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Wish of the sea breeze  作者: 天猫紅楼
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あなたに会いたくて

 一体誰に怒りを向けたら良いのか分からなかったが、とにかく木杉の家へ行けば何か分かるだろうと全速力で走った。

『香海ちゃんの握った手や、息遣いだって、潮の香りだって、走り疲れた体を癒してくれたドリンクの冷たさだって、走り疲れたふくらはぎの痛みだって、香海ちゃんの重さだって、みんなみんな覚えているのに!』

 息が続かなくなるぎりぎりのところで木杉のアパートに着いた私は、彼の部屋の前へと駆け寄った。 薄いベニヤのような板張りの扉を覚えている。 表札にはちゃんと【木杉】と黒マジックで書いてある。

「間違いない。 ここだ」

 荒い息さえも鬱陶しかった。 私ははやる気持ちを懸命に押さえてノックをした。 数秒立っても何の反応もなかった。 ドアに耳を付けてみたが、物音ひとつ感じられなかった。

 もう一度、今度はしっかりとノックをした。 だが、しばらく待っても何の反応もなかった。

「留守かな……?」

 唇を噛み、俯きかけると、不意に声をかけられた。

「あなた、木杉さんのお知り合い?」

 顔を上げると、パーマをがっつりとかけた、エプロン姿のおばさんが、私の顔を覗き込んでいた。

「あ、はい……あの、木杉さんはお出かけですか?」

 何でもいいから事情を知りたかった私は、おばさんにすがりつくように尋ねた。 おばさんは、驚いたように大きな目を真ん丸にした。

「あら、知らないの? 木杉さん、今病院に居るのよ」

「病院?」

 

 数十分後、自宅に一度戻り、さっきぶちまけた財布の中身を豪快に戻して再び家を飛びだした私は、タクシーを拾って、教えてもらった病院へと向かっていた。

「木杉さん、娘さんと心中しようとして、見渡丘ミワタリオカから身を投げたらしいのよ。 二人共すぐに病院に運ばれたらしいけど、娘さんの方がねえ……」

 おばさんの言葉に、私の胸の中が荒れ狂っていた。

『どういうことなのよ? 私は確かに……』

 見渡丘とは、昨日木杉と会った思い出の崖のことだ。 ソレよりも何よりも、昨日あったことを私は克明に覚えていて、全ての感触や匂いや光景も、事細かに話せる自信がある。 そう確信しているはずなのに、何故こんなにも地に足が着いていない感覚なのか?

 

 病院に駆け込んだ私は、ナースステーションに詰め寄る勢いで彼の部屋番号を聞き、半ば走るように廊下を急いだ。 薬品の匂い漂う長い廊下を足早に歩くと、集中治療室の扉が見えた。

 看護師の話では、木杉はまだ意識が戻らないという。

 でも私は、確かめなくてはならなかった。 昨日あったことは本当に夢だったのか。 例え夢であっても信じられないと分かっているのに、それでも確かめたかった。

 木杉が眠るという部屋の前に横たわる長椅子に、初老の男性が疲れた色を湛えた表情で俯き座っているのが見えた。

「あのー……」

 躊躇なく声をかけると、男性はゆっくりと顔を上げた。

「あなたは?」

 力の無い声で尋ねられて、私は自分の名前を答えた。

「井坂と言う者です。 木杉さんの知り合いなんですが、面会は出来ないのでしょうか?」

「……」

 男性は私の顔をじっと見つめながら、何か言葉を探しているようだった。 私は急に我に返り、自分の身なりを見直してひやりとした。 あまりに急いでいたので、手の届くところにあった服に着替えていた私は、白いTシャツにジーパン、紺色のジャケットという、なんとも見合いに来たとは間違っても合っているとは言えない服装だった。 しかもお見舞いの一つも持たずにいた私は、途端に恥ずかしくなって思わずジャケットの前をぎゅっと握った。

「あのっ、急な知らせだったので、慌てていて……あの、木杉さんの容態は?」

 男性は慌てる私に気にもしない感じで、

「ああ、雅人は--」

と言い掛けたところへ、背後から別の声が聞こえてきた。

「お見舞いの方?」

 ぐずついた男性とは一変した、はっきりした口調に振り向くと、スマートな薄いスーツを着て花瓶を持つ初老の女性が私を見つめていた。 彼女にもまた、隠しようの無い疲労の影が映っていた。

「は、はい。 面会は出来ますか?」

 改めて緊張しながら尋ねると、女性は小さく微笑んで頷いた。

「ありがとう。 でも、まだ眠っているの。 それでも良ければ、顔だけでも見てやって……」

 女性はゆっくりと扉を開くと、私を部屋の中へと促した。

 

 

 カラカラと軽い音と共に扉が開くと、ピッピッという電子音が耳に届いた。

「今朝になって、だいぶ落ち着いたのよ。 それまではずっと、予断を許さない状況でね……」

「そうですか……」

 私はまだ顔の見えない木杉のベッドへと歩み寄った。 ゆっくりとその様子が見えてくると、途端に動悸が激しくなった。

『私は木杉さんの事を知っているかもしれないけど、彼は、私のことを知らないのよね?』

 そう思いながら、恐る恐る木杉の顔を確認した。

「あっ!」

 それはまさしく、昨日話を交わした木杉雅人、その人の顔だった。

『まさか、そんな……』

 驚愕し、口を押さえて立ち尽くす私の肩にそっと手を置いた女性が、椅子へと促した。 力なくストンと座る私に、女性は優しく話し掛けた。

「私も驚いたわ。 香住さんが亡くなって、そこまで悩んでいるなんて……遠慮せずにもっと話をしてくれれば、こんなことにはならなかったのに……一人で抱えこんでいたのね」

「あの、木杉さんのお母さん、ですか?」

 私は女性を見上げてかすれた声で尋ねると、彼女は優しい微笑みと共に頷いた。 目の辺りが、息子さんと似ている。

「表に居たのは、夫よ。 すっかり意気消沈しちゃって、見ちゃいられないから、廊下に出てもらったの」

 温和そうな笑顔を見せながらも、手厳しい言葉を垣間見せる様子から、普段はきっと旦那に対して厳しく言うのだろう。 だが息子を見つめる表情は、母性にあふれた穏やかな顔をしている。

 私は改めて木杉の顔を見つめた。 酸素マスクはされているが、今にも目を開きそうな、穏やかな寝息を立てている。

「昨夜は珍しく寝言のようなことを呟いていてね、そのまま意識が戻ることを信じながら、ずっと手を握っていたの。 雅人、何か夢を見ていたのかしらね」

「夢を?」

 私の胸がざわついた。

「そう。『カオミ』って娘の名前を呼んだかと思ったら、『ナミ……ナミ……』って、誰かの名前を呼んだりして。 お嫁さんの名前じゃないのよ。 一体何の夢を見ていたのかしらね」

 首を傾げながらも、息子の様子が落ち着いた事に心底安心している様子で笑顔を浮かべていた。 私は何も言えずに木杉の顔を凝視していた。

『私の名前を呼んでいた……?』

 動悸が激しく私の胸の中で波打った。

 

 その時だった。 木杉の瞳が前触れもなく開いたのは。

 

「雅人! 気がついたの? お母さんよ、分かる?」

 いち早く気付いた母親が、木杉に覆いかぶさるように名前を呼んだ。

「木杉さん……」

 私の小さな声に、木杉が視線を向けた。 私は何も言えずにじっと見つめるしかできなかった。

 私と視線を合わせたまま、彼の口元がわずかに開き、何か言おうとしたとき、部屋の扉が開いて父親が入ってきた。 中の異変に気付いたのだろう。 ふらふらと歩み入る彼に、母親が振り向くと、

「あなた、雅人が! 早く先生を呼んできて!」

 息子の顔を見る間もなく、父親は再び追い出されるように病室を出て行った。

 やがて医師と看護師がやってくると、てきぱきと木杉の様子を診た。 私は病室の隅で、木杉の父と並んでその様子を見守っていた。

 母親が医師に近寄り尋ねると、事務的な口調でもう安心だと告げて病室を出て行った。

「良かった……!」

 やっと気が抜けたのか、母親は崩れ落ち、私と父親とで彼女を支えて椅子に座らせた。その時、木杉の声が聞こえた。

「ありがとう……」

 小さな声だったが、私たちはほぼ同時に木杉を見つめた。 その言葉は一体誰に対して言ったものなのかは分からなかった。 だがその一言が、それぞれの心に届いたのは確かだった。

 

 しばらくして再び眠りについた木杉の病室を出る私に、母親が

「また、もう少し元気になったら、来てやってね……あの子、お嫁さんと娘を亡くして、きっと淋しいだろうから……」

とすがるような瞳で言った。 私は小さく頷いて、踵を返した。 母親はその背中を再び引き止めると

「お名前は?」

と尋ねた。

 私は躊躇した。

 寝言で呼ぶほどの名前を持つ私がその本人だと知ったら、この両親はなんと思うだろうか? 私は父親の顔を見た。 疲労の濃い表情の中にも、何か言いたげな雰囲気を感じた。 何かを言われる前に、私は少しだけ間を置いて、自分の名前を言った。

「井坂……奈未です」

「ナミ……?」

 母親の眉がぴくりと動くのが分かった。

「でも、私が木杉さんと会ったのは、夢の中が初めてなんです。 香海ちゃんに呼ばれたのです」

 私は、彼らには到底理解できないであろう話をして、改めてお辞儀をすると、その場から足早に去った。

 両親は追っては来なかった。 きっと、呆然とした顔で私を見送っていたに違いない。

 その後、二度と木杉の見舞いには行かなかった。 と言うより、行けなかった。 行ったらきっと、ご両親には怪訝な目で見られるだろうし、もしかしたら私が不倫しているのではと疑われる可能性もあった。

 色々と考えた挙げ句、結局病院に足を運ぶ事はなかった。

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