断片的小説
雨が降っていた。一晩中しとしと降る、そういうタイプの雨だ。
「どうしたの?」とベッドの中で女性が唸った。
「なんでもないよ、目が覚めちゃっただけ」と僕は窓から街を見下ろしながら言った。
「私が起こしちゃった?だったらごめんね」
「違うよ。この時間帯になるとだいたい目が覚めちゃうんだ。君のせいじゃない。ゆっくり寝てて。僕もそのうちに寝付くだろうからさ」
「わかった。気をつけてね」
「なにを?」
「なんでもない。好きにしてね」と言ってそれっきり彼女は黙った。彼女が黙ってしまったので、僕も何も言わなかった。
僕は一時間ほどじっと窓の外を眺めていた。高層ビルの中層にあるこの部屋からは真夜中になっても消える事の無い灯りが良く見えた。こんなに夜中を明るくしてどうするんだろうな、と僕はいつも思う。でもそれが都会であり、今の社会のあり方なんだろう。官公庁舎や皇居ですら時間に関係なく光を灯す時代だ。車のヘッドライトだって見えなくなる時間帯がない。この時間に車に乗っている人達は何処に向かうのだろう。僕にはわからない。僕は何処にも行きたいと思わない。ただ眠っていたい。でもそれすら僕には許されないのだ。仕方ない。一番望むものには必ず最大の壁が立ちはだかるものだ。隣に女性がいては静かに眠れるはずも無い。
僕は台所に行って、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルに入れてある水道水を出して飲んだ。水で商売も出来る時代なのだ。僕は冷蔵庫の前から自分の部屋を眺めてみた。なんだかそこは新築マンションのモデルハウスにでもなりそうなほど、よく言えば綺麗だった。悪く言えば、というか、率直に言えば何も無い。僕はペットボトルを抱えたままもう一度窓の外を見た。なぜか少し遠くから見ると街はくすんで見えた。ごみ投棄場を遠くから眺めているのに似ていた。
「ねえ」と声が聞こえた。僕は辺りを見回したが、発生源は特定できなかった。
「ねえ」ともう一度声が聞こえた。それはベッドの中からだった。「いつまでそうしているの?」
「もう少し。もう少ししたらそっちに戻って寝るから」と僕は笑顔で優しく言った。
「私と一緒に寝るのは嫌なの?」と彼女は訊いた。顔は暗くて見えなかった。
「そういうことじゃないよ。考えすぎだ。君と一緒に眠るのはとても素敵なことだよ」
「本当に、本当にそう言い切れるの?あなたは本当に私のことを好きでいるの?」彼女の声はほんの少しだけ震えていた。五メートル先にいる蚊の羽音くらいの震えだった。
「落ち着いて」と僕は言った。「僕はこの時間帯にいつも目が覚めてしまう。それはさっき言ったとおりだ。そしていつも僕はこうして街を眺めて、水を飲んで、それからまたゆっくりとベッドに入るんだ。いつもそうしている。いつだってそうなんだ。いつもこの時間に目が覚めるんだ。だからこれは僕の日常なんだよ。君を嫌な気持ちにしたことは謝る。でもこれは仕方の無い事なんだ。君が夜中に働くように、僕は夜中に少し目覚めて、水を飲むんだ」
「そんなことは訊いていない」と彼女は小さく言った。「あなたに訊いたのは私と一緒に眠りたくないかどうかなの」
「君と眠るのは僕にとって幸せな事だと思っている」と僕は一言一言確認しながら言った。「ただ、僕は誰かとずっと同じ暮らしが出来る人間じゃない。一緒に寝るとか、一緒にご飯を食べるとか、そういう事に慣れていない」そう言いながら、僕は枕元まで移動した。
「それが私の質問に対するあなたの答えなの?心から出た本当の言葉と受け取っていいの?」と言って彼女は僕に背を向けた。
「そうだよ」と僕は言って彼女の髪を撫でた。「一月ほど前にも言ったように僕はおじい様を除いてずっと一人だった。その時々で生き方を共にした人は何人かいたけれど、それでも僕はいつも一人だった。一人っていうものはとても自由なんだ。自由で、きままで、他人にかき乱されることが無い。それと同時に他人との共生とか、会話の仕方だとか、余所行きの笑顔だとかを忘れていくんだ。僕は独りでいたことを懐かしんでもいるし、同時にとても後悔している。君としっかりとした交流を持ちたいのに、どうしても全部がうまくいかない。君にいつまでも笑っていて欲しいのに、僕はいつも君を不安にさせてばかりいる。僕は君をとても好きだ。本当に大好きだ。だけど、この溝を埋めるには僕が一人でいた時間を遥かに越える時間が必要になるだろう。僕自身はそう思っている。君がその時間を耐えられないと思うなら、僕に対する気持ちを全部捨ててどこか遠くへ行ってしまって構わない。僕は君をそういう風に苦しめていたくは無い」
僕はずっと彼女の髪を触りながらそう話した。彼女は僕に背を向けたままぴくりとも動かなかった。
「今日はとても楽しかった」と彼女がぽつりと言った。「私が生きてきた中で一番楽しいデートだった」
「僕も同じだよ」
「あなたのことを理解しようとは思っていないの」
「どうしたの?」と僕は訊ねた。彼女はまた震えていた。
「ただ私はあなたにとって必要ではないのかもしれない」と彼女は一言ずつ区切りながらゆっくりと言った。「私はあなたを欲している。とても強く。こんな気持ちは自分でも怖いくらい。でもあなたはそうじゃない。私以外の女性でもあなたは同じように愛して、同じように傷つける。あなたはそういうこともわかっているんでしょう?あなたはわかっていて自分からそういう生活をしているんでしょう?辛くないの?」
「考えすぎだ」と僕は笑って言った。「僕はそこまで頭のいい人間じゃない。君の言っていることは僕にはよくわからない。君を好きだよ。それだけじゃだめになっていくのかな」
「あなたは本当になにもわかってないのね」と彼女は言った。「もう寝るわ。あなたも早く寝たほうがいい。明日は早いでしょう?」
「そうだね」と僕は言って彼女と少し距離を開けて隣に入った。
「肩を抱いて寝て」と彼女が小さく言った。
「いいよ」と僕は言って彼女の肩を右腕で抱いた。
「ありがとう、お休み」
「お休み。このまま君がゆっくり寝られるといいけど」
「寝るよ。たくさん寝る」
「お休み」と僕は言った。
まだ早い朝に僕が起きると、彼女はもちろんいなかった。ベッドの傍の小さなテーブルにひとつ書置きが残してあった。僕はそれを読まずにゴミ箱に放り投げ、ベランダに出て朝の澄み切った空気を吸った。
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