出会いは崖のふち
『私には生きていく資格などないのです』
心の中でそう呟いていた。
暗い暗い闇の底まで堕ちて、そのまま朽ち果てることが最良なのだと信じていた。
あの人に会うまでは――
なだらかな坂道を歩いていた。
草木一本も無く、虫一匹の吐息さえ感じられないほど静かで穏やかな通り。 まるで永い眠りの中で漂うような感覚の中で、ただただ、つま先で地面を蹴って前へ前へと歩いていた。
いつから上り坂になっていたのだろう。
そう思った頃には、坂道の終点に来ていた。
そこは切り立った崖のふちだった。
足元には、吸い込まれそうなほど深いところに見える海面。 白波が幾度と無く岩肌にぶつかり、泡になって消えていく。 波のしぶきが上がるほどに、やっとその波の音が耳に聞こえてきた。
私は無言でそれを恨めしそうに見下ろしながら、木で出来た細い杭に細く黄色いロープで繋いであるだけの、ごく簡単な柵にゆっくりと手を伸ばした。 その時、潮の香りが私を包み込んだ気がした。
「お姉ちゃん、もしかして自殺しようとしてるの?」
「えっ?」
不意に声をかけられ、ロープに伸ばしかけていた指が空振りした。
「い……いいえ」
激しい動悸と共に、思わずそう否定しながら振り向くと、私の腰まで位の背丈の少女が目の前に立っていた。 彼女は、額を覆う黒い前髪の奥から、黒真珠のような瞳を向けていた。 何故か、肩まで伸びた黒髪を両サイドに結んだ青いゴムが、心に痛烈に張りついた。 そして、雨が降ってもいないのに青い長靴を履いていることにも気になった。
青色が、私の瞳に差し込むように突き刺さった。
少女はまばたきを二、三度すると、首をちょんと傾げて
「そっか」
と白い歯を見せた。
まるで青い紫陽花の中に桃色の花が咲いたように明るく聡明な笑顔に、私の心が落ち着くのを感じた。
「あなたは……?」
尋ねかけると同時に、今度は違う声が聞こえた。
「カオミ、あまり人を困らせてはいけないよ」
優しいそよ風のような声に顔を上げると、少し離れた所に眼鏡を掛けた細身の男性がふわりと立っていた。
「どうもすみません。 カオミが何か気を悪くするようなことでも言ってしまいましたか?」
さっぱりと刈り上げた髪型と同じように細く整った眉をそっと寄せ、彼は申し訳なさそうに言った。
「い、いえ、そんなことないです。 あの、娘さん、ですか?」
男性は、まだ私から視線を外さない少女の肩を優しく引き寄せて微笑み、頷いた。
「はい。 カオミは僕の娘です。 六歳になるんですが、どうも思ったことをつい口に出してしまうので、僕も困っているんですよ」
「香る海って書くんだよ!」
父親の腰の横で、香海はにこりと微笑んだ。
男性は、見たところ二十代半ば辺りだろうか。 私とほとんど変わらない歳に見える。 この利発そうな娘にいつも振り回されているのだろう。 少し気弱そうな微笑みがなんとも不憫に見えた。
香海はそんな父親の気持ちを知ってかしらずか、あっけらかんとした表情をしている。 そしてまた黒真珠のような瞳をこちらに向けると、食い入るように見つめた。
「な、何かな?」
思わず苦笑してしまった。 どうも私はこういう純朴なモノに弱いのだ。 親戚にも歳の離れた子供なんて居ないし、他に子供と戯れる機会などほとんど無いし、子供に対してあまり愛着も沸かない。 戸惑う私に、香海は首を傾げた。
「お姉ちゃんの名前、何ていうの?」
「えっ?」
ナンパされているのかと錯覚を起こしながら、少女からのいきなりの質問に絶句していると、父親は頭に手をやって苦笑した。
「すみません。 香海は、女性を見るとすぐに自己紹介を求めるんですよ……こら香海、いい加減にしなさい」
困り果てたように眉を一層寄せる父親を、改めて不憫に思った。 そして思わずクスリと笑うと、
「いえ、いいんですよ。 香海ちゃん、私は井坂奈未っていうの。 よろしくね」
と名乗った。 香海はやっと私から視線を外して父親を見上げると、また明るい笑顔を見せた。
「奈未お姉ちゃん! ねえ、このお姉ちゃんにしようよ!」
「えっ?」
再び絶句してしまった。 この少女は一体何を言っているのだろう? そんな私の思考を読んだように、父親が眉を寄せて香海に言った。
「香海、もういいから、帰ろう」
そして私に視線を移すと、小さく頭を下げた。
「本当に、気にしないでくださいね……この子の単なる気まぐれで。 本当にごめんなさい。 さ、行くよ!」
香海の肩を抱いて無理矢理後ろを向かせると、再び頭を下げてその場を去ろうとした。 父親に背中を押されながら、香海がチラリとこちらに視線を送った。 その瞳には、さっきまでの晴れた明るさは消え、今にも雨が降りだしそうな曇り空のように侘しさが漂っている。
「あ、あのっ!」
と思わず引き止めてしまったが、その先の言葉が見つからずに、ゆっくり振り返った父親としばらく視線を交わした。
少しの沈黙の後、
「お茶でも、どうですか?」
と声をかけたのは私の方だった。




