昔
昔、とある猫が言いました。
我々はなんと嘆かわしい存在か。簡単に囚われ、首を切られても悲鳴をあげることすら出来ず、ただただ人間の下で息を潜めか細く生きることしかできぬ。
食物連鎖の世の中で、弱肉強食とも生態ピラミッドとも無縁の生活を送る人間達に、その猫は抗議の声を上げました。それは小さな小さな、本当に小さな声でしたので、すぐに雑音に紛れてしまいました。何度鳴き声を上げても、排気ガスとか、せわしない足音にあっという間に呑まれてしまうのでした。ダンボールの中にいたせいで、人間達はその存在に気付くことすら有りませんでした。
しかし猫は諦めませんでした。雨の日も吹雪く日も、ただ細細と鳴き声を上げ続けました。するとしばらくして、その噂を聞きつけた他の動物が一匹、また一匹と現れ始め、猫に共感し始めました。誰もが猫の言葉に耳を傾け、賛同し、尊敬の念を抱きました。噂は森や、山や、海にまで至り、次第に一つの勢力になり、大きく膨れ上がりました。
興味本位で参加したもの、気まぐれで参加したもの、実に様々な動物が集まりました。猫は、やがて動物達の中で英雄と呼ばれるようになりました。
一部の動物は人間を皆殺しにしてしまおうと言いました。しかし人間はあまりにも多く、また強力な武器を沢山持っていたので、到底太刀打ちできそうもありません。そこで動物達は、神様に人間の居ない世界を造って貰うよう頼むことにしました。
彼らが願うと、神様が降りてきて言いました。
あなたがたが本当にそれを望み、後悔しないというのなら、叶えてあげましょう。
動物達はとにかく人間達に怒り、次第に何に対して怒っているのかすら分からなくなってくるほどでした。とにかく人間達の居ない世界へ行けば、今よりも幸せな生活が送れるだろうと思いました。
動物たちが懸命に頼むので、神様は彼らの為に新たな空間を創り出しました。そこは人間が存在せず、緑豊かな美しい場所でした。正しく動物達にぴったりでした。
神様はその空間へ繋がる隙間を作ると、最後に言いました。
向こう側の世界へ行く為に必要なのは、行きたいと願う気持ちだけ。しかし行きは簡単でしょうが、帰るのは難しいでしょう。
戻れないと聞いて足をすくめた動物達の中から、一匹のヘラジカが前へ躍り出ました。片方の角が折れたヘラジカでした。彼は周りを一瞥すると、あっという間に空間の隙間に飛び込んで行きました。すると群衆がうねり、ヘラジカに続くようにして次々に動物達が隙間に入って行きました。
最後に残ったのは英雄と呼ばれた猫でした。猫はダンボールを咥えて、一度だけ後ろを振り返りました。そこには何も有りませんでした。誰も居ませんでした。猫は今度こそ隙間に飛び込みました。
実際のところ、いざそこに移ってみると、大勢の動物は数日もたたずあっという間に死んでしまいました。そこには食べ物も、それぞれに適した気候も備わっていました。しかし死んでしまいました。その動物達は新たな環境に順応することができなかったのです。魚達は水に浮き、人間に飼われていた者たちは飼い主を思い泣き明かし、やがて食べ物が取れず死にゆきました。
仲間が次々と倒れて行くのを見て、生き残った肉食の動物達は豹変しました。かつては仲間だった動物を次々に襲い、自分達が生きる為に必死になりました。もう仲間を思う余裕など無くなったのです。
すると直ぐに動物は激減し、緑豊かだった大地は荒れ果てた荒野になりました。
そんな支離滅裂な惨状を見て、生き残った動物達は悟りました。人間達は横暴で、残忍だと思われましたが、それはあくまでも一部のイメージにすぎなかったのではないか、と思ったのでした。生きる為に行う必要最低限の行為は、動物側から見れば恐ろしいことですが、それは自分達動物と何も変わりはしないと気付いたのです。
しかし共生への道は既にありませんでした。彼らは帰り方など知りませんでした。
壮絶な日々が続く中で、やがて僅かな者たちだけが生き残り、何もなかった空間で新たな生活を築いていきました。
これが現代に存在する動物界や植物界といった別界、それらの誕生の始まりでした。