潮の香りと香海と……
それから一ヶ月ほど経っただろうか?
私はあれ以来、海岸公園に行くことが多くなった。 相変わらず公園で遊ぶ子供たちは少ないが、走り回る様子はいつの時代も変わらないものだ。 甲高い笑い声が、広い空間に波の音と共に響き渡っている。 少し前はそんな黄色い声がウルサイだけだった私は、今は聴けることをどこか楽しみに思ってしまう。
失恋の痛手はだいぶ癒えた。 時間の流れはやはり最大の鎮静剤なのかもしれない。 今はそれよりもむしろ、あの日一日だけ触れ合った木杉親子の思い出が頭の中を支配していた。
どうしてもただの夢だったとは思えないのだ。 夢にしてははっきりしすぎている。 香海は確かにあの遊具で元気いっぱいに遊んでいたのだ。 転んでできた傷の手当てをしている間、懸命に我慢していた香海がしがみついてきた細い腕の感触と子供特有の温もりが、まだこの首筋に残っているのだ。 納得できないままぼーっとそんな思い出に浸っていると、不意に潮の香りが鼻孔を撫でた。
「香海ちゃん……?」
私は思わず周りを見渡した。 すると、公園の入り口に人影が見えた。
「あ……」
吸い込まれるように立ち上がる私に、その人影が歩み寄ってきた。
木杉だった。
彼はあの時のように、細身にまた一層肩をすぼませ、まっすぐ近寄ってきた。 気弱そうなくぼんだ頬には、わずかばかりの笑みが浮かんでいる。 目の前まで来ると、彼は目を細めて優しい笑顔を見せた。 それは、木杉が私の事を覚えていると伝えていた。
私は、正直ホッとした。
公園の端にあるベンチに、木杉と並んで座った。 あれこれと考えを巡らせど、一番最初の言葉が浮かんで来ないまま、しばらく二人は黙ったまま公園の様子を眺めていた。 やがて、おずおずと木杉の口が開いた。
「夢……だったんですよね?」
木杉自身も、あの時の出来事が夢だったのか、現実だったのか、確かめられずにいたのかもしれない。 私は遠くに見える海原を眺めた。
「私は、夢じゃないと思っています。 あの時触れた香海ちゃんの体温や、声や、肌の感触も全部、本物だったと思いたいから……」
木杉は俯いて自分の手のひらを見つめた。
「僕は、この手に香海の最後の温もりを覚えているんです。 ただのわがままでした。 妻が居なくなって、僕はどうしたらいいのか分からなくなって……この先、香海を一人で育てていく自信が無かった。 そして気付いたら、僕たちはあの見渡丘に立っていました」
私の頭のなかに、木杉親子が並んで海を眺めている風景が浮かんだ。
「そうしたら、香海が僕を見上げて言ったんです。『私、お父さんと一緒なら、大丈夫だよ』って。 だから僕は、決心したんです」
「死ぬことを、ですか?」
思わず漏れた声が、意外にも低く静かなものだった。 私は木杉に対して怒りを感じていた。
木杉は、私の予想通り頷いた。
私の体が、血の気が失せたように震え始めた。 でも、声だけは何故か静かに揺らめいた。
「それは、違うと思いますよ」
「えっ?」
木杉は私の横顔を見つめていた。 否定されたことが意外だったかのように、目を丸くしているのが、視界の端で分かった。 私はその視線から逃れるように目を閉じた。 香海の笑顔が目蓋の裏に滲んだ。
私はゆっくり目を開けて、また海原を見つめた。
「香海ちゃんは、父親であるあなたとなら、どんな苦難にも、寂しさにも、何にだって立ち向かえると、言ったんです。 きっと」
「えっ……まさか……」
木杉は、信じられないと言うようにかぶりを振った。 私はその顔を見られずに、ゆっくりと言った。
「父親であるあなたを信じているから、そう言えたのだと思います」
そう、思いたかった。 まだ六歳の子供にそこまで考えられるものかどうかは分からないが、せめてそう言いたかったのだと思いたかった。 そうじゃなきゃ、香海は何のために生まれてきたのか。 たった六年の命を、幸せに過ごせたのかと、不憫でならないのだ。 私にしがみついてきたあの小さな命は、確かに生きていたのだから。
私の横で、木杉は肩を震わせていた。 大きく息を吸ったかと思うと、むせぶように声を震わせた。
「僕はぁっ!……香海を目の前に……決心する方角を見誤ったんですね……あぁ……僕は何ということを……取り返しのつかないことをっ…………」
骨張ったこぶしを握ってひたすら悔やむ木杉。 私はそこに、責めるような言葉を吐いた。
「香海ちゃん、もっとこの公園で遊びたかったんじゃないですかね? いっぱい走って、いっぱい笑って、いっぱい泣いて。 そんな計り知れない未来を、あなたは勝手な我が儘でいとも簡単に奪ったんです」
酷いと思った。
木杉も。
私も。
これじゃあ、誰も救われないと思った。 でもこれが現実だから。 私は自分の言葉に後悔はなかった。
「香海は、きっと僕のことを恨んでいるでしょうね……」
悔いに満ちた声に、私は何も答えなかった。 香海の気持ちはもう分からないし、木杉の気持ちももう届かないからだ。 答えなど出るはずが無い。
その時、不意に潮の香りがした。
遠くに広がる海原からのものとは違うと直感していた。 すぐ近くに、その気配があったのだ。
「香海……?」
木杉が驚いたようにその名前を呼んだ。
夕方のオレンジ色に染まる公園に、その気配は確かにあった。
『香海ちゃんが来た!』
私は不思議と怖くなかった。 幽霊とかおばけだとか、確信の無いホラーじみた物が大嫌いな私が、驚くほど冷静になっていた。
「お父さん……」
香海の声が小さく聞こえた。
「香海っ? どこかに居るのかっ? どこに居るんだっ?」
怯えなのか、それとも焦りなのか、驚異を感じていたのか、木杉は弾けるようにベンチから立ち上がって激しく辺りを見回している。 その仕草の性で風が生まれ、静かに座る私の前髪が揺れた。
「お父さん」
もう一度聞こえたとき、それははっきりと目の前から聞こえた。
「うわあっ!」
木杉は腰を抜かしてベンチに尻を打ち付けた。 私たちから二メートルほど離れた所に、香海が立っていた。 それでも私は驚くばかりか、じっと彼女を見つめていた。
あの時と同じ、水色のワンピースと長靴、そして両側に結ばれた髪の毛には青いゴムが映えていた。
「香海……許して……」
すっかり怯えきっている木杉にイラついた私は、思わずその肩を叩いた。
「しっかりしなさい! 父親でしょうが!」
「で、でも……香海は……」
「幽霊だろうがなんだろうが、香海ちゃんは、何か言いたいことがあってここに来たの! そんな情けない姿を見せちゃダメ!」
喝を入れる私に、香海がくすりと笑った。
「やっぱり奈未お姉ちゃんが当たりだった!」
明るい声で言うと、首をかしげて微笑んだ。
「私?」
「奈未お姉ちゃん、お父さんのこと、よろしく!」
「ええっ?」
きっと今の私、かなりの嫌悪感丸出しの顔をしている。 こんなナヨナヨの痩せ男なんて嫌だ! いくら香海の頼みでも、それは分不相応ではないか? 私にも選ぶ権利はある。 そんな気持ちを悟ったか、香海は木杉に向かっていたずらっぽく笑った。
「じゃあ、お父さん頑張って! 奈未お姉ちゃんだったら、きっと大丈夫だから!」
何の確証を持って、何が大丈夫なのか? 私は戸惑いながら二人を交互に見比べた。
「香海、君は一体何を……」
震えた声で尋ねる木杉に、香海は手を後ろに組んで髪の毛を揺らし、そして微笑んだ。
「だって心配なんだもの……あなたが……」
「えっ!」
木杉の動揺は振り切っていた。
香海の声が次第に変わっていたのが、私にも分かった。
「香住?」
それは木杉の死んだ妻の名前だった。 香海はどこか大人っぽい表情になり、木杉を見つめた。 そしてその口が開かれた。




