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泉の中の物の怪

作者: 馬路キレ子

 私は今、ある男を汗だくになりながら追っている。

 追っているのは、顔見知りの男ではない。


 時代は、大正の世。

 今日も乞食のような貧乏書生暮らしが板に付く私が、飯の種を探しに帝都を練り歩いていた時。

 モガやモボ。いわゆるこの時代特有の和洋折衷の衣装を纏ったモダンガール、モダンボーイと呼ばれる市民たちが賑わす帝都の人通りが、やや閑散となった夕方頃に、高級時計店が連なる表通りの通過路を私は何気なく歩いていた。人一人が通れる小道を右手に入ると、時計店の店先の入り口とは、ちょうど反対をなす裏口があった。ようするにそれは、時計店の店員が抜け出るための勝手口なのだが、その勝手口の方で、絹を裂くような女の悲鳴が聞こえたのだ。

 その声に振り返り、私は小道を通って勝手口に向かうと、開き戸から風体の醜い、見るからに汚らしい身なりの『ほっかむり』をした男が一人、膨らんだ唐草模様の風呂敷を持って飛び出してきた。

 不思議と思って、小道を走り出す男の背を目で追っていると、その内、勝手口のほうから荒縄で手足を縛られた店の番頭らしき女が、芋虫のように這い出てきた。私は、心配そうな面持ちで「大丈夫か」と語りかけたが、女は私を見るなり「泥棒!盗まれた!」と、やや錯乱気味に語気を荒げて大きく叫んでいた。


 膨らんだ唐草模様の風呂敷に、早足で走り出した男の姿を見て、大体の察しがついた私は、その泥棒を追った。


 ジャラジャラと風呂敷を重そうに抱えながら、暗くなってきた小道を悠々と走る泥棒を必死に追いかけながら、私は卑しい思考に口を歪めていた。

 高級時計店を荒らした大泥棒を捕まえれば、金一封ものだ。

 親戚の貧乏商店に転がり込んでいる穀潰しの私が、明日の飯に事欠くことなく、大金をせしめるチャンスではないか。最近は仕送りの金も少なくなって、好きな女遊びも自重していたことだ。大金を手に入れたら、まず色町へ出かけて散財しよう。

 まだ経験はないが、私には一度やってみたかった事がある。

 「わちきは嫌でありんす」とお高くとまっている色街のあの女を、金で物言わせて、手篭めにし、心まで征服する。そう考えるだけで、実に胸が高鳴るではないか。

 そう考えれば、逃げる泥棒の背を死に物狂いで追って、捕まえたくなる気持ちから、いつもの脚力以上の物もでるというもの。

 やけに長い小道を、私は歪んだ口元を光らせて泥棒を追う。

 逃げる泥棒とて人間だ。いつかは疲れる。そうなったら後は精神力だ。欲にまみれた私の精神力が、泥棒を捕まえさせ、時計屋が法外な金を出す。辛いのは今だけだ、乞食のような貧乏書生暮らしとは、もうお別れだ。と、頭の中で繰り返し、激しく息切れしながらも、長い小道を進んだ。

 その内にあたりは、すっかり夜になっていた。


 走りつかれた泥棒と私は、薄暗い小道の先に、鬱蒼と生い茂る雑木林が特徴的な寺を見つけた。

 どうやら小一時間走り続けた泥棒も、流石に疲れ果て、喉が渇いたらしく、寺の中に入り込み、水を一杯煽ろうと、寺の中にある水場を探した。

 私は泥棒の後をつけた。背の高い雑木林に隠れながら呼吸を整えつつ、泥棒が一瞬の隙を見せるその時を、息を潜めて待っていた。

 泥棒は、雑木林の先にある底の深そうな泉を見つけると、汗に濡れた頭のほっかむりを取った。私は雑木林に隠れながら、差し込む小さな月明かりが泉の水面に反射して見えた、泥棒の顔に驚いた。見るに歳は、五十を数えるほどシワも多く、食べ物が悪いのか口元はヨボヨボ。垂れた福耳に、下がり眉毛の人相は、人の良さそうな顔立ちなのに、何故泥棒などしているのか、私には皆目見当が付かないが、良く良く見れば、泥棒の体も自分より一回り小さい。手足も短く、骨も肉も皮が張り付いているように薄く細く、何処にあれだけ走り続ける体力があったのかと思えるほど、泥棒の姿は弱々しく見えた。

 こんな相手を捕まえるのは簡単だ。と、思いながら、私は泥棒の観察を続けた。

 周囲を警戒する泥棒だったが、周りに人のいないのを確認すると、高級時計が入っているであろう風呂敷包みをジャランとその場に投げ捨て、泉の水を浴びるように飲んだ。


 今が絶好の時!

 私は、隠れていた雑木林から離れると、ここぞとばかりに泉の水を飲む泥棒に襲い掛かった。不意打ちされては、流石に泥棒も抵抗することが出来ないと思ったからだ。

 だが、泥棒は見かけによらず熟練だった。

 私の初動に気付いたのか、するりと体を捻り私をかわすと、翻った逆の手で私の肩を押し、そのまま体当たりするように私の体にぶつかり、泉の中に飛び込ませた。


 ボシャーン。

 奥底の知れない水量の泉に放り込まれた私は、ガボガボと水中で酸素を逃がしてゆく。そう、不幸にも泳げなかったのだ。必死に犬のように水を掻くが、書生の服が水を吸い重くなると、疲れきっていた私の体は浮き上がることなく沈んでゆく。


 息苦しい、もうだめか。と、思ったその時。

 人間では無い、誰かの大きな手が、私の体を持ち上げるような感覚に陥った。次第に浮き上がる私は、泉の水を相当飲み、酸欠で意識は朦朧としていたが、なんとか水中を飛び出して、丘に揚がることが出来た。


 水中に沈んでいった男が、丘に戻ってくるのに驚いたのは、泥棒のほうだった。

 泥棒は、そぉっと打ち揚げられた私に近づくと、ペシペシと平手で顔を叩く。当の私はというと、叩かれることに意識はあるのだが、体が動かない。なんとも不自由な状態だった。


「おまえが落としたのは、その男か?」


 そうもしている内に、異変が泥棒の耳に入った。

 奥底の知れない泉の中から、ややくぐもった低い声が聞こえたのだ。

 誰だ! 居るなら出て来い!と語気を荒げて言い返す泥棒の声に、泉の中から聞こえるくぐもった低い声は、もう一度繰り返す。


「お前が落としたのは、その男か?」


 寺の泉に住み着く物の怪か。と、一瞬尻込みした泥棒だったが、泥棒家業三十年の熟練は、そんな不可解な者に怯えるほど、生半可な修羅場を潜り抜けたわけではない。呼吸を整え、スッと背を伸ばすと、物怖じしない態度で、ただ一言、そうだ! と泉の底へ言い返す。


「正直な奴だ。その男は返してやる。それだけではない。正直なお前には、褒美をとらせよう」


 泉の中から聞こえる低い声は、泥棒の反応を見て、一瞬穏やかな声になった。すると、水面を魚が跳ねる様なパシャッという音が聞こえた。泥棒は、音の跳ねた先を見ると、そこには一枚の白黒写真があった。写真を手に取り月明かりに照らした泥棒は、映ったそれを見るや否や、思わず泣き出してしまった。その写真に映っていたのは、艶めかしい三十路過ぎの女と、十歳ぐらいの背格好を子どもが晴れ着を着て、椅子に座ってにこやかに笑う、記念写真のようなものだった。


「お前にも、国に忘れてきた大事な家族がいるだろう。妻を思い、子を思うなら国へ帰るが良い」


 泥棒は、頭を覆っていたほっかむりを手ぬぐいに変えて、涙を拭いた。そして、泉の中から聞こえる穏やかな低い声に説得されるように、写真を抱えて寺を出て行った。その手には、高級時計をたんまり入れた唐草模様の風呂敷包みは無かった。


 すっかり意識を取り戻し、自力で水を腹から吐き出した私は、今までの一部始終を見ていた。その私がもちろん最初に眼を光らせたのは、泥棒が置いていった風呂敷包みだ。しめしめ、泥棒は逃げたが、これを持って帰れば時計屋から、たんまり大金が手に入る、よしよし。と、片手をついて私は立ち上がり、着物の隙間から手をだし、アゴをさすりながら、ニヤニヤ口元を物欲で歪め、泉の前にドッと置かれた唐草模様の風呂敷包みの前に立った。腰を下げ、水を吸って重くなった書生の服から、そっと別の手をだし、包みを手に取ろうとした時。


 ポチャン。


 あ、という焦りの言葉と供に、風呂敷包みは泉の中に吸い込まれるように落ちていった。なんということだ! と、私は思わず錯乱気味に嘆いたが、すぐに落ち着いた。なぜなら、泥棒と泉の中の物の怪の問答を思い出したからだ。


「お前が落としたのは、この風呂敷包みか?」


 案の定、泉の中の物の怪が低い声で囁きながら、風呂敷包みを水中から丘に揚げる。私はそれに飛びつくと、物の怪にそうだ! と言った。


「正直な奴だ。その風呂敷は返してやる」


 私は、ガシッと風呂敷包みを捕まえるように受け取ると、欲望にぎらついた目で、中身を確認した。どれもこれも壊れてはいない。なんとか売り物に出来る程度だ。と、その後起こるであろう幸せな毎日を脳裏に浮かべた。


 しかし、男には腑に落ちない点が一つあった。

 先ほどの泥棒は、正直な事を言って何かを手に入れていた。それが何かはわからなかったが、自分の盗んだもの入った風呂敷包みを置いてゆくぐらいだから、相当の値打ちものに違いない。そう思った私は、物の怪に対して一つ欲深な質問をした。


「おい、泉の中の物の怪よ。正直に答えたのだから褒美をよこせ。あの泥棒にも渡したのだろう? 私にも、それをくれないか」


 私の質問に、泉の中の物の怪は、低く唸るように水の奥から聞こえる声を震わせて答えた。


「良いのか? お前にとっては災厄な褒美かもしれんぞ」

「物の怪のくせに出し渋るな。はやくよこせ!」


 すでに私の目は、欲望にくらんでいた。

 手に持った風呂敷包みの中身から得る大金と、今から物の怪にもらう褒美をあわせれば、乞食同然の貧乏書生の私が、今日の今日で大金持ちに変貌する。金に不自由しない優雅な生活、食いたいものをいつでも腹いっぱい食い、着たいものを衝動的に買い、綺麗な女を毎夜毎夜これでもかと抱く、悠々自適さ。それがすぐに手に入るなら、何が何でも欲しいと思うのが、私のように欲深な人間の構造だ。


 さあ、くれ!

 褒美を、くれ!

 今すぐ、くれ!


「そうか。では褒美をやろう」


 そう物の怪が言った瞬間。

 私の体は、泉の奥底から出てきた、大きなカエルのような物の怪の獰猛な口の中に納まっていた。私は、逃げることも、抵抗することも出来ず、ただ物の怪の口の中で、もてあそばれた。


「ぺっ。人に褒美をせがむ欲深だけあって、味もイマイチだ」


 巨大カエルの物の怪は、男の体に抱えられていた唐草の風呂敷包みを舌で巧みに取り外し、中身を雑木林の幹の下に投げ込むと、再び水中に戻っていった。


 物の怪の細い食道を通り、吸い込まれゆく衝撃で骨が軋み、肉が裂け、激痛を伴いながら、物の怪の横隔膜の動きにあわせて、消化液のたっぷり入った胃の中に消えてゆく私の体。薄れゆく意識の中で、最期に私が浮かべた言葉は、こうだった。


「私のような穀潰しの貧乏書生が、何故こんな目に?」



【了】


今回はテーマに縛りプレイをして、同じ書き手同士で違うものを書くというルールに則って、小説を書いています。


・元ネタ

金の斧(きこりの泉のやつね)

・舞台

大正時代 帝都

・登場人物

24歳のごく潰しの乞食書生

50歳の妻子持ちベテラン泥棒


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― 新着の感想 ―
[一言] 食べられてしまうのも悲惨ですが、もっと「生き地獄」を味わわせる結末も面白かったのではと思いました。
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