夕日色
大人にしてみればそう昔でなくても、子どもからすればずっと前のような幼い日。
あかい夕日が辺りまっかに染め上げ、あたりには市内のスピーカーから子どもたちに帰りを知らせる優しいメロディーが流れる。
幼い子どもたちは、二人手をつないで家族の待つ家へとパタパタと軽い足音を響かせてかけていく。
どこでも見られる、そんな温かでどこにでもある光景……。
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「失礼しましたー」
進路指導の呼び出しを受けて職員室に来ていた 矢高 夕季は形式的挨拶を済ませて職員室を後にし、カバンが置いてある教室へと向かって歩みを進めて行く。
各教室の窓や扉から、燃えるようにあかい夕陽が差し込み、廊下をまっかに染め上げている。
夕季は、その夕日のアカを見つめながら顔を顰める。夕日のアカは彼女にとって小さな頃に取り残されてしまった自分の苦い思い出の色なのだ。
夕日が辺りを一面の紅に染め上げ、公園の中ほどに設置されたスピーカーからは子どもたちに帰りを促す動揺が緩やかに流れてくる。ありふれたどこにでもある風景。まだ小さかった頃の夕季もその曲を耳にすると、よく一緒に遊んでいた幼馴染の少年と手を繋いで帰っていた。
二人がよく遊んでいたのは、公園の隅にある丘の上の樹の下。いつもの様に二人で樹に登ったり、周りをぐるぐると駆け回っていた。その日も遠くから聞こえてくる帰りを知らせる曲を耳にして、夕季は彼に当たり前の様に手を伸ばした。けれど、彼はいつもの様にはその手を取ってはくれなかった。
「こーくん、おうちにかえろ?」
「……うん。もうちょっとだけ」
「ダメだよ! ママがあのオトがしたらかえってきなさって言ったもん!」
「ゴメンね、ゆーちゃん」
彼はそのまま夕季の手を取らずに、足に根でも生えたかのように、ただ黙ってゆっくりと沈んでいく真燃えるような夕日を樹に寄り添う様にして見つめていた。夕季がどんなに声を上げても夕日から目を逸らさず、頑なに動こうとはしなかった。その姿が、幼かった夕季には何か線を引かれてしまったように感じたのだった。
あの日を境に、夕季と少年は一緒に帰る事はなくなった。彼がいつも夕日に目を奪われて夕季の手を取ってはくれなかったからだ。小さな少女にとって、その変化はあまりにも突然で、どうしたらよいのか理解できない行動だった。
あれから数年が経ち、夕季と彼は今でも幼馴染で同じ学校に通っている。変わったのはお互いに別々の友人が出来て、殆どお互い挨拶をする程度の関係になってしまったというところだけ。年頃の男女なら当たり前の流れなのに、夕季はなぜかその関係に違和感をずっと持ち続けていた。いや、正確には彼に、違和感をうけ続けていた。
昔からの苦い思い出を考えながら、夕季はあかく染まった廊下を黙々と進み、自分の教室へと到着する。すると、教室の窓辺に先ほどまで思い出していた彼、 宮部 絳がぼんやりと佇んでいた。その立ち姿はあの時のそれと全く同じで、夕季はその独特の雰囲気に立ち入ってはいけない様な気がして、教室の扉の前で立ち止まってしまった。
あたりに聞こえるのは微かな時計の音と、昔から聞き馴染んでいる市内のスピーカーから流れる六時を告げるあの日のメロディーが響き渡る。
幾ばくかの時間が過ぎ、夕日はほとんど頭を隠し、教室も廊下もあと少しで闇色に塗り替えられる頃、扉の前で立ち尽くしていた夕季に絳が突然振り向いた。
「何でこっちに来ないんだよ」
「……邪魔かと思って」
「別に邪魔なんかじゃないよ。何かしてた訳でもないし」
そう言って笑う絳の表情は、夕季が知っている幼い日の彼とはどこか違っていて無意識に表情が強張る。口調や雰囲気は昔から知るどこかゆるい幼馴染だというのに、その少し寂しそうな表情だけが夕季の中で絳に当てはまらないのだ。
僅かな会話が途切れて空気が妙に重々しくなる。その状況に耐えられず、今しかないと自分で自分を奮い立たせて、夕季はずっと昔に聞く事の出来なかった疑問がポツリと口から吐き出した。
「ねぇ、絳はどうして夕日を見るの?」
絳は突然の夕季の疑問に目を瞬かせてからしばし首を右や左、後ろに倒してから、何故か黒板まで移動して、そこに大きく『あか』と書いて夕季に手招きをした。夕季は絳の唐突な行動に意味が分からないま、首を傾げながらも絳に呼ばれるがままに黒板へと移動していく。
「『あか』ってなによ」
「うん。夕は『あか』って聞いてどんな漢字が思い浮かぶ?」
「『あか』? 色の?」
「うん」
絳の突然の謎かけの様な問いに更に首を傾げながら、言われるがままに黒板に文字を綴っていく。黒板には『赤』・『朱』・『紅』・『緋』と様々な色の『あか』を表す文字が夕季によって生み出されていく。
最後の『緋』の字を書いた時点で夕季の手は止まり、少し唸りを上げてからチョークをサッシに置き、絳の方へと視線を移動させる。
「この位しか思いつかなかったんだけど…」
「ん、上出来上出来。もっと書けないと思ってた」
「失礼ね! 国語系は得意なのよ!」
「だって夕、昔は書き取り全然できなかったから」
夕季は昔の事を絳に言われて、妙に気恥ずかしさを感じながら、軽く絳の肩を叩いて話を進めさせる。絳はその流れに逆らうことなく、小さく笑って夕季が置いたチョークを掴んで話しながら文字を書いていく。
「実はさ、俺の『絳』って字も『あか』なんだよ」
「え、そうなの?」
「うん。母さん曰く、『どんな赤よりも紅いアカなのよ』って小さい時に言われてさ、どんな色なのか想像できなくて、どんなか聞いたら夕日を指さして『見ていたらそのうちわかるわよ』って言われてさ。それ以来、なんか夕日見るのが癖になっちゃったんだよ」
そう笑って既に真っ暗な窓に視線を向ける絳の表情はどこか懐かしそうで、夕季は絳の母が数年前に亡くなっていたのを思い出した。その瞬間、夕季の中で凍りついていた疑問が一瞬にして解凍され、自分があの時感じた線の正体になんとなくだがたどり着いた気がした。
あの時の幼い少年に起きた変化は、大切な人との喪失からの静かな成長だったのかもしれないと。そして、それは同時に夕季自身があの時、絳を無理やりにでも連れて帰れなかった理由でもあったのかもしれない。
夕季はあの時、自分が本能で絳の夕日を見る事を邪魔してはいけないと感じ取っていたのだ。そう考えると、不思議と心の中にストンと何かが落ちて納得がいった。
「……随分、綺麗な名前だったんだね」
「んー、そうなのかな…。小さい時は夕とお揃いくらいにしか思わなかったんだよ」
「はぁ!?」
「だって、夕の名前だって夕日の事だろ」
絳の思いがけない発言に、夕季は頬どころか耳まで赤くして狼狽えだす。その夕季の仕草の意味が解らないのか、絳は目を瞬かせて首を捻る。そのキョトンっとした表情は、夕季が小さい時に見た絳を思い出して自然と笑みが零れる。
そんな夕季の笑顔に、絳も幼いあの日の面影を残した穏やかな笑みを浮かべる。
そして、どちらともなく手を差し出してその手を取って笑いあう。
「この年でお手て繋いで帰りましょも変よね」
「でも、なんかちょっとほっとしない?」
「うん。絳の手、暖かい」
「夕季の手は昔から小っちゃいね」
そんな事を言って、そのくすぐったさにまた小さく笑い合って、お互いに熱くなる手を離さないまま歩き出す。そこにはどこかむず痒い気持ちと、くすぐったそうな笑いしかなく、先ほどまでの見えない線は存在しない。
あるのは微かなお互いの忍び笑いと、冷え込んできた空気のせいで意識される相手の暖かな体温。そして、今まで聞こえていなかった胸の中に響く強く早い鼓動。
二人に起きた小さな変化は、夕日とともに消えていき、夜闇とともにやってきた。その変化もまた昔に忘れてきた小さなカケラ。
少女が少年に感じた一線は、夕日の『あか』の中にあった小さな明けない闇だった。けれど、今の少女と少年の下に訪れた闇は、少女が幼ない日に忘れてきてしまった想いを数年の時を経て巡り巡って二人の元へと戻って来た。
その想いは、どんな『あか』にも負けぬ『あか』を秘めた明け色だった。
『あか』は明け。どんな暗闇も不安も絶望も照らし出して導く希望を秘めた色。夕は、明けへと誘う始りの色。
始りにして果ての色。




