そして思い出の場所から
なだらかな坂道を上り、その先はまるで空への入り口のような、私にとっての思い出の場所【見渡丘】。
木杉にとっても、自ら身を投げた場所であったし、私と初めて会った場所だ。
スタミナの限界まで走り続け、顔を上げた丘には、一つの細長い影が立っていた。 今にも折れそうなほど細い後ろ姿を、私はまばたきもせずに凝視しながら、ゆっくりと近づいていった。 彼が、ロープに手を掛けた。 私は深く息を吸った。
「お兄さん、自殺するつもり?」
細い肩がびくりと跳ね上がり、振り向いた。 昨夜よりも一層やつれた感じの木杉が、私を見つめた。
「奈未さん……?」
「幽霊みたいな目で見ないでくれますか? ちゃんと自分の足で立ってますから」
木杉は、ロープから手を離して私に向きなおした。
「そっち、行ってもいいですか?」
刺激しないように静かな声で聞くと、木杉は小さく頷いた。 どうやら落ち着いてはいるようだ。
私はゆっくりと歩み寄った。 木杉の向こう側には、いつもと変わらない穏やかな海面が、昇り始めた朝日を反射して眩しいくらいだった。 私は木杉の隣に立って、額に手をひさしのように当てて目を細めると、彼を見ることなく言った。
「別に、あなたのことが心配で来たわけじゃないですから」
木杉は視界の端で頷いた。
「ここは私にとっても思い出の場所だから、人が死んだなんて傷を付けて欲しくないんです」
ぶっきらぼうに話す私を、木杉は穏やかな顔で見つめていた。 そしてもう一度頷くと
「大丈夫。 そんな気はもう起こしませんよ。 きっと今死んでも、妻や香海は迎えてはくれないでしょうから」
木杉はどこかすっきりした口調で海を見渡していた。
「罪を、背負っていこうと思います」
潮風が朝日を染み込ませながら、ぬるい温度で頬を撫でていく。 私は頬を撫でる髪の毛を耳に引っ掛けながら、そっと木杉を見た。
彼は本当に清々しい表情をしていた。 笑みさえ浮かぶ口元。 木杉を知って初めて、彼に爽やかさを感じた。 私はふっと小さく吹き出した。
「なんですか?」
きょとんとして首を傾げる木杉に、私の心からの自然な笑みが零れ、優しい言葉が生まれた。
「多分、ホッとしているんじゃないですかね?」
「えっ?」
私はロープの杭から離れて二、三歩歩いた。 そして振り向くと、私の背中を視線で追っていた木杉に頷いた。
「勘違いしないでくださいね。私はただ、香海ちゃんから頼まれたからそうしたいと思っただけですから!」
「奈未さん?」
未だ理解できていない風の表情に、私は改めて息を吸った。
「例え夢であったとしても、多分、私はあの時止められなかったら、ここから身を投げだしたと思います。 救われたのは私も同じだから……私も、過去のことなんてそろそろ思い出にしなきゃなって、思ったんです」
木杉は黙って聞いていたが、その視線はまっすぐに私をとらえていた。 私はその熱い視線に耐え切れずにそっぽを向いた。
「でも、歩きだすには、一人じゃ心細いから、もし暇なら、相手をしてあげても良いですよ」
それは同情ではなく、同じキズを負った者同士、一緒に歩いてみても良いんじゃないかと思う素直な気持ちから出た言葉だった。 たどたどしく、とぎれとぎれな私の言葉に、木杉はにっこりと微笑んだ。
「僕はしばらく、警察で厄介になるかも知れませんが、待っていて……くれませんか?」
「仕方ないですね」
私は敢えて無表情で言うと、きびすを返して歩き始めた。 少し緊張しながら歩く私の後ろをついてきた木杉は、そっと声をかけてきた。
「お腹、空きませんか?」
「じゃあ、あの喫茶店で」
指を差したのは、あの日香海も含めた三人でお茶をした喫茶店だった。 私と木杉は顔を見合わせると、笑顔を交わした。
自然に。
ごく自然に、二人は並んで歩いていた。 不意に潮の匂いがして、思わず振り向いた。 だが、朝日に白く照らされた丘があるだけだった。
「どうかしました?」
木杉の声に、私はかぶりを振って言った。
白い丘を見つめながら
「何でもない!」
と返すと、笑顔で振り返った。
『仕方ない! 大好きな香海ちゃんの頼みだからね!』
そう香海に心で語り掛けながら、木杉の隣に駆け寄った。 潮風が優しく吹き抜けていく。 香海が走り抜けていくように。
私も、歩いて行かなきゃ。
新しい未来へ!
―― 完 ――




