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十年間ずっと看病する側だった私が熱を出したら、旦那様が一晩中手を握っていました

掲載日:2026/11/02

「あなたは丈夫な子だから」


母は、私が熱を出すたびにそう言った。

だから私は、熱を出しても寝込んだことがない。


嫁いで三週間目の朝、喉の奥が焼けるように痛かった。

頭が重い。手足の先だけが、氷のように冷たい。


熱だ。


寝台の上で、しばらく天井の模様を数えた。

それから、いつもどおりに起き上がった。


顔を洗い、髪をまとめ、頬に白粉をはたく。

赤みが隠れたのを鏡で確かめてから、部屋を出た。


廊下で、侍女のミアとすれ違った。


「奥様、おはようございます! ……あれ?」

「どうかした?」

「いえ、なんだか今日、目がうるうるして見えて」

「寝起きだからよ」


ミアは首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。

私は、少しだけ早足で食堂へ向かった。


大丈夫。

十年間、ずっとこうしてきたのだから。


◇


グラーフ侯爵家の朝食は、静かだ。


長いテーブルの向かいに、旦那様が座っている。

レオンハルト・グラーフ侯爵。

騎士団を率いていた頃の癖で、背筋がいつもまっすぐな人だ。口数は、とても少ない。


「おはようございます、旦那様」

「ああ」


いつもの短い返事。

私は少しほっとして、席に着いた。


スープの匙を持ち上げる。

指先に力が入らず、匙が皿の縁に当たって、かちりと鳴った。


旦那様の手が、止まった。


「……アデル」

「はい」

「顔が赤い」

「暖炉が近いので」


旦那様は黙って立ち上がった。

テーブルを回り込んで、私の横に来る。


大きな手が、私の額に触れた。

ひやりとして、気持ちがよかった。


「熱い」

「大丈夫です。私は丈夫なので」

「……丈夫な人間の額は、こんなに熱くない」


次の瞬間、体がふわりと浮いた。


抱き上げられたのだと分かったのは、旦那様の上着の匂いがすぐそばでしたからだ。


「旦那様、下ろしてください。歩けます」

「歩かせない」

「でも、今日は午前中に、薬棚の点検をヘルガさんと」

「ヘルガ」


旦那様が呼ぶと、食堂の入り口で侍女長のヘルガさんが背筋を伸ばした。


「薬棚の点検は中止だ。湯を沸かせ。布を十枚。医師を呼べ」

「かしこまりました」


ヘルガさんが手を叩くと、屋敷が一斉に動き出した。

若い侍女のミアが水差しを抱えて走り、執事のオスカーさんが馬丁を呼び、厨房の奥から料理長のボリスさんの「麦を出せ!」という声が聞こえた。


私は旦那様の腕の中で、ぼんやりとそれを聞いていた。


誰かが熱を出したら、屋敷はこんなふうに動くのか。

知らなかった。


◇


十二歳の冬に、母が胸を病んだ。


子爵家とは名ばかりで、うちには年老いた婆やが一人いるきりだった。

薬代がかさむと、新しく人を雇う余裕はなくなった。

それに母は、他人に体を触られるのをひどく嫌がった。


「あなたがやってちょうだい。他人の手は嫌なの」


だから、私がやった。


濡らした布を、四半刻ごとに替える。

固く絞って、四つに畳んで、ぬるくなったら裏返す。

喉が痛いと言えば蜂蜜を湯に溶き、咳が出れば背中をさすった。


夜は、母が眠るまで手を握った。

眠ってからも、離すと母は目を覚ます。

だから朝まで、寝台の横の椅子で握っていた。


母の枕元には、小さな銀の鈴があった。

昼も夜も、それが鳴ったら、私は何をしていても手を止めて走った。

読みかけの本を伏せて。食べかけの粥を置いて。眠りかけの目をこすって。


父は、領地の帳簿と金策で、ほとんど家にいなかった。

たまに帰ってくると、母の部屋をのぞいて「アデルがいれば安心だな」と言い、また出かけていった。


婆やは一度だけ、私の代わりに夜を見ると言ってくれたことがある。

母は、婆やが握った手を振りほどいた。


「アデルがいいの。あの子の手でなきゃ眠れないの」


それきり、誰も代わりを申し出なくなった。


十四歳の冬、私も熱を出した。


井戸の水で自分の額を冷やし、自分で麦粥を炊いた。

寝台に横になって、半刻もしないうちに、母の部屋の鈴が鳴った。


「アデル。アデル、どこにいるの」


私は起き上がって、母の部屋へ行った。


「お母様、私も少し熱が」

「あなたは丈夫な子だから大丈夫よ。それより、喉が渇いたの」


そう言って、母は私に手を伸ばした。

私は、その手を握った。


それからも、ずっとそうだった。


半年ほど前、薬屋の前で、怪我をした若い兵士の手当てをしたことがある。

布を裂いて傷を縛り、通りがかった荷馬車に頼んで詰所まで運んでもらった。

そのとき、馬から降りてきた騎士が、私に深く頭を下げた。


その人が侯爵閣下だと知ったのは、三か月前、縁談が来たときだ。


母は泣いて反対した。


「あの子がいなくなったら、誰が私の世話をするの」


父は、侯爵家が母の薬代の借金を肩代わりすると聞いて、すぐに頷いた。

母が泣き疲れて眠ったあと、私は荷造りをしながら、何度も母の部屋の扉を振り返った。

私がいなくなったら、母の手は誰が握るのだろう、と。


嫁ぐ日の朝まで、私は母の心配ばかりしていた。

自分が熱を出したら誰が看てくれるのかなんて、一度も考えなかった。


婚約の挨拶の日、旦那様は、廊下で母の主治医のベルク先生と長いこと話し込んでいた。

何の話をしていたのかは、知らない。


◇


侯爵家の医師の見立ては、ただの風邪だった。


「三日は寝ていること。無理をすれば長引きます」


白髭の医師は、私の脈を取りながら首をかしげた。


「奥様、最後に寝込まれたのはいつです?」

「……寝込んだことは、ありません」

「熱を出したことは?」

「何度か。でも、寝込んだことはないんです」


医師は、旦那様と顔を見合わせた。

旦那様は、黙って腕を組み直しただけだった。


「では、今回が初めてということで。しっかり寝込んでください。これは医師の命令です」


医師が帰ると、旦那様は寝台の横の椅子に腰を下ろした。

ヘルガさんが布と水桶を運んでくる。


「奥様のお世話は、私どもが」

「いい。看病は私がする」


ヘルガさんが、ほんの一瞬、目を丸くした。


「……旦那様。看病のご経験は」

「ない」

「でしたら、僭越ながらお教えいたします」


ヘルガさんの指導が始まった。

旦那様は真剣な顔で、布を水に浸した。


絞る。

ぽたぽたと水が落ちる。


その布が額に載ると、冷たい水が一筋、こめかみを伝って耳に入った。


「ひゃっ」

「……すまない」


旦那様が、慌てて布を取り上げた。

戦場で何百人を率いた人が、布一枚に眉を寄せている。


私は、思わず笑ってしまった。


「旦那様。布は、もう少し固く絞ってください。それから、四つに畳んで」

「四つ」

「はい。ぬるくなったら裏返すと、冷たい面がもう一度使えます」


旦那様は言われたとおりに布を絞り直し、四つに畳み、そっと額に載せた。

今度は、水は垂れなかった。


「詳しいな」

「十年、やっていましたから」


旦那様の手が止まった。


「ほかには」

「え?」

「十年、何をしていた。全部言え」


私は、熱でぼんやりした頭で、指を折った。


「布は四半刻ごとに替えます。喉が痛いときは、蜂蜜をお湯に溶いて。咳が出たら、背中をさすって。汗をかいたら、寝間着を替えて、温めた布で拭いて」

「それから」

「それから……眠るまで、手を握ります」


旦那様は、懐中時計を取り出して、蓋を開けた。


「四半刻だな」

「はい」

「ヘルガ。蜂蜜と湯を。替えの寝間着も」

「すでにご用意しております」


いつの間に戻ってきたのか、ヘルガさんが扉の横に立っていた。

腕には、蜂蜜の壺と、きちんと畳まれた寝間着が抱えられている。


「奥様のおっしゃったことは、全部廊下まで聞こえておりましたので」


ヘルガさんは、真面目な顔でそう言った。

けれど、目元が少しだけ赤かった。


それから旦那様は、本当に四半刻ごとに、懐中時計を見て布を替えた。

一度も、遅れなかった。


◇


昼過ぎ、料理長のボリスさんが盆を運んできた。


牛乳で炊いた麦粥に、蜂蜜が一筋。

その横に、小さな器が一つ。


「奥様、粥は俺です。そっちの林檎は、旦那様です」

「旦那様が?」

「熱のときは擦り林檎がいいと聞いた。……ボリスに習った」


器の中の林檎は、半分はなめらかで、半分はごろごろしていた。


「途中から腕が疲れたらしくて」

「ボリス」

「へい、黙ります」


ボリスさんが肩をすくめて出ていくと、旦那様は咳払いをして、匙を手に取った。


「食べられるか」

「自分で食べられます」

「腕が上がらないだろう」


否定できなかった。

差し出された匙を、私は口に含んだ。


麦粥は温かくて、蜂蜜がほんのり甘かった。

林檎は冷たくて、ごろごろしたところが、少しだけ喉に引っかかった。


どちらも、おいしかった。


人に食べさせてもらうのは、物心ついてから初めてだった。


旦那様が書類を取りに部屋を出ると、入れ替わりにミアが水差しを替えに来た。


「ミア」

「はい、奥様」

「あなたは、熱を出したら、誰に看てもらうの」


ミアは、きょとんとした顔をした。


「えっと……去年の冬は、侍女長が一晩ついててくれました。ボリスさんが卵酒を作ってくれて。旦那様からは、お見舞いにオレンジが一籠届きました」

「……そう」

「この屋敷、誰かが寝込むと大騒ぎなんです。庭師のおじいさんが腰を痛めたときなんか、オスカーさんが毎朝様子を見に行ってましたし」


ミアは、水差しの水を新しいものに替えながら、笑った。


「だから奥様も、ちゃんと大騒ぎされてください」


私は、毛布の下で手を握った。

誰かが寝込んだら、皆で騒ぐ。

この屋敷では、それが当たり前なのだ。


「奥様、知ってます? 奥様が来てから三週間、この屋敷で一番早く起きて一番遅く寝てたの、奥様なんですよ」

「そんなこと」

「ありますよ。ボリスさんが言ってました。『あの方は、人の看かたは知ってても、看てもらい方を知らないんだ』って」


私は、返事ができなかった。


看てもらい方。

そんなもの、誰にも習ったことがない。


ミアが出ていくと、すぐに旦那様が戻ってきた。

椅子に座り直し、今度は書類を膝に置いたまま、部屋を出なくなった。


◇


夕方、うとうとしていると、旦那様の声が聞こえた。


「アデル。起きているか」

「……はい」

「話しておくことがある。婚約の挨拶の日、ベルク医師と話をした」


私は、薄く目を開けた。

旦那様は、窓の外を見ていた。


「君の母上の胸の病は、三年前に治っている」


息が、止まった。


「医師は、何度も母上に伝えたそうだ。もう寝ている必要はない、外を歩きなさいと。母上の返事はいつも同じだった」


旦那様は、少しだけ言い淀んでから続けた。


「『アデルがいなくなったら、誰が私の世話をするの』」


毛布の端を、指が勝手に握りしめていた。


三年。

千回以上の夜、私は椅子の上で、治っている人の手を握っていた。


十九歳の冬、咳が止まらなくなった夜があった。

母の部屋の椅子で、口を押さえて咳をこらえた。

母を起こさないように。


二十歳の誕生日の夜も、私は母の手を握っていた。


不思議と、涙は出なかった。

ただ、胸の奥で、長いあいだ鳴り続けていた鈴の音が、ぷつりと途切れた気がした。


「……だから、旦那様は私に縁談を?」

「違う」


旦那様は、こちらを見た。


「薬屋の前で、知らない兵士の傷を縛っていた娘がいた。礼を言ったら、その娘は『いえ、慣れていますので』と笑った」


灰色の目が、少しだけ細くなった。


「人の世話に慣れている娘は、自分の世話を誰がしているのだろうと、思った」


それきり、旦那様は黙った。

私も、何も言えなかった。


額の布が、そっと裏返された。

冷たい面が、熱い肌に吸いついた。


◇


夜中に、目が覚めた。


母の部屋の鈴が鳴った気がしたのだ。

体が勝手に起き上がろうとして、すぐに、ここが侯爵家の寝室だと思い出した。


鈴は鳴っていない。

燭台の火が、小さく揺れているだけだ。


それから、気づいた。


右手が、温かい。


見ると、寝台の横の椅子に旦那様が座っていた。

上着を脱いだシャツ姿で、私の右手を、両手で包んでいた。


「……起きたか」

「旦那様。ずっと、ここに」

「ああ」

「一晩中、ですか」

「まだ夜は明けていない。一晩中かどうかは、これから決まる」


真面目な顔で言うので、私は少しだけ笑った。

笑ったら、喉が痛かった。


包まれた手を、見下ろした。

大きな手だった。

剣だこのある、硬い手だった。


そっと、指を動かしてみた。

旦那様の手が、すぐに応えるように握り返してきた。


眠っている人の手ではなかった。

ずっと起きて、私の手の重さを確かめていた人の手だった。


燭台の横には、水桶と、畳んだ布が何枚も置いてあった。

懐中時計が、蓋を開けたまま、枕元に伏せてある。


この人は、夜中も四半刻ごとに布を替えていたのだ。

片手で。

もう片方の手で、私の手を握ったまま。


「……手を、握ってもらうのは」


声が、かすれた。


「初めてです」


旦那様は、何も言わなかった。


「十年間、母の手を握っていました。眠るまで。眠ってからも、離すと起きてしまうので、朝まで」


口に出したら、止まらなくなった。


「熱を出した夜も、握っていました。自分の手は、誰も握ってくれなかったので。握ってほしいと思ったことも、なかったんです」


燭台の火が、にじんだ。

ぽたりと、熱い頬を何かが伝った。


「なかったはず、なのに」


旦那様の手に、少しだけ力がこもった。


「……旦那様の手、冷たいです」

「君が熱いからだ。ちょうどいい」


それから旦那様は、私の手を包み直した。

指の一本一本まで、確かめるように。


「十年分、握る」


低い声だった。


「離さない。だから、安心して寝ろ」


涙が、枕に落ちた。

私は、子どもみたいに声を立てて泣いた。


旦那様は、空いているほうの親指で、私の頬の涙を拭った。

不器用な手つきだった。

布を絞るのと同じくらい、まだ慣れていない手つきだった。


泣きながら、いつの間にか眠っていた。

鈴の音は、もう聞こえなかった。


◇


翌朝、熱はずいぶん下がっていた。


目を覚ますと、旦那様は椅子に座ったまま、私の手を握ったまま眠っていた。

首が、ひどい角度に傾いていた。


窓から差し込む朝の光が、旦那様の顔を照らしている。

目の下に、うっすらと影ができていた。


起こさないように、そっと手を引き抜こうとした。

指が一本抜けたところで、旦那様の手が、ぎゅっと閉じた。


「……まだだ」


目は閉じたままだった。


「起きていらっしゃったんですか」

「寝ている。……手を離すと、君はまたどこかへ働きに行くだろう」

「行きません」

「本当か」

「……少なくとも、今日は」


旦那様は、片目だけ開けて私を見た。

それから、ふっと息を吐いて、また目を閉じた。


手は、離されなかった。


扉の隙間から、ヘルガさんがのぞいていた。


「旦那様は一晩中、お手を離されませんでした」


声をひそめて、ヘルガさんは言った。


「交代を申し出ましたら、『十年分だ。一晩では足りない』と」


私は、また泣きそうになって、慌てて毛布を引き上げた。


◇


二日後、実家から手紙が届いた。


『母が倒れました。すぐに戻りなさい』


父の字だった。

けれど、言葉は母のものだと、すぐに分かった。


手紙を持つ指が、震えた。

体が勝手に、荷物をまとめようとしていた。十年かけて覚えた動きは、そう簡単には消えない。


「行かなくていい」


旦那様が、手紙を私の手からそっと抜き取った。


「もう手は打ってある」

「手、ですか」

「侯爵家の医師を一人と、看護人を二人送った。今朝、子爵家に着いているはずだ」


旦那様は、手紙を畳みながら続けた。


「侯爵家が責任をもって、母上のお世話をする。ひと月、付きっきりで」

「でも……母は、本当に倒れたのかもしれません」

「だから医師を送った。本当に倒れているなら、侯爵家の医師が治す。熱の下がりきらない君が行くより、確かだ」


旦那様の声は、いつもどおり静かだった。


「それに、君が行けば、君はまた椅子の上に戻る」


私は、膝の上で手を握りしめた。

そうだ。きっと戻ってしまう。

母の手を握ってしまう。十年かけて体に染みついた癖は、たった数日では抜けない。


「……ありがとうございます」

「礼はいらない。夫の仕事だ」


その日の夕方、医師から早馬で報告が届いた。

旦那様は一読して、珍しく口の端を上げた。


「読むか」


差し出された紙には、几帳面な字で、こう書いてあった。


『子爵夫人のご容体。脈、正常。呼吸、正常。食欲、旺盛。昼食を二人前召し上がりました。私より健康です』


私は、思わず吹き出した。


報告には、続きがあった。


『なお、夫人は「アデルを呼びなさい」と繰り返しておられましたが、「ご令嬢は現在、ご自身が療養中です」とお伝えしたところ、しばらく黙っておられました』


母は、私が熱を出すことがあるなんて、考えたこともなかったのだろう。

丈夫な子だから。


報告書を読み終えて、私は紙を膝の上に置いた。

不思議なくらい、心は静かだった。


後で聞いた話では、母は他人の看護人を嫌って、三日で鈴を鳴らすのをやめたという。

鳴らせば来るのは、私ではなく、知らない人だからだ。


「健康すぎる病人」の噂は、ベルク先生の口から、ゆっくりと社交界に広まったらしい。

母は今、毎日自分の足で庭を歩いているそうだ。


医師の言いつけで。


母への返事は、書かなかった。

書くことが、もう見つからなかったから。


◇


ひと月後の朝。


小さなくしゃみが出た。

喉が、少しだけいがらっぽい。額に手を当てると、ほんのり温かい。


昔の私なら、白粉をはたいて、黙って朝食の席に着いていた。


私は、旦那様の書斎の扉を叩いた。


「旦那様」

「どうした」

「……少し、熱があるかもしれません」


生まれて初めて、自分の熱を、誰かに申告した。


旦那様はすぐに立ち上がって、大きな手を私の額に当てた。


「ある。微熱だ」

「微熱なので、大丈夫です」

「大丈夫かどうかは、私が決める。ヘルガ!」


廊下の向こうで、ヘルガさんの「布を十枚!」という声がした。

厨房から、ボリスさんの「麦を出せ!」という声も聞こえた。


ミアが、なぜか嬉しそうな顔で毛布を抱えて走ってきた。

オスカーさんが、すでに医師への手紙を書き始めていた。


「旦那様、微熱です。一晩寝れば治ります」

「なら一晩寝ろ。手は握る」

「お仕事は」

「看病より大事な仕事はない」


大げさです、と言おうとして、やめた。


この家では、熱を出したら、言えばいい。

言えば、握ってくれる手がある。


「あなたは丈夫な子だから」と言われて、私は育った。


丈夫でなくていいのだと、今は知っている。


十年分は、まだ半分も返してもらっていない、と旦那様は言う。


(了)


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