スープ
次の朝、少女がベッドから起き出すと、猫はテーブルに座り魚にかぶりついていた。更にテーブルの上には少女の為に用意されたらしき皿もあったので、本人が驚いたのは言うまでもなかった。
少女は一度は躊躇したが、昨夜から悲鳴をあげ続ける腹の虫を無視することはできず、また遠慮する余裕すらも無くなってきていたので、素直に猫の好意に甘えることにした。少しすると、彼らの間に会話がぽつぽつと出始めた。
猫は自らをツナと名乗った。といってもそれは本名では無く、ある時から自分でそう名乗る様になったのだという。本名は何ですか、と少女が聞くと、猫、改めツナは、あった様な気がするが忘れてしまった、と言った。よれば、その時は名前に対して無頓着で、あちこちを旅している内に忘れてしまったと言う。少女は忘れるものなのかな、と思ったが、すごく猫らしいな、とも思った。
皿の中のスープはあっという間に消え、少女は向かい側で凍った魚をガリガリと食べるツナを眺めながら、
「どうしてツナという名前なんですか?」
何気なく聞くと、これまたのんびりとした答えが返ってきた。
「どうしてと言われても深い理由は無い。我は猫らしい猫である。して、何事にもこだわらない。一番好きな魚がツナであるからツナにしたのである。遠い昔、東の果てにある街に行った際に初めてツナを食べ、そしていたく感動した」
「そ、それだけの理由で?」
「さよう。 それ以外に思いつく物がなかったのだ」
ツナはそれだけ返事を返すと、また魚を食べる作業に戻った。
猫らしいな、とまた少女は思った。
''ツナ''が魚の名前であることは少女も知っていた。幼い頃はもっぱら大学の王立図書館に入り浸り、珍しい動物や魚の図鑑を読んでいたからだ。その中でも少女の興味を引いたのは、カール・フォン・リンネ、分類学における父と呼ばれた学者の本だった。この頃から、少女は別界に興味を抱くようになったのだ。
図書館は勿論、少女の国ではありとあらゆる公共施設が無料で、遊び場が至るところに存在していた。それも食糧難が進むにつれ、全て取り壊されてしまったのだが、少女にとって楽しい時間だったことには変わりない。
少女は懐かしさに目を細めた。
「……して、君の名前は何というのだね?」
ツナの声で、少女は現実に引き戻された。
「あ、えっと?」
「君の名前である」
「……うーん、私には両親が居なかったので、名前もないんです。 隊員ナンバーで良いですか?」
ツナがぴくりとひげを動かした。
「隊員ナンバーとな? それは確かに人間を区別する物ではあるが、動物で言えば科の中の目を判別するものに過ぎぬ。 名前がないのなら我が授けてやろう」
少女は目をしばたかせた。名前をくれる、ということへの驚きもあったが、なによりもツナの反応が、少女には新鮮だったのだ。
「ツナさんって」
少女はツナの顔を伺った。
「可哀想、とか言わないんですね」
「君は可哀想なのであるか?」
ツナは純粋な好奇心から、そう少女に聞いたようだった。少女はいよいよ返答に困った。
これが偽りの、あるいは気遣いから来る嘘であったならば、少女は上手く応えることができただろう。ありがとう、気を使わないで下さい。そう言えば、相手はほっとした表情を浮かべる。
もしくは、まあなんて可哀想に。無理しなくても良いのよ。そう言ってかつてのように、哀れみの目が返って来たのなら────……
少女は人の扱いというものを心得ていた。というのも、何を言えば人が喜ぶか、その為に何をすべきかを良く知っていたのだ。それは悪い意味で無く、お互いが傷付くのを避ける為だった。
少女は考えた。考えている間に、ツナが横の鍋に乗り出し皿にスープを継ぎ足した。
「……いいえ。 私は、可哀想ではありません」
「そうであるか」
「……。 というか、あの。 良いんですか?」
「何であるか」
ツナは眠たげな返事をしてまたスープを継ぎ足した。残してはいけないからと、少女は懸命にそれをすくっていたのだが、一息も置かず継ぎ足されるそれに戸惑いの声をあげた。
「私さっきからかなり食べてます、よ?」
「先ほどから羨ましそうに我の魚を見るのでな。 君に魚はまだ早い。
飢えた動物の群れが突然大量の食事を取ることで全滅してしまう。 その原理と同じである」
「何の話ですか!?」
「スープは嫌いかね」
ツナは唐突に真面目な顔になった。
少女はこの猫が全く掴めなかった。突然に真剣になったかと思えば、次の瞬間には全く別の話をし出す。何もかもが唐突な為、少女はその度に我に返り、この猫の気まぐれと真剣に向き合わなければならなかった。だが猫の王道を行くようなツナのこの性格が、少女は嫌いでは無かった。
「それで、スープは嫌いかね」
ツナが繰り返した。今度は話を変える気は無いようだった。
少女は白い湯気を立たせる皿を見る。話をしている間、少女は無意識にスプーンを何度も潜らせていた。
「……いいえ、好きです。 凄く美味しいです」
「ふむ。 では君の名前は''すーぷ''でよかろう」
「へ?」
予想外の返答に、少女は目を見開いた。
「スープ? スープって、これのことですか?」
「さよう。 それ以外に何がある。 粉末を溶かしとろみをつけたものだ」
「それは分かります。 しかしそれは名前なのですか?」
「名前だと思えばそうなるであろう」
少女は試しにスープ、と何度も言ってみた。するとむずがゆく、照れ臭い気持ちになった。少女は小さい頃から名前に憧れていた。名前が特別な意味を孕んでいると知っていたのだ。そして今、名前を貰えたことを、少女はとても嬉しく思った。そして少し寂しくもなった。
これからツナと別れ、素っ気ないパートナーに現状報告をしなければならない。
少女はツナに笑いかけた。
「スープって、不思議な名前ですね。 でも私、好きです。
呼ばれる度に今日の事を思い出せそうです」
「……それはなにより」
ツナは再び魚を食べだした。
それをぼうっと眺めながら、少女は考えた。ツナに拾われたことは、少女にとって幸運な事だった。あのまま気付かれなければ、死んでいたことだろう。
生き延びられたからには、ミッションを遂行しなければならない。そもそも、まだここが動物界である確証すら無い。
人間界を救う為には、なんとしても早く行動を起こすことが必要だった。
少女は、まだツナに銃を返してもらっていないことを思い出した。
面と向かって返して下さいと言っても、警戒されるだろうことは目に見えている。少女は後でこっそり探し出そうと決めた。
そして今だけは、残り少ない静かな時間を楽しむことにした。
名前やっと出せました。