動揺
一日を終えて自分の宮でお風呂上がりにワイン片手にゆっくりと寛いでいるけれど、後ろにいる気配が気になって完全には警戒を解く事ができないでいる。
「…ねぇ、ニコライ様。本当に座らなくても良いの?」
日中はずうっと立ちっ放しで、こうやって私が仕事を終えてプライベートな時間に入ってからも、護衛として頑として座ろうとはしない真面目な騎士だ。
「いえ、任務の最中ですので。」
「うーん…じゃあ、こうしましょう。座って。これは命令よ。」
テーブルにワインを置き、良い事を思いついたとばかりに手を打った。ついでに本当に仕事をしてしまおう。ニコライにも大いに関わる事だからね。
「は。ご命令とあらば。」
そう応えて私と対面の長椅子に姿勢良く腰掛ける姿に思わず苦笑する。一応夫婦になるハズなんだけどね…私もだらしなく横になっていた体を起き上がらせて、ニコライに向き直る。
「暇な時に決めておくようお兄様に言われているのだけど、新居を新しく用意してくれるらしいから、間取りや内装について何か希望はある?」
「…いえ、それが、その……私からは特にありませんが、陛下より寝室を共にするようにと申し付けられておりまして…」
ニコライは困ったように俯いて頬を紅く染めながら話してくれた。…仮面夫婦と世間に疑われない為の偽装かしら?
「…それなら寝室を大きめに取って、寝台を二つ入れましょう。他に何か言われている事はある?」
「はい。…………あの、非常に申し上げ難いのですが、婚姻の儀では、その…誓いの口付けをせよとの仰せです。」
妙に言い淀むと思ったらそれか。大丈夫、慣れてるとまでは言わないけれど経験はあるから…とも言えないか。今度は顔面蒼白にまでなってしまっているニコライに、なんと言ったら納得して貰えるかな…
「問題無いわ。ニコライ様となら、嫌では無いし。」
少なくともお兄様よりはね。と内心続いた言葉の後に、はて?これでは勘違い…というかさせかねない発言だったのではと思って見ると、ニコライは見る見る内に顔中を真っ赤にしていった。
「あ…いや、その…も、もう遅いし寝るわね。おやすみなさい!」
「は、はい…おやすみなさい。」
こっちまで恥ずかしくなってしまって、微妙な空気の漂うその場から逃げてしまった。
寝室に入るなり横になってゴロゴロとする。心に色んな想いが入り混じって叫び出したい気持ちで一杯だ。
仮面夫婦でも、ニコライとなら良いかなってちょっとだけ思ってしまったり、でもニコライは初心だからあんな反応を見せるだけで、お兄様に命じられた仕事だから私と結婚するワケで…本当はきっとニコライも迷惑しているんだと思うから…間違っても彼に本当に愛…してくれる事を望んだりしちゃいけないんだな…って。
お姉様は政略結婚でも前から交友のあった方との結婚だから、幸せにされているけれど、参考にはならないし…お兄様と王妃様は言わずもがなの、これぞ仮面夫婦といった関係だし…
悶々としている内にいつの間にか眠っていたようで、目を開けた時には朝になっていた。少し早いけれどいつも通り身支度を整えて、寝室から出ようとしたら何故か扉が開かない。
――おかしいな…と警戒して誰か呼ぶべきかと思案していると、ズルリと音がして何かが倒れる音まで聞こえてきた。耳を研ぎ澄ませ、剣を取っていつでも抜けるようにしながら、そっと扉を開けた。
そこにはすやすやと眠る、サラサラの銀髪と水色の瞳を持つ黒騎士が居た。……というか、ニコライだ。
………もしかしてっ!?一晩中ここで見張りをしてたんじゃあ無いでしょうね?
剣から手を放し、顎に手を当ててニコライの顔を覗き込んでいると、唐突にパッチリと瞳が開いて、完全に目が合ってしまった。固まってしまってしばらくお互いに無言が続く。先に復活したのは私では無く、寝起きであるはずのニコライだった。
「…わっ!も、申し訳ありませんっ!つい深い眠りに落ちてしまって。殿下の警護を疎かにするなどあってはならない事です!どんな罰でもお与え下さい!」
「い、いえ…むしろ、夜中まで警護なんて、しなくて良いのよ?そんな事して、ロクに眠りも取れないなんて、体を壊したらどうするの。お兄様には私からちゃんと言っておくから。とりあえず今からでも寝なさい。私の部屋使って良いから。」
あまりにも深刻そうに狼狽えているニコライが可哀想になって、ついお兄様の子ども達に接するようにお説教をしてしまった。
「そんな!出来ません!私は大丈夫ですからっ。」
「良いから良いから。来て。ここに寝て、命令。」
遠慮するニコライに有無を言わせず部屋に入れ、昨日覚えた必殺技でベッドの上に寝転がらせた。…そういえばニコライがお兄様に命じられた任務って、監視と護衛だけだったから、別に私の命令を聞く必要って無いと思うんだけど……まあいいか。
「あの…殿下。陛下は殿下に手を出した王子を国ごと滅ぼしたのですよね?いえ、口実に使われただけだと存じてはおりますが…」
「大丈夫よ。夫婦になるんだから、今更でしょう。それより目を瞑って。それだけでも少しは疲れが取れるから。」
「…はい。分かりました。」
ニコライは今度は命令しなくとも大人しく目を瞑ってくれた。私もベッドのそばの椅子に腰掛けて、少しだけ目を瞑る。目を開ければ自分のベッドに男がいるという慣れない光景が広がっていても、今はただ穏やかな時間が流れる。
――そろそろ起こさないといけないかな。と、考えていた時に事件は起こった。
「そろそろ時間ですので、起きてもよろしいでしょうか?」
「ええ。どう?ちょっとは休めた?」
「はい。少し眠ってしまいました。ところで今見つけたこの布は何でしょう、か……?」
布団を捲って起き上がった拍子に転がり出て来たそれを手に取ってまじまじと見てしまって、ニコライは無表情でたらーっと鼻血を流した。
「ちょっ!?何でそんな所に!キャーッ!ど、どうしよう。今何か拭くものを…」
彼が手に持つ、自分の下着を見て、らしからぬ悲鳴を上げてしまった。慌てて血を拭うハンカチか何か布を、と思ってあたふたしていたら、躓いて転んで、あろう事かニコライの方に倒れ込んでしまった。
咄嗟に受け止めようとしたニコライが手を伸ばした拍子に下着は宙に放り出されて、私がニコライの腕の中に抱き留められ、勢いを殺し切れずにそのまま倒れ込んだ瞬間、パサリと軽妙な音を立ててニコライの顔の上に吸い込まれて行った。
「「あ……」」
二人して同じ声を上げ、またもや暫し固まるも、すぐにニコライがだばぁと音を立てそうな勢いで鼻血を増やしたので、慌てて起き上がって手近な布で抑えた。……そう、そのまま鼻に一番近い位置にある下着という布で。
「いやぁっ!ごめんなさい!すぐにどけっ…ようとしたら血がっ!?ど、どどどうすれば…」
「大丈夫です…どうか落ち着いて下さい。それよりも、今朝も陛下に朝食に誘われているので、お断りを入れるか、遅れる旨をご連絡頂けますか。」
「分かりました…あのっ、じゃあすぐに代わりの布を持ってくるので!しばらくそれで我慢して下さい!」
顔の周りを血塗れにしている割には冷静な声音で指示してくれたので、少し落ち着きを取り戻して一旦部屋を出る。誰か呼ぼうと思った所で騒ぎに気付いて騎士と共に向かって来ていた侍従長と侍女長と出くわして、そのまま部屋に来て貰った。
「…あ、誰かお兄様に朝食に遅れると伝えて下さい。それと誰か侍医を呼んで。ニコライ様が凄い量の鼻血を出されたの。」
「承知しました。」
「鼻血とは…姫様、何かあったのですか?」
「ソフィア…ちょっと、言い難いんだけど…ニコライ様を見れば分かると思うわ。」
侍女長のソフィアは私がまだ、ただの側室の娘の一人だった時から仕えてくれている数少ない人物だ。彼女の顔を見たら酷く安心してしまった。
「これは……っ!?一体どのような状況ですか…ひとまずこちらを。」
侍従長もソフィアも絶句して、困惑しているようだったけれど、ソフィアがハンカチを差し出す代わりに下着を受け取ってくれたので、とりあえず安堵の息を吐く事が出来た。
「あのね、多分昨日酔ってたからだと思うんだけど、布団の中に下着が入っていて、それをたまたまニコライ様が見つけてしまわれて、その時にニコライ様が鼻血を出されたから慌ててまってこんな状況に……」
「あらまあ…なんて初心な方なのかしら。それに姫様はいくらなんでも慌てすぎですよ。ちゃんとした布で抑えていれば血はすぐに止まるでしょう。下着なんかで抑えたら逆効果ですよ…そんな事で本当に夫婦になれるとお思いですか!お二人共もう少しお勉強なさいませ!」
「勉強……何の?」
何か勉強不足だったろうか…と首を傾げたら、ソフィアに大きなため息を吐かれた。ちらっと伺い見たらニコライも首を傾げている。
「…お兄様に教えて頂く事に致しましょう。まったく…陛下と二等分すれば丁度良いくらいになるのでしょうに…」
「誰の事を話しているのかな?ソフィア。」
「お兄様っ!?どうしてここに?」
ぼやくソフィアの背後からぬっと現れたのは、王宮で先に朝食を取っているはずのお兄様だった。
「どうしてってそりゃあ姫様を待ち切れなくて来てしまったんでしょう。本当にどうしようもないお方です。」
「はは。ソフィアには敵わないな。そなたが遅れるなど、もしや何かあったのかと思ってこちらに向かっていたら、使いの侍女と鉢合わせたのでな。そのまま急いで来たと言うわけだよ。」
そう言いながらもお兄様は私を抱き締めて頬にキスという朝の挨拶をしている。この年で毎朝こんな事をしているのは多分私達だけだと思うけれど…
「それよりもニコライ様の血は止まったの?っていうか自分で確認するからいい加減に放して!」
「我が妹君は朝から元気だな。奴には今から仕置きをせねばならないからそなたは見ない方が良い。そなたの下着に触れるどころか頭に被るなどという不届き者は今すぐに首を刎ねてやろう!」
そんなキザな台詞を吐きながら、本当に剣を抜こうとするから全く持ってタチが悪い。
「被って無いし!首も刎ねないっ!それと勝手に寝室に入らないのっ!」
「つれないなぁ…ニコライは入れたんだろ?お兄様は拗ねてしまうよ。」
「ああ!もうっ!お兄様が加わると一気に事態が面倒な事になるのっ!大人しく居間で待ってて下さい!ソフィア、追い出して!」
「はい、若様おいでください。あまり姫様を困らせてはいけませんよ。」
ソフィアに背中を押されて肩を竦めながらお兄様はようやく部屋から出て行ってくれた。お兄様を制御出来るのはソフィアぐらいかしらねー。
「ごめんなさいね…騒がしいし、面倒なのに絡まれちゃって。血は止まった?」
「はい。もう止まりました。こちらこそお騒がせして申し訳ありませんでした。…それに、その、勝手に下着に触れてしまって…」
「あぁ、それは私の方がごめんなさい。血も付いちゃったし、変な物触らせちゃったからお風呂入ってきたら?すぐに準備させるし、その間はお兄様と一緒にいるから監視の必要は無いでしょ?それともうすぐ侍医も来るから、一応診て貰ってね。」
「いえ、そんな…変な物などと。ですが着替えも必要ですし、有り難くお借りしますね。侍医の件も承知しました。」
ニコライは私に騎士礼を取ると、侍従長にお風呂へ案内されて行った。さて、ニコライがちゃんと睡眠を取れるようにお兄様と交渉しないとね。