第一話 夢
――――不気味な存在によってつけられた傷――その穴から流れる血液にはダラダラという擬音語がよく似合う。辺りは轟々と音を立てながら広がっていく火が――その赤と橙のコントラストによってその場の美しさや儚さ、そして醜さをも醸し出していた。漂う鉄の匂い――まして焦げた匂い、数年間換気をしなかったひどく汗臭い匂いも漂っていた。
――――人が次々と倒れ込んでいく。死んでいく。自分はそれをただ唖然として見ているだけ――ただ泣いているだけ――何も出来ない。何も救えない。何もいうことを聞けない。何のために生まれてきたのか、何故十七年間も生きてきたのか、分からない。
自分自身を責め、苦しめ続けた。身体は自身に対しての、その恐怖からか――否、その不気味な存在の横暴を目の前にして一寸足りとも動くことが出来なかった。だが涙だけは零れ続けた。既に自身は、漠然と流れ続けるその涙に身を委ねていた。
――――同時に、体が縦に振動する。それは少しずつ、ゆっくりとながらもその激しさを増していった。最終的にはその軽い体が、今にも宙き浮き上がりそうな、激しい上下運動にまで及んだ。
その振動が頂点に達した――同時に目の前に、分厚い、長く鋭い爪を身に付けた足が広がる。自然に涙は止まっており、悲しさよりも恐怖心が体中を取り巻いた感覚がした。数十秒――不気味な存在は小さな体を舐めまわすように見た後、満足したのか手に持っていた木の棍棒をゆっくり上に持ち上げていく。身体は依然として動かない。
その時、誰かが自分に対して何かを語りかけているのが認識できた。「逃げろ」とでも言っているのだろう。だが身体は動かない。再び涙を流しはじめる――不気味な存在は棍棒を頂点にまで上げたあと、しっかりと狙いを定め、そして――――
――――そして彼女は、その悪夢から目を覚ました。
彼女は何とも嫌な汗をかいていた。運動をした後や緊張した際にかく汗とはまったくの別物――それは彼女の寝ているベッドにまで染み込むような多量の汗であった。
(あの時の夢を見るなんて⋯⋯)
今日は特別に、何か嫌なこと、悪いことが起こる日なのかなとベッドの上で手を額に当てながら思う。
外は太陽が顔を出し、鳥たちが活動を始め、今日一日の各自の仕事をこなしている。
今は何時だろうと思いながら置時計に目をやる。目覚めが悪かったせいだろうか、頭が痛く、目もそれほどハッキリとはモノを識別することが出来ないが――
午前六時五分――いつもより三十五分ほど遅い起床であった。
この施設の朝礼は八時と決まっており、まだ余裕が残っていたが、彼女には自分のサイクル、ルーティンがあり、それを破ることは彼女にとって自分の不甲斐なさ、ましてや不条理さすらを感じるのであった。
それは、小さい頃に経験したある戒めによるものであるが――
施設の制服に着替え、コーヒー片手に新聞を読む――これが彼女の日課であり、彼女自身のミッションである。
まだこの施設に入ってから日は浅いが、彼女に失敗はまず無い。この施設に入ってからはこの日課を怠ったことは無かった。
彼女の唯一の失敗といえば、そのコーヒーを彼女が身にまとっている白いシャツに零した事くらいだろう。もっとも、今日で唯一ではなくなってしまったが――
午前七時五十分――朝礼の時間が迫ってきた。
(今日は私が挨拶をすることになっていたな)
と少し面倒に感じながら席を立つ。
白と赤で整えられたローブを羽織り、指のでたレザーグローブをはめ、朝礼場所へと向かう。
廊下へ出たが周りには人の気配が感じられない。既に朝礼に向かったのだった。
相変わらず真面目な奴らだと嘲笑じみた顔を浮かべ、ゆっくりと向かっていった。
(まずは何から話始めようか。無難に挨拶からか? いや、少し路線を変えて先日の私の成果の自慢を話そうか?)
と一人で悩みながら――小さく呟きながら――向かう。もし周りに人が居たら必ず変人扱いされるだろうなと思いながらその足を運ばせていった。
歩み進んで行くこと五分、朝礼場所となっている体育館のように広く、大きなその空間に辿り着いた。やはり既に施設の人々は皆綺麗に整列して、彼女の帰りを待っていたかのようにしていた。彼女にとっては少し居心地の悪い空間であった。
脇の方にも綺麗に整列して待っている人々がいた。それらは真ん中に突っ立っている凡人どもとはどこか見栄える存在であり、彼女自身もまたその脇の方にいる者達と同じ属性であった。
彼女はそのまま整列せず壇上へと向かう。その後ろ姿は端麗であり、どこかか弱い印象さえも持たせていた。
「傾注!」
壇上にいた人によってその場の――脇に整列している者達を除いて――一斉に、よりきっちりと背筋を伸ばして壇上の方へと意識を向ける。
それと同時に彼女もまた気を引き締め、空間に向けて言葉を発する。
だが、彼女はこの空気が少し苦手であるので――
「諸君、おはよう。いい朝だな。が、今日は少しばかり冷えている。風邪をひかないように、しっかり着込むように」
と、彼女は場の雰囲気を和ませようとするが、依然として変わらない状況に、少し戸惑い呆れる。
続けて、
「まあそんなことはどうでもいいか⋯⋯改めて、私は昨日、第一級討伐隊副隊長に任ぜられた、コードネーム"DAEMON"――"欠月美桜"だ。以後お見知りおきを」
その時、副隊長という言葉を聞くや否や、場の雰囲気が一気に変わった。
異様なざわつき――それもそのはず、何せ彼女はこの施設に来てからわずが一週間ほどしか経っていないからである。どういうお偉い様の粋な計らいであろうか、この一週間で副隊長の、ましてや"第一級"の副隊長など類を見ない事なのである。
「あー、少し驚きの表情を見せてはいるが⋯⋯一応副隊長だ。よろしく」
頭を掻きながら今一度自己紹介をする。
「さて諸君、今日も愉快に暴れ狂っている魔獣どもを狩りこの世界に平和をもたらして行こう。我らの味わった苦しみを、あのクソ共に味わい返していこうではないか⋯⋯」
彼女の突然の言葉に人々の間でさらにざわめきが生じる。
だが彼女はそれをお構い無しに、言い終えると口が裂けんばかりに、目がはちきれんばかりに大きく開き、声を荒らげて、
「我らの故郷、我らの愛しき家族、我らの平穏な日々をあの日、あの時奪い去った、この世の元凶となった全ての厄災を、悲劇を、憎しみを、魔獣を、"魔竜"を、排除して行こうではないか⋯⋯っ!! 一匹残らず、丁寧に、そして残酷に!!」
彼女の圧倒的な演説に周りは静まり返る。"怖い"と言うよりはむしろ"恐い"と言った方が適切であろう。
彼女はその場の雰囲気を感じ取ると、コホンと咳払いをしてから平然を装い、
「あぅ⋯⋯えーと、それではこれで⋯⋯」
そう言って壇上からゆっくりと降りていく。その彼女の足音は広間全体に響き渡るほどのものであった。
「⋯⋯えぇ、それではこれで朝礼を終了する。各自、持ち場につけ」
というアナウンスがはいるが、まだざわめきが続く。場の雰囲気は最悪であった。
「あの人ヤバいって⋯⋯」
「逆らったりでもしたら殺されるんじゃねぇか⋯⋯?」
「俺第三級の所属で良かったわ⋯⋯」
人々はコソコソと呟きながら一斉に退場していく。
彼女はこんなはずではないと一人で後悔しながら自分の部屋へと戻っていくのであった。
その道中で、
「ははっ! たぶんあとで上の人から注意食らうだろうよ」
と一人の男が後ろから彼女に話しかける。
「あんなはずでは無かったのだがな⋯⋯お前はどう思ったんだ? "時雨"」
"伊吹時雨"、彼女とおなじ第一級討伐隊に所属するものであり、隊長の座につく男である。二人はこの施設から入る前からの長い付き合いであった。彼女よりも早く入社し、その実力が見込まれ、一週間ほど前に隊長に就任されたのだった。
「んー、流石にまずいねぇ。もうちょっと柔らかくできなかったの?」
「あれで抑えたつもりだったんだが、やはり自分の本性には逆らえないんだろうな」
まあ美桜らしいなと笑いながら肩に手をやる。
「そんじゃ、改めてコードネームが似たもの同士仲良くやっていこうや! コード"DAEMON"!」
「ああ、よろしく頼むよ。コード"DEVIL"」
そう一言交わして持ち場に向かっていく。
彼女の、第一級討伐隊副隊長としての日々はこれからであり、最悪の幕開けであった。