第115話 進行する悪意
コツ、コツ、コツ、という音が反響する。その人物の見た目は、あらゆる点において上質と形容するほかない。髪はオールバックで纏めており、着ている服もまた上質なスーツであり埃ひとつ、皺ひとつ付いていない。靴はスーツの色に合わせて真っ黒なものだが、僅かに茶色が差しておりそれがまたアクセントとなって引き立っている。
顔つきもそれにふさわしいくらいに整っている。高い鼻に、その双眸もまた、まるでガラス玉のように綺麗にはめ込まれている。一見すれば人間に見えるだろう。だが、それは違う。彼は人間ではない。それはその灼けるような瞳、それに彼を覆っている魔素の量を見ればわかるだろう。これは……魔人なのだと。
「……久しぶりですね、ここは」
そう呟く彼の名は、アウリール。聖十二使徒、序列4位。そんな彼はある場所を歩いていた。なんの光もない、空間。彼はただ真っ直ぐにその空間を進む。反響する音から、そこはトンネルのようになっていると分かる。と言ってもアウリールにとって、光のない場所、音のない場所など些事に過ぎない。聖十二使徒の魔人は全員が黄昏眼を保有しているからだ。
彼だけでなく、この世界で真の強者になるには魔素の知覚こそ全てなのだから。
「アウリール様、本日は少々スケジュールが押しております」
「リナ、いつもありがとうございます」
「いえ。私はアウリール様に仕える駒に過ぎませんので……」
「謙遜を。私はいつもあなたに助けてもらっていることは理解しています。さて……そろそろですかね」
アウリールの隣にいる魔人の名はリナといった。彼女もまた、長い髪をアップに纏め彼と同様にスーツを着ている。それは彼を尊重してのものだ。リナは心からアウリールを尊敬しており、彼に仕えることを至上の喜びとしている。そんな彼女が、彼の同様の服装をするのは自明なことだった。
そして二人はその通路を抜けると、開けた場所に出てきた。
円状に広がる空間。そこには街灯が灯されており、魔素だけでなく視覚で周囲の状況を把握できる。
「なんだ……貴様は……」
どこまでも低い声。その発声器官は人間、それに魔人などとは同じとは思えない。そもそも、人間、魔人、亜人はベースが同じなためここまで低い声が出せるものはない。つまりは、目の前にいるのはその3種のどれでもない。
大きな体躯に、両手には巨大な鋏。尻尾もまたそそり立つように、天に伸びている。ざっと見て、体長は10メートルを優に超える。黄昏と同じ、赤黒い色をしたその個体はただの蠍ではない。
古代蠍。それがこの魔物の個体名。何百年と生存し、人魔大戦も経験している魔物の中でも最古参に入る魔物だ。そんな古代蠍の巣にやってくるものは、普段はいない。いやここ数十年はいなかった。客など、くる余地はない。やってくるのはただの餌でしかないのだから。
この場に転がっているのは、様々な生物の骨だ。魔物もそうだが、亜人、それに人間の骨もまた転がっている。
「食事の最中に邪魔をするとは……分かっているのだろうな?」
さらに低い声でそういう古代蠍。彼の右手の鋏の中には、そう……人間がいた。それも女性だ。裸にされ、そのまま捕食されようとしている瞬間だった。女性はアウリールとリナの姿を見て、安堵する。助けが、ずっと求めていた助けがやっと来たのだ。ここに連れ込まれた人間は目の前でことごとく捕食された。そして最後が彼女だったのだ。もちろん、すぐに声をあげて助けを求める。
「……た、助けて!!」
「おや、お食事の最中でしたか。これは失礼いたしました」
恭しく、相手の機嫌を損ねないように、綺麗に礼をするアウリール。それに合わせて、リナもまた礼をする。
「礼に始まり、礼に終わる。私は相手に礼を尽くします。お話はお食事の後で構いません。どうか、お続けになってください」
顔を上げると、ニコリと微笑む。アウリールは目線を女性に合わせる。
その瞬間、女性は悟った。あぁ……自分はここで死ぬんだと……。
「……賢いものは、嫌いではない」
そういった瞬間に、女性は頭から飲み込まれていった。叫ぶ暇など、なかった。骨を砕く音、肉を噛み切る音、それらが全て相まって……数分が経過。古代蠍の口元からは、その女性の血が滴っていた。それを見て、アウリールは何も思いはしない。あぁ、やっと話ができる。その程度のことでしかない。彼にとって人間とは、その程度の存在でしかないのだから。
「お話をしてもよろしいでしょうか?」
「……いいだろう。魔人よ」
「単刀直入に言います。我々に協力していただけないでしょうか」
「……統一戦争は魔人の勝利と聞いたが?」
「現在は情勢が変化しております。魔物と亜人が手を組み、連合軍を形成。魔人に対抗している最中です」
「……我らは今回の統一戦争には参加しない。それがたとえ誰の誘いであってもだ」
「いえいえ。協力の件は戦争ではありません」
「……では、なんだというのだ」
「人間ですよ。彼らは黄昏攻略作戦とやらを開始するようです」
「ほぅ……」
「そこで人間の進行を止めて欲しいのです。いえ、遅らせるだけでも構いません。いまはまだ、人間の相手をする余裕も我々にはないので」
「……見返りは?」
「ありません」
「……貴様、抜け抜けと。殺されたいのか?」
古代蠍が合図をすると、ぞろぞろと蠍たちが出てくる。もちろんただの蠍ではない。古代蠍を守る精鋭とも呼ぶべき存在。そこらへんの魔物とは格が違う。
だが様子がおかしい。古代蠍はすでに魔人たちを襲うように指示を出した。食事を邪魔したのもそうだが、訳のわからない要求を報酬なしに求めて来たのだ。すでに殺すには十分な怒りを持っている。彼らは理性はあるが、やはり本能的な部分な方が大きい。
それに、魔人は強いといってもこれだけの数ならば……そう思っていたが、蠍たちの体は縦に裂けていく。ゆっくりと綺麗に開いていき、そのまま体液を撒き散らして沈んでいく。それも同時にだ。
この場にいる蠍は30体ほどだが、見せしめに5体ほど殺した。そして他の蠍は流石に相手の技量を理解したのか、じりじりと後方に下がってしまう。それは純粋な恐怖。この魔人は自分たちよりも強い。その事実が蠍たちに恐怖心を植え付けていた。
「さて、まだ拒否しますか?」
「……分かった。その要求、呑もう」
古代蠍は理解した。この魔人は、魔人の中でも最上位に位置する者だと。魔人は見たことはあるが、全く敵わないと思ったことはなかった。そう、この瞬間までは。しかしアウリールの技量は、古代蠍だけでなく、この場にいる蠍全てを持ってしても届き得ない。瞬殺されて終わりだ。それをすぐさま理解し、屈服することを選んだのだ。
「賢い方は好きですよ。私も」
「人間の進行を遅らせればいいのか?」
「はい」
「……人間は殺してもいいのか?」
「もちろん。殺そうが、捕食しようが、自由になさってください。ただ今回は特級対魔師……そうですね、私に匹敵し得るの人間もいるのでお気を付けください」
「……ならば、アレを使うか」
「アレとは?」
「……」
話を聞く。なるほど、それは使えそうだとアウリールは思った。存外、魔物たちも使えるではないか。そう思った。今まではただ知性の低い虫けら程度に思っていたが、やはり何事にも例外はある。今回のための用意したわけではないだろうが、ちょうどいい。彼はそう思って、話をそこで打ち切る。
「……なるほど。それは妙案ですね。それでは私たちはこれで失礼します」
アウリールは自身の体に飛び散った体液を拭うこともせずに、そのまま去っていく。どこまでも優雅に、そして華麗に、彼は来た道を戻っていくのだった。