人生に、意味はあるのか……と。
どれだけ多くの魔族を殺し、どれだけ多くの死に直面し、心を削り、体を削り、この人類のために全てを捧げても……たどり着く先は何もない荒野ではないかと。
時折、夢で見る。自分が何もない荒野に一人ぼっちで立っているのを。
私はあの場所にしか辿り着けないのではないか。そんな恐怖に雁字搦めに縛り付けられ、もう何もかも嫌になりそうな時……私の隣にはいつも少佐がいた。
少佐に支えられることで、私の人生に意味ができた。
――彼のために戦いたい。そして、彼が愛する人類のためにも私は戦いたいと。
だが、私は少佐を失った。初めは何もやる気は起きなかった。でも習慣とは恐ろしいもので、いつもの時間に起きて、私はいつものように軍服に袖を通してそのまま軍靴をカツカツと鳴らしながら基地内を歩いていた。
そこから先は、数多くの大切な人々と出会ってきた。リアーヌ様と出会い、そして新しい特級対魔師の面々とも出会い、それに軍の中でも部下には優しく接してきたつもりだ。全ては少佐の見様見真似だが、それでもその行為こそ私がすべきことなのだと信じて、ずっと続けてきた。
そんな中で弟子を取ることもできた。今その弟子は、私を看取ってくれている。なんの因果か知らないけれど、シェリーちゃんがこの場にいてくれるだけでも、私は幸せ者だ。きっとあの時の少佐もこんな気持ちで、あの時の言葉の意味を私は、やっと理解できたのだ。
『ばか、気にする……な。俺はな、最後に黄昏病で……朽ちるように……死ぬんじゃなくて……大切な……愛するベルを守れて……死ねることが……嬉しいんだ……だから、そんな表情をする……な……』
その言葉の意味は初めは分からなかった。でも今なら、分かる。私もまた、黄昏症候群によって朽ちるように死にたくはなかった。自分が死ぬのならそれは戦場でありたかった。もちろん、黄昏から解放されることこそが最終目標だが、死ぬと仮定するのならば、その気持ちに偽りなどなかった。
だから、私は満足だった。この戦いで守れたものなどなかったけれど。何一つこの戦いで成し遂げることはできなかったけれど。
それこそ、師匠のように弟子を守ったわけではない。ただ情けなく敗北した対魔師であったけれど、きっとシェリーちゃんがこの意志を継いでくれるだろうと、心から信じているから。
後悔など、微塵もありはしなかった。
「先生……私は……私は……」
「シェリー……ちゃん……頼んだよ……世界を、人類を……どうか、どうか……」
「……はい、先生」
少佐と同じことを言うも、それは真似をしたわけではなかった。ただ自然と言葉が出てきたのだ。
もう自分の出る幕はない……ならば、後続に任せよう。大丈夫。みんなは、強い。きっと、きっと、たどり着いてくれるはずだ。この黄昏の先に……みんなならばきっと……。
あぁ……今ならよくわかる……あの時の……少佐の気持ちが……とても、よく……わかってしまう……。
「任せてください……先生……私は、私たちは……絶対に黄昏を打ち砕いて……みせますッ!!」
「うん……信じて……る。信じて……るよ……」
シェリーちゃんとの付き合いは少佐との付き合いに比べれば短い。それでも時間ではない。彼女との付き合いはたとえどれほど短いものだったとしても、大切な宝物のような時間だ。先生、と慕ってくれる彼女には本当に頭が上がらない。口下手で、教えるのも下手な私にずっとついてきてくれた。ちなみに、先生と呼んでもらっているのは師匠と呼ばれるのが恥ずかしいからだ。
だって私のとっての師匠はあの人しか、いないから。
そうして私はシェリーちゃんの先生になったのだが、きっと、きっと彼女ならたどり着いてくれる。私がたどり着いた終の秘剣に。いや、シェリーちゃんならその先にだって行ける。その才能は私よりも上だ。少佐が私の才能を認めてくれたように、私も彼女の才能を認めている。
きっと、シェリーちゃんなら……あの魔人に打ち勝つことができる。
そう信じて、私は最期の言葉を紡ぎ始める。
「シェリーちゃん……こ、これを……」
「これは……?」
「リアーヌ様に……渡して……そして、お世話になりました……と……伝えて欲しい……今まで、本当に……ありがとうと……」
「……確かに。必ず届けます。これも、その言葉も……」
「うん……」
私はついこの前もらったペンダントをシェリーちゃんに渡す。それは私の血でべっとりと染まっているも……おそらく、リアーヌ様ならば……この遺品も……大事に……大切にしてくれるだろう……。
あぁでも……約束、破ってしまったなぁ。絶対に帰ると誓った。その約束は破ったことはない。黄昏から解放されたのならば、一緒にケーキ屋さんをやろう。その夢も、もう叶いはしない。
リアーヌ様は強く見えるが、弱い面もある。まだ15歳の子どもなのだ。当然だろう。私が死んだことを知ってしまえば、絶対に泣いてしまう。立ち上がることができなくなってしまうかもしれない。知っているとも。リアーヌ様は確かに聖人であり、天才だ。その天才的な頭脳から、皆は彼女を恐れ、そして崇め奉る。
でもやっぱりそれでも、少女であることに変わりはない。みんなと同じように感情があって、嬉しいことがあれば笑うし、悲しいことがあれば泣いてしまう。
そんな当たり前の感性を備えた誰よりも美しく、そして強い人だ。
ずっと彼女は独りだった。そばには私しかいなかった。リアーヌ様を忌避する人は今まで数多くいた。それでも彼女の魅力を、その内面の美しさを知っている人もいる。それはエイラちゃん、シェリーちゃん、ユリア君などを見ればわかる。彼、彼女らはリアーヌ様と真正面から向き合ってくれている。そういう人も、もうリアーヌ様の側にはいるのだ。
そう。もう、彼女は独りじゃない。たくさんの仲間に囲まれているのだから……。
だから、大丈夫ですよ。リアーヌ様。私がいなくても、あなたは……立派に立ち上がって、進むことができます……。仲間たちが絶対に支えてくれますから……。だから乗り越えてください。私の死を乗り越えて、その先の世界に……青空に、どうかたどり着いてください。
「ねぇ……シェリーちゃん……」
「はい、先生……」
「空が……空が綺麗だね……綺麗な……青空だよ」
「はい……はい……綺麗な……とても綺麗な、青空です」
もう目は見えていなかった。音も遠くなっていく。でも今の私には、たとえそれが幻覚であり、夢現であったとしても、確かに視えていた。
これが、これこそが、私たちがきっとたどり着く場所である青空なのだ。この悍ましい黄昏を超えた先にある世界。そこには私はもういない。でも、私の意志を継いで、残った対魔師のみんなが戦ってくれる。
私が今まで数多くの仲間の死を背負って戦ってきたように、私の死もまた誰かに背負ってもらえる。
あぁ……死ぬと言うのに、全く後悔はなどない。憂いはない。心配などない。信じている。みんなを、愛したみんなを……信じ切っているのだから。
私がいなくとも、世界は回る。この世界は回り続ける。私はそこから外れて、遠くへ旅立ってしまうけれども……もう十分だ。十分生きた。
さて、お別れの時間だ。
「みんな……さようなら……そして……ありがとう。みんななら……きっと……きっと……辿り着けるよ……この黄昏の果てに……ある……青空……に……」
涙が零れ落ちる。それは私の頬を伝って、そのまま地面へと落ちてゆく。
やっぱりどこか寂しい気持ちはある。できることならば、この世界を、青空を本当に見てみたかった。そして平和な世界で、みんなと一緒に穏やかに暮らしてみたかった。私たちの後輩は一体どんな風に育っていくのか。それに、リアーヌ様はどんな大人になるのだろうか。きっととても美しい、誰よりも可憐な女性に成長するに違いない。
でも……それは叶わない。
だから私は……待っているよ。この黄昏の先で、その果てにある青空に私はずっといるから……だから、どうか、どうか……。
この世界に、安寧が訪れますように……。
「……!!」
なにやら大きな声が聞こえる気がするけど、もう……私の意識は微睡みに落ちていくように……くるくる回るように……闇の中に、真っ暗な奈落の底に沈んでいくように……落ちて、落ちていく……。
――さようなら、世界。
◇
「……ここは?」
目が覚めると、私は真っ白な、でもどこか青みがかった世界に立っていた。そして目の前には……師匠がいた。
にこりと微笑みながら、彼は私に話しかけてくれる。
「よう、ベル。お前も来ちまったか」
「師匠……どうして」
「さぁな。ここがどこだか、そんなことは誰にも分からねぇ……でも、ベル。お前はどうしてそんなに泣きながら笑っているんだ?」
「どうして……どうしてでしょうね……」
「託して来たのか?」
「はい……大切な人たちが、たくさんできました。その人たちに……全てを……託して来ました」
「そうか……ずっと、俺がいなくなってからも……頑張ってきたんだな。少し老けたようだしな」
「……バカ。老けたは、余計です……」
師匠の胸の中に飛び込む。
あぁ……これはきっと、私に与えられた最期の猶予だ。この世界から弾かれてしまう前に、見ることのできる暖かい夢。分かっているとも、もう師匠も……そして私もあの世界にはいないのだから。
分かっているとも。私も、師匠もただの死人だ。それでもこの世界では、最期の時間を師匠と過ごせるのは……たとえ、夢幻でも構わなかった。ここがどこの世界かなんてどうでもいい。
ただただ、この意識がある中でもう一度師匠に会えるのなら……どこだって構わない。
死という終着点へのほんの寄り道。だが私はそれでも十分過ぎるし、自分は恵まれているのだと思った。
最愛の弟子に見送ってもらい、死へたどり着くまでに師匠にまた出会えたのだから。これほど幸せなことはない。私はそう断言できる。
「師匠……私は、ちゃんと頑張れたでしょうか?」
「あぁ、もちろんだ。誰がお前を育てたと思ってる? この俺だぞ?」
「ふふ……そうですね……そう……です、ね」
「なぁベル」
「はい」
「お前は満たされたのか?」
「はい。私の人生は、しっかりと満たされました。後悔など……ありはしません。きっと私たちの仇は……私の弟子がやってくれます」
「ほぅ……お前にも弟子ができたのか?」
「はい。彼女は強いですよ? 私よりもずっと、ずっと強いです」
「ははは……それはスゲェ話だな。でもお前が、ベルがそう言うんなら……間違い無いだろうな」
「ふふふ……そうです。師匠に教えてもらった全て、それに私の持っている全てを伝えたんですから」
「そうか……」
「はい……」
温もりを感じる。確かな暖かさだ。あの時の……10年前のような……。
「……」
「……」
視線が重なる。
そうして自然と吸い寄せられるようにして、口づけを交わす。
あの時の、あの一晩以来だ。これはきっと、神様が与えてくれたささやかな余韻。私が本当の意味で死んでしまい、この意識を世界から消失させる前のわずかな……幸せの時間だ。
師匠と私は少しだけ距離を取ると、彼が私の手をしっかりと握ってくれる。
「ベル。行こうか」
「……行くってどこに?」
「この果てにある、世界の彼方に」
「……はい。師匠……」
手を繋ぐ。私は師匠の暖かさをこの手にしっかりと感じながら、進んで行く。
この光の果ての彼方に進むようにして。
そうして私たちは、光に飲み込まれるようにして消えていった――。