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○○○

作者: ゆや

全てが嫌になった時、私は生きる事を手放したかった。




何が原因だったのか、多分全部なんだろうと思う。家庭を顧みない父にいつもヒステリックに暴力を振るう母に、ほとんど家に居る事のない兄。家の中はぐちゃぐちゃだった。

学校に行けば、同年代の子達から暴言、暴力。教師からは見放され、手首のカッター傷は絶えなかった。

死にたい。毎日そう思って、雨降る公園で一人ブランコに揺られていると、ほとんど家に居ない兄が傘を差してそこに立っていた。

「…ボロボロだな」

ポンと頭を撫でられて、そこで涙腺が崩壊した。みっともなく兄に縋り付き、もう生きていたくないのだと、死にたいのだとそう言って叫んだ。

「なら、なんとかしてやる」

そう言った兄の言葉を聞いて、バチリという痛みが走り意識を手放した。





目が覚めると、そこは白い空間だった。消毒の匂いと私の腕に繋がれた透明な管は常に栄養を私に流していた。

「………」

「目が覚めた?」

「…………」

随分と綺麗な看護師が私を覗き見ていた。

友利(ゆり)君から聞いてるわ。友利君の妹なのよね」

まるで女の子みたいな名前は兄の名前だ。名付け親の母は百合の花が大好きだったそれから由来して、兄の名前は友利。私の名前が利理(りり)という。

「………どうして…」

「精神科の先生が言ってたわ。今は心身共に休む事が大事よ。その間に友利君が全てを終わらせてくれる」

以前から知り合いだという看護師さんは兄の事を勝手に喋っていた。私はただそれを聞き流しているだけだった。

死にたい。死にたいと何度思っただろう。手首を傷付ける度に血が流れ過ぎて、どうして私は死なないのだろうかといつも思ってた。でも、結局死ねないのはどこかで期待していたのだろうか。

いつか、手を差し伸ばしてくれる誰かを待って、いつか母が私を抱き締めてくれるってどこかでそう思ってた。現実は誰も助けてくれないし、ヒーローなんて居ない事を知らしめられただけだった。

「利理」

いつの間にか真っ白い空間の中に兄が居て、美人の看護師は居なくなっていた。兄は、黒い髪に両耳にジャラジャラとピアスを付けた、見た目とても怖い美形だ。母はこの兄に傾倒していた。全てを出来の良い兄に注いでいた。兄が帰ってこなくなり、母は私がどれだけこの兄に劣っているのかを力説された。その後に暴力を振るわれ、泣き叫んではヒステリックに怒鳴り散らす。

「全部終わらせてきた。お前はこれから、家に帰らなくてもいいし、学校に行かなくてもいい。ただ何も考えずにここで寝てろ。それで、お前が笑えるようになったらどっか遠く兄妹二人でのんびり過ごそう。俺が出来るお前への罪滅ぼしだ」

それからの記憶はない。

気付けば、私は海が近いマンションで兄と一緒に暮らしていた。隣には何故かあの美人な看護師が居る。兄目当てなのはわかりきっている。

「利理、俺は仕事に行ってくる」

「利理ちゃん、お留守番お願いね」

兄と美人な看護婦がどこに仕事に行っているかは知らない。

ただ私は、一人用のソファに座り、一人ベランダから海を眺めているだけだった。

海に近いそのマンションのベランダは、住人のプライベートを守る為の分厚い壁と転落防止か、それとも布団を干すためにか、真っ白く塗装された格子が私と海を隔てる。

何をする気も起きなくて、ただ海を眺めているだけの私は、鬱病に掛かっているらしい。

その私の視界に入ってきたのは、ベランダを登ってきたという表現が適切かどうかはわからないけど、身軽に人様の家のベランダに侵入してきた男は私を見ると、固まった。

「……マジか…」

「………泥棒?」

「…違うよ。友利は?」

怪しさしかない男はどうやら兄を訪ねて来たようだった。

「兄は、仕事で居ません」

「アイツが仕事とか、信じらんねぇ」

靴を脱いで部屋に侵入し、ベランダの窓を閉め、カーテンも閉めて、帽子を脱ぎ捨てた。

「お前誰?友利の妹?」

「……うん」

「ここ、俺が借りてる部屋。友利がさぁ、俺がしばらく部屋空けるって言ったら、家賃払うから貸せって言って来たから貸してやったんだけど、女連れ込んでるなんて思ってなかったわ」

黒い髪に、黒い目の典型的な日本人の色合い。異質なのは兄よりも端整に整った顔立ちとその他を圧倒するオーラ、に私は萎縮してしまった。

「震えてんの?」

震えている指先をギュッと握り、耐える。

「なぁ、名前は?」

「………利理…」

「ははっ!キラキラネーム!」

何が楽しいのか、しきりに男は私に色んな事を聞いてくる。それが嫌で嫌で仕方がなかった。兄はまだ帰ってこないのだろうか。せめてあの美人の看護師でもいいから誰か早く帰ってこないのだろうか。

「どうした?腹減ったか?待ってろ。友利みたいに上手くはないけどなんか作る」

そう言って、作ってきたのはインスタントラーメンだった。

いつもなら、兄が昼ご飯を用意して仕事に行くのだが、今日に限って朝に全部食べてしまった。インスタントラーメンはあまり好きじゃないけど、もう腹ペコで食べ物ならなんでも良かった。男が作ったインスタントラーメンは、ただのインスタントラーメンだったのに変な味がした。

「俺、料理の才能皆無だから、これが限界」

「…………」

インスタントラーメンをこんなに不味く思えたのは初めてだ。

「友利が帰ってきたらもうちょい上手いもん作ってもらおうな」

コクリと頷けば、微妙な顔をされた。

作ってもらったインスタントラーメンは最後までキチンと食べた。男はそれから睡眠を取ると言って寝室に行ったところを目で確認して、カーテンを開けて、ベランダの窓も開ける。そこには相変わらず広大な海が広がっていた。このマンションに来てから、私の楽しみはこの景色を眺め見る事だ。

気付けば夜になるまで、海を眺めている事はいつもの事だ。空が暗くなってから兄と看護師は帰ってくる。

「まだ海見てんのか」

電気を付けて、部屋を明るくしたと思えば、海を遮るようにシャッとカーテンを閉められた。

「風邪引くぞ」

頭を撫でられて、毛布を掛けられた。

「友利、まだ帰ってこないってさ。飯、また俺作ろうか」

その瞬間、無意識だろう。頭が勝手に男から視線を外すように、横に逸れた。

「コラ」

結局、兄が帰ってくるまで男と二人、腹ペコで待っていた。

「しかしあれだな。自分の家に人が居るって変な感じだな」

「…………」

「お前は、アレだな。思ったより素直な奴だな」

頭を撫でられながら、下から覗き見るように私の顔色を伺うその人は、温かい眼差しで見てくる。

「なぁ、このまま友利が帰ってこなかったら、俺と一緒に住もうか」

何を考えているのか全くわからない男は、私の頭から手が離れ、頬を撫でられた。

「肌荒れてんなぁ。ここにニキビある」

ここ最近で一番素早い反応を示した私は悪くはない。男の手を叩き落として、椅子から立ち上がる。

「あなたは誰ですか」

朔良(さくら)っていうんだ。友利とは大学が一緒でさ、同じ医学部だった」

大学行ってたなんて知らなかった。言っていたかもしれないけど、全然聞いていなかったかもしれない。

「なんで、ここ兄に貸してたんですか」

「俺がこの間までドイツの病院で働いていたから」

「お医者さん、なんですか」

「そうだよ。心理カウンセラー。精神科のお医者さん。友利は妹が居るからって日本に留まった。まぁ、そこまでドイツの病院に興味を示していなかったと思うけど」

そういえば、私は兄の年齢も覚えていない気がする。

兄はいくつだろう。私は今年、

「今年は、」

「ん?」

「今年は、西暦何年?」

私が世界に目を向けた瞬間だった。






兄は、朔良がやってきたあの日を境に帰ってこなくなった。

あの美人の看護師も、誰もここに来なくなってしまった。唯一、家主のこの男、朔良だけが居る。

「朔良」

「どうした?」

毎日、夜になると朔良が部屋に帰って来て、カウンセリングが始まる。

「いつも、煮物とか、カレーとかどこからか持ってくるけど」

「あぁ。友利だよ」

「え」

「友利、このマンションの一室買って、彼女と一緒に同棲しているから」

「…………」

やはり、兄にとって私は邪魔だったのだろうか。

「目が仄暗くなってきてる。友利は俺に遠慮したんだよ」

「?」

この男は私の頭を撫でるのが好きだ。

男の言っている意味がよくわからない事が沢山ある。今もよくわからない。教えてもくれない。だけど、私は絆されている。この男の手によって。

「利理は、いつからここから出てねぇの」

「……わからない」

「外に出てみないか?」

身体が強張るのが自分でもわかった。

外は怖くて恐ろしい。家に居ると安心する。

「近くで海を見たくないか?」

「………見たい…」

差し出された手に軽く手を添えれば、強く握り返された。

久しぶりに出た外は、寒くて、塩の香りと波の音が大きく聞こえた。

「冬の海は寒いだろ?」

「…うん」

「波の音は、母親のお腹に居た時と同じ音がするらしい。だから人間の耳にはとても心地良く聞こえるんだ。利理の耳にはどういう風に聞こえる?」

「どういう風って……えっと…」

「わからない?」

「…………」

すぐに答える事が出来ず、だんまりをしてしまう。

怒られたり、責められたり、自分が答えられない質問とかされると口が堅くなって、開かなくなる。自分の嫌いな癖だ。

「言い返したいのに、口を閉ざすのは、なんて言い返されるのか怖いからだ。言い返していい。どんな理不尽な事でもちゃんとその裏側を読み取ってやる。ちゃんと話をしよう。人は話をし、それを繰り返す事で理解出来る生き物だ」

「…………うそつき」

人に初めて反抗の言葉を投げた。

「私のお母さんは、私が話しても詰まらない。友利はどうして帰ってこないの。それしか言わない。私の事なんて何も理解してくれなかった」

海を目の前にして私はどこかおかしくなってしまったのだろうか。

今まで言葉に出来なかった気持ちが口から溢れだす。言葉にして、私は初めて自分がそう思っていた事に気付いた。

「誰も私の事なんか見てくれない。誰も私の話しなんて聞いてくれない。私は要らなかったから」

家に居ても、学校に居ても居場所なんてどこにもなくて、みんながみんな私を通して優秀だった兄を見る。

「だから、利理は固く言葉を閉ざしちゃったのか。何を言っても、話しても意味なんてないと思ったから」

反論する事なく俯く。朔良が言った事を肯定しているように見えるかもしれない。実際にそうだ。私が何もかも諦めてしまった。

俯いた先の、海の砂が靴に纏わり付いている。意外と砂って鬱陶しい。

「朔良は、朔良も私から、居なくなる。私だったら、私みたいなの面倒臭くて、嫌だから」

「居なくならないし、嫌にならない」

「どうして」

見上げた先の朔良の目は仄暗くて、不思議と安心した。怖くなかった。

朔良の顔が近付いてくる。目を瞑った瞬間、唇に柔らかくて暖かい物が触れた。

「愛してるから」

頬に優しく触れられた手は冷たくて、なのに暖かく感じる。緊張で震える冷たくなった手を朔良の手に重ねた。

笑い方下手だろうし、ブスになっているかもしれない。それもなんとなく笑いたかった。

「私も、朔良を愛してる」

「笑い方下手。表情筋固まってる」

「ブスって思った?」

「可愛くてしょうがないよ。ようやっと堕ちて来たんだ。逃がすはずがない」






ゆっくり、ゆっくりと浸食されていた。

利理に出逢った時から、俺の運命はこの子なんだと。運命の赤い糸は本当に存在したのだと、愚かにもそう思った。





久しぶりに帰って来た俺の部屋。日本自体が久々で本当に懐かしかった。

海が近いマンションの一室を買ったのは、単なる気まぐれだった。買った直後に悪友の友利からの頼まれ事でドイツに居る間は、友利に貸していた。

日本に帰ってきて久々に友利に会えると思って、何も買わずに自分の部屋に戻ってきたのは失敗だった。

仕事から帰って来た友利を捕まえ、飲みに行こうと思っていたから油断していた。

帰ってくるとそこには天使が居た。

ベランダの窓際に立ち尽くすそれに背筋がゾクゾクと震える。運命だと思った。俺の、俺だけの天使。

大学時代に出逢った友利からは話しを聞いていた。

妹が実の母親から虐待を受けている。どうにか助けてやりたい。けどどうにもならない。

友利は親の金で大学に居る。大学は卒業したい。だけど、妹も救いたい。妹を救うと親からの援助がなくなるかもしれない。そう思っていたらしい。アホらしくも思うが尤もな言い分。

そうして友利は、歯痒そうな顔をしながらも少しずつ親からも妹からも目を背けるようになった。どれだけ利理が辛い思いをしても、手を出さない。友利は本当にバカだった。

友利が利理を迎えに来た時には手遅れだったらしい。

母親は精神病棟送りになり、見て見ぬフリをしていた父親はいつの間にか愛人を作っていたそうだ。

家庭は崩壊し、友利の手元には看護師の彼女と利理だけが残った。

「バカだよな、お前って」

「いちいちうちに来てバカにしてんのか」

「バカにしにきてんの。利理は俺のとこに堕ちた。お祝いしてくれるよな?」

「はぁ?利理返せ。俺の妹だ。イカレ野郎にはやらねぇ」

手に持っていたボイスレコーダーを再生する。

『私も、朔良を愛してる』

停止ボタンを押して、余韻に浸る。

「はぁ。俺の天使」

「無理矢理言わせてんだろ!」

「ふざけんな」

「いい加減にして!利理ちゃんがお腹空かせて待ってるわよ!」

言い争いに終止符を打ったのは、友利の彼女だった。

右手にシチュー。左手にサラダが入ったボールを持たせられて、部屋に戻るとソファの上で蹲り、クークーとお腹を鳴らしている天使もとい利理。

「利理」

「…朔良」

「飯食おうな」

コクリと頷く利理の左手の薬指には、銀色に光る指輪がはめ込まれていた。

それはまるで、俺に繋がれた鎖のようで、ゾクゾクした。



友利は、高校の時は不良。喧嘩が絶えなかった時に行き倒れ、個人病院の看護師が助ける。

年下で生傷の絶えない友利に目が離せなくてついつい世話をやいている内に恋に落ちる。

看護師と友利は紆余曲折の末に、恋人になって、同棲し、結婚。今では友利を尻に敷いている立派な姉さん女房。

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