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Wish of the sea breeze  作者: 天猫紅楼
2/8

海の見える喫茶店

 香海の父親は、木杉雅人キスギ マサトといった。

 私はその名前になんとなく聞き覚えがあるような気がしたが、すぐには思い出せなかった。 誰かの名前と似ていたのかもしれないし、勘違いかもしれない。

 二十六歳なら私と二つ違いだが、どうも年下の私のほうがしっかりしている印象だ。

 三人で入った、海がよく見える喫茶店で、私は木杉親子と向かい合って座った。 はたから見たら、親子の図だろうか?

 木杉は細い銀縁眼鏡を何度も上げながら、大半を俯いていたが、その顔には絶えずほのかな笑顔を浮かべていた。 それを横目に、何故か私は香海と仲が良くなっていた。

「きっと私と波長が合うのよ!」

 嬉しそうに言う香海に、私は複雑な笑みを返したが、否定は出来なかった。 香海は、六歳にしては言葉が達者だ。 きっと両親のどちらかが文学に長けているのかもしれない。 よく見れば、利発そうな顔立ちだ。 将来はきっと美人になると言うと、香海は嬉しそうに笑った。

 

「あの、この近くにお住まいなのですか?」

 

 やっと木杉が口を開いた。 少しおどおどした口調が引っかかる。 この手の男は苦手なのだ。 私は少し固い返事をした。

「はい。 ちょうどこの道をまっすぐ行ったところの左手にあるマンションに住んでいます」

「家族と?」

 今度は香海が尋ねた。

「そうよ。 生まれてからずっと、ここに住んでるの」

 私は香海には何でも素直に話せる気がしていた。 多分、香海の純粋な眼差しがそうさせるのだろう。 さっきまでのモヤモヤした気分が、嘘の様に晴れ渡っている感じがしていた。

「じゃあ、ご近所さんね!」

 香海は嬉しそうに笑った。 青いゴムで結ばれた二つの髪の束がピョンピョンと跳ねる。

「えっ? そうなの? じゃあ香海ちゃんも、この近くに住んでるのね?」

「そうよ!」

 ニコニコと首を揺らし、床に着かない足をばたつかせて、香海は本当に嬉しそうだった。

「彼氏は?」

 香海が、コーラの氷をカラカラとストローでつつきながら尋ねた。 もはや香海の質問は、年頃の男性の、好意のある女性に対する口説き文句に近づきつつある。

 すると珍しく、木杉の口から鋭く強い口調が生まれた。

「こら! 初対面の人に、そんなことを聞くもんじゃないよ!」

 今の今まで穏やかな雰囲気だった木杉から、初めて冷たい空気を感じた。 それは明らかに香海に向けたものだった。

 香海は驚いたように父親を見、目を丸くして黒目を泳がせた。

 

 

『泣く!』

 

 

 私は咄嗟に恐怖を感じて、わざとらしく手を挙げた。 子供に泣かれるのは本当に困るっ!

「ま、まあまあ! 香海ちゃん、色々聞きたいお年頃なのよね? 分かるわ、私もそうだったもの」

 そう言って場の空気を和ませようとすると、香海は視線を落としたままでガタンと椅子から飛び下り

「おしっこ!」

 とトイレの方へと駆けていった。 香海の横顔から、尖った唇の先が見えた。

「あーあ……へそ曲げちゃいましたね……」

 私はトンと肘をついて香海の後ろ姿を見送りながら、肩をすくめた。 そしてちらりと木杉に視線を送ると、

「でも、助かりました」

と小さく舌を出してみせた。

「えっ?」

 驚いたように聞き返す木杉に体を向きなおすと、コーヒーカップに指をかけた。 その波立つ面の曲線を見送りながら、小さく言った。

「私、失恋したばかりだから」

「あ……」

 木杉が息を呑むのが、俯いていても分かった。 それでも私は顔を上げずに、何故か微笑んでいた。

「しばらくしたら忘れて、気持ちも落ち着くだろうと思っていたんですけど、やっぱり忘れられなくて……こうなったら逆に、思い出の場所に行こうと思ったんです」

「それが、さっきの……?」

 木杉の震えた声に、私は小さく頷いた。

 頷きながら、私の脳裏には、彼と一緒にいた風景が蘇ってきた。

 

 

 ――

 まだ二人の仲が良かった頃、あの崖の上で、当時話題だった映画【タイタニック】の真似事をした。

 ロープをまたぎ、崖の縁すれすれの所に立った私は、下を見ても怖くなかった。 後ろから彼が捕まえてくれている。 そう信じていたから、なおさら身を乗り出して腕を広げた。

 目を閉じると、吹いてくる風が頬を舐め、本当に海原を進む船上にいるような錯覚に陥った。

「危ないぞーー?」

 私の腰に手を回した彼の声が、困惑したように震えていた。 それが面白くて、私はなおさら身を踊らせた。

 

 

 ――

「それがさっき、あの時と同じように下を覗いたら、あまりにも深いことに気付いちゃったんですよねーー。 思わず憎らしくなって、睨んでしまいました」

 もはや独り言のように、自嘲にも似た笑みを浮かべながら話す私を、木杉がどんな気持ちで見ていたのかは知らない。 けれど、無視をしていないことは空気でわかった。

「それで、あそこから飛び降りようと?」

 木杉の小さく言った呟きに、私は思わず顔を上げた。 彼はコーヒーカップに視線を落とし、スプーンで軽く掻き混ぜながら、それとなく私の答えを待っているようだった。

 私はそっと窓の外の海を眺めながら、実際あの時、どうだったのだろうと考えた。

 あの時確かにロープに手をかけようとしたが、その後どうしようとか考えるに及ばなかった。

 もしかしたら、吸い込まれるままにダイブしたのかもしれないし、下を見つめるだけで終わったのかもしれない。 ふと呟くように言葉が漏れた。

「香海ちゃんに、救われたのかも知れません」

 木杉の小さく吐き出す息の音が耳に届いた。 そして彼は

「良かった」

とだけ言った。

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