愛されるということ
「あなたが絶望に打ち拉がれていたとき、どんなにその背中を抱き締めてあげたかったか……私はいつもあなたの傍に居て見守っていたのに、あなたは自分の殻から出られずにいた……そういう人だということは分かってはいたけれど……」
香海の中に、妻が乗り移っていたのだ。 目の前に居るのは、子供の風貌をした妻だった。
「ごめんなさい。 見ていられなかったの」
香海の姿をした妻は、私の方へと眼差しを送った。 大人びた表情で少し俯くと
「勝手に巻き込んでごめんなさい。 もしあなたが未来へ歩きだそうとするなら、どうかこの人のことも気に掛けて欲しいの。 理不尽なお願いだと思うけれど、でも……」
俯き、目蓋を震わせた。
「私が生涯を共にしようと誓いを破ってしまった以上、誰かに託すしかないの……」
『本当に勝手なことをベラベラと……』
私は言いたい事を押し殺しながら、黙って香住の話を聞いていた。
ムカついていながらも、この人の言いたいことは痛いほど理解できた。
志し半ばで病死し、残してしまった夫と娘が心配でないわけがない。 だが私には関係のない話。 拒否することもできるはずだ。 でもこのまま愚図れば、この人はきっと浮かばれない。
私は大胆にも、幽霊相手に嘘をつくことにした。
「分かったわ。 木杉さんのことは私に任せて。 あなたは、空から見守っていて。 きっと、大丈夫だから」
私の笑顔がはたしてどんな色を放っていたのか、想像も出来なかった。 もしかしたら今の気持ちも読まれているかもしれない。 少しの不安と恐怖を抱きながら、私は香住の反応を待った。
すると香住は、まるで安心したかのようににこりと微笑んだ。
「ありがとう……」
そう言うと、その表情が変化した。
「香海ちゃん……?」
直感で、今香海が表に出てきたのが分かった気がした。
香海は満面の笑顔で駆けてくると、私の腹に抱きついてきた。 あの時の感触が蘇ってきた。 香海の小さくひ弱な、でも懸命に握る手のひらの握力が、私の腰に感じた。 私はゆっくりとその頭を撫でた。 香海は見上げ、もう一度、今度は香海の声で
「ありがとう」
と言った。
「…………」
思わず涙がこみ上げ、何も返せない私から離れた香海は、今度は木杉に抱きついていった。
「お父さん、香海はずっと大好きだよ!」
はっきりとした口調でそう伝えると、その体が次第に透けてきた。
「香海……っ」
膝をつき涙をこぼしながら、笑顔の娘を見つめる木杉は、最後の感触を惜しむかのようにその頬を撫でていた。
その姿が消えて無くなったとき、辺りはすっかり暗くなっていた。 遊んでいたわずかな子供たちも居なくなっていて、ポツポツと外灯がついて、遊具がほのかに照らされている。
遠くにさざ波を聞きながら、私たちは取り残されたように立ち尽くし、黙り込んでいた。 私は、ひとまず嘘がばれなくて良かったと、ひそかに胸を撫で下ろしていた。 木杉はというと、さっきまで啜り泣いていた様子も消え、存在感さえ薄れているように思えた。 このまま暗やみに溶けてしまいそうなほど、彼はあまりにも静かだった。 私は、ほうっと息をつくと、木杉を見ずに呟くように言った。
「愛されているんですね」
「えっ?」
「奥さんにも、娘さんにも」
「……」
木杉は黙っていた。
認めも否認もしなかった。 内心、彼も驚いていたのかもしれない。 てっきり自分は恨まれていると思っていたようだから。 自分の幸せに気付かずに、木杉はソレを捨てたのだと思うと、急に私の胸の中が沸き立ってきたのを感じた。 こんなに想ってくれていた母子を裏切り、あろうことか娘の命を奪ったのだ。
私は彼に捨てられた。 あんなに想って想って、いつも彼のことしか考えてなくて、言ってしまえば自分の人生を彼に捧げるつもりでいたのに、彼はいとも簡単に私を捨てた。
そう。 木杉は、形こそ違いはすれ、私の彼と同じ事をしたのだ。
私は、木杉には嘘はつけなかった。
「私は、奥さんの願いを叶えることは出来ませんから」
彼は膝を付いたまま、茫然と見上げていた。 真っ赤な瞳が暗がりでも分かった。 それを冷たく見下ろしながら、冷たい言葉を放った。
「私、あなたのような気弱で頼りない人、タイプじゃないの。 それに私は、あなたたちの内輪揉めに付き合えるほど心が広いわけでもないし、責任を持つ義務も無いと思うの。 だから、この先あなたが路頭に迷おうと私には関係ないから!」
辛辣な言葉だと思いながらも、私は木杉に伝えなくては気が収まらなかった。 目を伏せ、次第に俯く木杉。 呟くように彼は言った。
「そうですよね。 僕は本当に情けない男です。 思えば、初対面のあなたにあれこれ頼む事自体、おかしい話ですからね……お騒がせして、すみませんでした」
顔を上げない木杉に、私は少し動揺を覚えた。 だが、吐いた言葉を飲み込むことは出来なかった。 もう嘘は付きたくなかったからだ。
「本当に、いい迷惑だったわ!」
突き放すように言うと、逃げるように公園を飛び出した。
『そうよ、私には全然関係ない。 木杉って人なんて知らなかった! 今もこれからも、見知らぬ人よ! まだ夢を見ているだけなんだから! 明日になったら夢だって気付くわ、きっと!』
自分に言い聞かすように、何度もさまざまな過程を自分の中に植え付けるように唱えていた。 自宅に帰り部屋に閉じこもると、ベッドに飛び込んだ。 頭の上まで毛布を被ると、体を丸めた。
『関係ない……私は関係ない……』
そう思えば思うほど、私の体に香海の感触が蘇っていた。
しがみついてきた香海の小さな手。 柔らかく細い髪の毛、小さな頭。 大きなくりくりと良く動く瞳。 頬いっぱいに広がる口、白い歯。 その笑顔が、何度も何度も、次第に鮮明に思い返されて仕方ないのだ。
「もう!……出て来ないでよっ!」
篭もった声で叫んで、ぎゅっと膝を抱えた。
『ごめんね、香海ちゃん……私には、お父さんを救えない』
むしろ私が助けてほしいくらいなのに。
「…………」
思えば、あんなに突き刺さっていた失恋の痛手が、この数ヵ月間のいざこざの性でどこかへ行ってしまった。 あの時、夢の中だったとはいえ、崖の上から飛び降りようとしていた私を助けてくれたのは香海だった。
『香海ちゃんが、私を救ってくれた……』
どれくらい時間が経っていたのか。 いつの間にか眠っていた私は、窓の方へ視線を送ると、外が白んでいるのが分かった。
『朝……』
ぼーっと薄明るい外の色を眺めていると、私の口から思わぬ言葉が零れた。
「木杉さん、帰ったのかな?」
私は驚いて飛び起きると、髪の毛をくしゃくしゃとかきむしった。
「な、何を言ってるの、私ったら……」
額に手を当てると、ピタピタと軽く叩いてその思いを追い出そうとした。 だが逆に、ベンチに座りうずくまる木杉の姿が強く浮かび上がるのだ。
木杉は、正真正銘の一人ぼっちになった。
そう思うと、なんとも居た堪れない気持ちになった。
「…………もうっ!」
めくり捨てるように毛布を蹴り飛ばし、ベッドから飛び降りると、苛立ちを身体いっぱいに表現しながらドアを思い切り開け、家を飛び出した。
後ろから母が何か言っているのが聞こえたが、当然振り返ることはなかった。
息急き切って駆け込んだ海岸公園のベンチには、木杉の姿は無かった。 私は何故か、木杉があのまま家に帰ったとは思えなかった。
私が思い当たる、彼が行きそうな所は、ひとつだけだった。




