眠りから覚めた夢
「どうもありがとうございました」
木杉がコーヒーカップを私の前に差し出しながら、また申し訳なさそうに眉を下げた。
香海が私から離れないので、仕方なく木杉の家にお邪魔することになった私。
帰り道の途中で、私の背中で眠ってしまった彼女を小さな布団に寝かせると、すぐに帰るつもりだったが、木杉は
「お茶でも飲んで、休んでいってください」
と私を引き止めた。
「どうぞお構いなく」
公園で散々遊んだこともあって、正直疲れを感じていた私は、小さなテーブルに置かれたコーヒーに口を付けた。 インスタントの甘く単調な味がした。 それでも、だるい体に気持ちよく染み込んだ。
二階建てのアパートの一角にある木杉の部屋。
2DKの、さほど広くない間取りの一部屋。 通された六畳の小さな部屋には、小さなテレビや低いタンスなど必要最低限な家具しかなかった。 そんなシンプルなへやの一角に低いローテーブルがあり、花が生けてある花瓶の横に、額縁に入れられた写真が立て掛けてあった。 写真には、肩下まで緩やかに伸びた茶髪が今にもふわりと揺れるような、優しく包むような笑顔の女性が写っていた。
『綺麗な人……』
それを見つめる私に、木杉は
「妻です」
と答えた。
「あ……」
その途端私は、数ヶ月前に、近所の若い人が亡くなったと母が話しているのを思い出した。
「まだ若いうえに、小さい子もいたみたいなのよ。 可哀想よねえ。 父親一人で育てられるのかしら?」
夕食時、息も盛んに話す母だったが、他人事には興味も無く、その時は何の気もなく聞き流していただけだった。 だが、それがまさか木杉の奥さんだったとは。
「ずっと体が弱くて、香海を産んでからもあまり体調はよくなくて……無理がたたったのか、ある日突然に……」
「そうだったんですか……」
たいした言葉も見つからず、そう答えた私に、木杉は眼鏡を上げた。 まるで浮かび上がる涙を堪えるように。
「僕は、香住の様に強くないんです。 でも僕なりに香海を愛して、育ててきたつもりです」
木杉もまた、突然目の前から居なくなった大きな存在に戸惑い、戦ってきたのだろう。 この小さな部屋で悩む親子のことなど、私はまったく知る由もなかったし、むしろ私も自分のことで精一杯だったのだ。
失恋ごときで何日も部屋に引きこもり、膝を抱えてうずくまっていた自分が小さく思えた。 木杉は最愛の妻を、香海は最愛の母を亡くしたのだ。 取り戻せない過去と戦う二人には、私の悩みなど吹けば飛ぶ塵のような、ちっぽけなもののように思えた。
私は、香海に視線を移した。
遊び疲れて、ぐっすりと眠っている。 少々ほっぺたをつまんでも起きなさそうなほど、穏やかな寝息を立てている。 今日の香海からは、そんな悲哀は全く感じられなかった。 どこにでも見かけるような、明るく元気な子供にしか見えなかった。
『そして、強い子……』
母親が死んでしまったことも、分かっているに違いない。 きっと色々と我慢をしているんだろう。 父親に心配をかけないように。
「さっき泣かなかったのも、私を心配をさせたくなかったのね。 優しい子……」
私は香海の髪の毛に触れ、きつく縛ってある髪の毛を結ぶ青いゴムを外してやった。 と同時に、ふんわりと潮の香りが鼻をくすぐった。 まるでその名前が呼んだように、海の香りに包まれた気持ちになった。
『守ってあげたい』
そう思っているうちに、次第に私の頭の中が白く濁っていくのを感じた。 同時に強い眠気を感じ、私は抗う事も出来ずに香海の傍らに倒れこんだ。
薄れ行く意識の向こうに
「お父さんをお願い」
と香海の声がかすかに聞こえた気がした。
――
次に目を覚ましたとき、私はその状況を理解するのにしばらくの時間を必要とした。
私は確かに、木杉の部屋で眠ってしまったはずなのだ。
なのに、今私の目に映っているのは、見覚えのあるカーテン、壁のポスター、ローテーブル、そして体を包む肌に馴染んだ毛布、ベッド…………
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
『ここは、私の部屋だ……』
状況が分からずにゆっくりと起き上がると、お気に入りのジャージが寝癖でしわになっているのが視界に映った。 頬を撫でる髪の毛を掻き上げながら、私はもう一度考えをめぐらせた。
『私は木杉さんの家に行って、香海ちゃんの寝顔を見ていたら急に眠気が……』
「はっ!」
私の脳内がじわじわと覚醒するに従って、居ても立ってもいられない気持ちになった。
「行かなきゃ!」
私はベッドから抜け出すと、急いで適当な服に着替え、メイクもそこそこに部屋を飛びだした。
「あら、奈未っ?」
台所に立っていた母が、私に気付くなり驚いて目を丸くした。
「どうしたの? 突然部屋から飛び出してきて?」
「母さん! 私、昨日夜遅くまで出掛けてたよね?」
「えっ?」
鼻息荒く尋ねる私に、母は戸惑いながら首を傾げ、次に、腰に手を当ててため息を吐いた。
「何言ってるのよ? あなた、ここ数日はずっと部屋にこもりっきりだったじゃない。 一歩だって家の外に出たのは見ていないわよ。 こっそり出ていったのなら知らないけどね!」
「そんな……?」
私は再び思いを巡らせた。
昨日の昼下がりにあの思い出の崖で木杉親子に出会い、それからずっと一緒にいた。 公園でもあんなに息が切れるほど遊んだではないか。 自分の体のあちこちを触ってみたが、筋肉痛のような疲れは出ていないようだった。
「一体、どういうこと?」
一人呟く私を、母はいぶかしげに見つめていた。 そして何か言いたそうな母を置いて、再び自分の部屋に戻った。
ローテーブルの上に置いてある財布を逆さにした。 ザラジャラとけたたましい音を立てて小銭やお札、カードがテーブルの上に転がり、その中に、昨日香海に使ったはずの絆創膏が交じっていた。
「なんで……?」
頭を軽く叩きながら、何か他に証拠になるものはないかと考えた。 そして次に出てきたのは、【あれは夢だった】という仮説だった。
『まさか……!』
私は弾けるように立ち上がると、家を飛びだした。
後ろから母が何か言っているようだったが、構っている暇など私には無かった。
「夢オチだったなんて、許さないからね!」
誰に言うでもなく、私はそう叫んでいた。




