十年間ずっと看病する側だった私が熱を出したら、旦那様が一晩中手を握っていました
「あなたは丈夫な子だから」
母は、私が熱を出すたびにそう言った。
だから私は、熱を出しても寝込んだことがない。
嫁いで三週間目の朝、喉の奥が焼けるように痛かった。
頭が重い。手足の先だけが、氷のように冷たい。
熱だ。
寝台の上で、しばらく天井の模様を数えた。
それから、いつもどおりに起き上がった。
顔を洗い、髪をまとめ、頬に白粉をはたく。
赤みが隠れたのを鏡で確かめてから、部屋を出た。
廊下で、侍女のミアとすれ違った。
「奥様、おはようございます! ……あれ?」
「どうかした?」
「いえ、なんだか今日、目がうるうるして見えて」
「寝起きだからよ」
ミアは首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。
私は、少しだけ早足で食堂へ向かった。
大丈夫。
十年間、ずっとこうしてきたのだから。
◇
グラーフ侯爵家の朝食は、静かだ。
長いテーブルの向かいに、旦那様が座っている。
レオンハルト・グラーフ侯爵。
騎士団を率いていた頃の癖で、背筋がいつもまっすぐな人だ。口数は、とても少ない。
「おはようございます、旦那様」
「ああ」
いつもの短い返事。
私は少しほっとして、席に着いた。
スープの匙を持ち上げる。
指先に力が入らず、匙が皿の縁に当たって、かちりと鳴った。
旦那様の手が、止まった。
「……アデル」
「はい」
「顔が赤い」
「暖炉が近いので」
旦那様は黙って立ち上がった。
テーブルを回り込んで、私の横に来る。
大きな手が、私の額に触れた。
ひやりとして、気持ちがよかった。
「熱い」
「大丈夫です。私は丈夫なので」
「……丈夫な人間の額は、こんなに熱くない」
次の瞬間、体がふわりと浮いた。
抱き上げられたのだと分かったのは、旦那様の上着の匂いがすぐそばでしたからだ。
「旦那様、下ろしてください。歩けます」
「歩かせない」
「でも、今日は午前中に、薬棚の点検をヘルガさんと」
「ヘルガ」
旦那様が呼ぶと、食堂の入り口で侍女長のヘルガさんが背筋を伸ばした。
「薬棚の点検は中止だ。湯を沸かせ。布を十枚。医師を呼べ」
「かしこまりました」
ヘルガさんが手を叩くと、屋敷が一斉に動き出した。
若い侍女のミアが水差しを抱えて走り、執事のオスカーさんが馬丁を呼び、厨房の奥から料理長のボリスさんの「麦を出せ!」という声が聞こえた。
私は旦那様の腕の中で、ぼんやりとそれを聞いていた。
誰かが熱を出したら、屋敷はこんなふうに動くのか。
知らなかった。
◇
十二歳の冬に、母が胸を病んだ。
子爵家とは名ばかりで、うちには年老いた婆やが一人いるきりだった。
薬代がかさむと、新しく人を雇う余裕はなくなった。
それに母は、他人に体を触られるのをひどく嫌がった。
「あなたがやってちょうだい。他人の手は嫌なの」
だから、私がやった。
濡らした布を、四半刻ごとに替える。
固く絞って、四つに畳んで、ぬるくなったら裏返す。
喉が痛いと言えば蜂蜜を湯に溶き、咳が出れば背中をさすった。
夜は、母が眠るまで手を握った。
眠ってからも、離すと母は目を覚ます。
だから朝まで、寝台の横の椅子で握っていた。
母の枕元には、小さな銀の鈴があった。
昼も夜も、それが鳴ったら、私は何をしていても手を止めて走った。
読みかけの本を伏せて。食べかけの粥を置いて。眠りかけの目をこすって。
父は、領地の帳簿と金策で、ほとんど家にいなかった。
たまに帰ってくると、母の部屋をのぞいて「アデルがいれば安心だな」と言い、また出かけていった。
婆やは一度だけ、私の代わりに夜を見ると言ってくれたことがある。
母は、婆やが握った手を振りほどいた。
「アデルがいいの。あの子の手でなきゃ眠れないの」
それきり、誰も代わりを申し出なくなった。
十四歳の冬、私も熱を出した。
井戸の水で自分の額を冷やし、自分で麦粥を炊いた。
寝台に横になって、半刻もしないうちに、母の部屋の鈴が鳴った。
「アデル。アデル、どこにいるの」
私は起き上がって、母の部屋へ行った。
「お母様、私も少し熱が」
「あなたは丈夫な子だから大丈夫よ。それより、喉が渇いたの」
そう言って、母は私に手を伸ばした。
私は、その手を握った。
それからも、ずっとそうだった。
半年ほど前、薬屋の前で、怪我をした若い兵士の手当てをしたことがある。
布を裂いて傷を縛り、通りがかった荷馬車に頼んで詰所まで運んでもらった。
そのとき、馬から降りてきた騎士が、私に深く頭を下げた。
その人が侯爵閣下だと知ったのは、三か月前、縁談が来たときだ。
母は泣いて反対した。
「あの子がいなくなったら、誰が私の世話をするの」
父は、侯爵家が母の薬代の借金を肩代わりすると聞いて、すぐに頷いた。
母が泣き疲れて眠ったあと、私は荷造りをしながら、何度も母の部屋の扉を振り返った。
私がいなくなったら、母の手は誰が握るのだろう、と。
嫁ぐ日の朝まで、私は母の心配ばかりしていた。
自分が熱を出したら誰が看てくれるのかなんて、一度も考えなかった。
婚約の挨拶の日、旦那様は、廊下で母の主治医のベルク先生と長いこと話し込んでいた。
何の話をしていたのかは、知らない。
◇
侯爵家の医師の見立ては、ただの風邪だった。
「三日は寝ていること。無理をすれば長引きます」
白髭の医師は、私の脈を取りながら首をかしげた。
「奥様、最後に寝込まれたのはいつです?」
「……寝込んだことは、ありません」
「熱を出したことは?」
「何度か。でも、寝込んだことはないんです」
医師は、旦那様と顔を見合わせた。
旦那様は、黙って腕を組み直しただけだった。
「では、今回が初めてということで。しっかり寝込んでください。これは医師の命令です」
医師が帰ると、旦那様は寝台の横の椅子に腰を下ろした。
ヘルガさんが布と水桶を運んでくる。
「奥様のお世話は、私どもが」
「いい。看病は私がする」
ヘルガさんが、ほんの一瞬、目を丸くした。
「……旦那様。看病のご経験は」
「ない」
「でしたら、僭越ながらお教えいたします」
ヘルガさんの指導が始まった。
旦那様は真剣な顔で、布を水に浸した。
絞る。
ぽたぽたと水が落ちる。
その布が額に載ると、冷たい水が一筋、こめかみを伝って耳に入った。
「ひゃっ」
「……すまない」
旦那様が、慌てて布を取り上げた。
戦場で何百人を率いた人が、布一枚に眉を寄せている。
私は、思わず笑ってしまった。
「旦那様。布は、もう少し固く絞ってください。それから、四つに畳んで」
「四つ」
「はい。ぬるくなったら裏返すと、冷たい面がもう一度使えます」
旦那様は言われたとおりに布を絞り直し、四つに畳み、そっと額に載せた。
今度は、水は垂れなかった。
「詳しいな」
「十年、やっていましたから」
旦那様の手が止まった。
「ほかには」
「え?」
「十年、何をしていた。全部言え」
私は、熱でぼんやりした頭で、指を折った。
「布は四半刻ごとに替えます。喉が痛いときは、蜂蜜をお湯に溶いて。咳が出たら、背中をさすって。汗をかいたら、寝間着を替えて、温めた布で拭いて」
「それから」
「それから……眠るまで、手を握ります」
旦那様は、懐中時計を取り出して、蓋を開けた。
「四半刻だな」
「はい」
「ヘルガ。蜂蜜と湯を。替えの寝間着も」
「すでにご用意しております」
いつの間に戻ってきたのか、ヘルガさんが扉の横に立っていた。
腕には、蜂蜜の壺と、きちんと畳まれた寝間着が抱えられている。
「奥様のおっしゃったことは、全部廊下まで聞こえておりましたので」
ヘルガさんは、真面目な顔でそう言った。
けれど、目元が少しだけ赤かった。
それから旦那様は、本当に四半刻ごとに、懐中時計を見て布を替えた。
一度も、遅れなかった。
◇
昼過ぎ、料理長のボリスさんが盆を運んできた。
牛乳で炊いた麦粥に、蜂蜜が一筋。
その横に、小さな器が一つ。
「奥様、粥は俺です。そっちの林檎は、旦那様です」
「旦那様が?」
「熱のときは擦り林檎がいいと聞いた。……ボリスに習った」
器の中の林檎は、半分はなめらかで、半分はごろごろしていた。
「途中から腕が疲れたらしくて」
「ボリス」
「へい、黙ります」
ボリスさんが肩をすくめて出ていくと、旦那様は咳払いをして、匙を手に取った。
「食べられるか」
「自分で食べられます」
「腕が上がらないだろう」
否定できなかった。
差し出された匙を、私は口に含んだ。
麦粥は温かくて、蜂蜜がほんのり甘かった。
林檎は冷たくて、ごろごろしたところが、少しだけ喉に引っかかった。
どちらも、おいしかった。
人に食べさせてもらうのは、物心ついてから初めてだった。
旦那様が書類を取りに部屋を出ると、入れ替わりにミアが水差しを替えに来た。
「ミア」
「はい、奥様」
「あなたは、熱を出したら、誰に看てもらうの」
ミアは、きょとんとした顔をした。
「えっと……去年の冬は、侍女長が一晩ついててくれました。ボリスさんが卵酒を作ってくれて。旦那様からは、お見舞いにオレンジが一籠届きました」
「……そう」
「この屋敷、誰かが寝込むと大騒ぎなんです。庭師のおじいさんが腰を痛めたときなんか、オスカーさんが毎朝様子を見に行ってましたし」
ミアは、水差しの水を新しいものに替えながら、笑った。
「だから奥様も、ちゃんと大騒ぎされてください」
私は、毛布の下で手を握った。
誰かが寝込んだら、皆で騒ぐ。
この屋敷では、それが当たり前なのだ。
「奥様、知ってます? 奥様が来てから三週間、この屋敷で一番早く起きて一番遅く寝てたの、奥様なんですよ」
「そんなこと」
「ありますよ。ボリスさんが言ってました。『あの方は、人の看かたは知ってても、看てもらい方を知らないんだ』って」
私は、返事ができなかった。
看てもらい方。
そんなもの、誰にも習ったことがない。
ミアが出ていくと、すぐに旦那様が戻ってきた。
椅子に座り直し、今度は書類を膝に置いたまま、部屋を出なくなった。
◇
夕方、うとうとしていると、旦那様の声が聞こえた。
「アデル。起きているか」
「……はい」
「話しておくことがある。婚約の挨拶の日、ベルク医師と話をした」
私は、薄く目を開けた。
旦那様は、窓の外を見ていた。
「君の母上の胸の病は、三年前に治っている」
息が、止まった。
「医師は、何度も母上に伝えたそうだ。もう寝ている必要はない、外を歩きなさいと。母上の返事はいつも同じだった」
旦那様は、少しだけ言い淀んでから続けた。
「『アデルがいなくなったら、誰が私の世話をするの』」
毛布の端を、指が勝手に握りしめていた。
三年。
千回以上の夜、私は椅子の上で、治っている人の手を握っていた。
十九歳の冬、咳が止まらなくなった夜があった。
母の部屋の椅子で、口を押さえて咳をこらえた。
母を起こさないように。
二十歳の誕生日の夜も、私は母の手を握っていた。
不思議と、涙は出なかった。
ただ、胸の奥で、長いあいだ鳴り続けていた鈴の音が、ぷつりと途切れた気がした。
「……だから、旦那様は私に縁談を?」
「違う」
旦那様は、こちらを見た。
「薬屋の前で、知らない兵士の傷を縛っていた娘がいた。礼を言ったら、その娘は『いえ、慣れていますので』と笑った」
灰色の目が、少しだけ細くなった。
「人の世話に慣れている娘は、自分の世話を誰がしているのだろうと、思った」
それきり、旦那様は黙った。
私も、何も言えなかった。
額の布が、そっと裏返された。
冷たい面が、熱い肌に吸いついた。
◇
夜中に、目が覚めた。
母の部屋の鈴が鳴った気がしたのだ。
体が勝手に起き上がろうとして、すぐに、ここが侯爵家の寝室だと思い出した。
鈴は鳴っていない。
燭台の火が、小さく揺れているだけだ。
それから、気づいた。
右手が、温かい。
見ると、寝台の横の椅子に旦那様が座っていた。
上着を脱いだシャツ姿で、私の右手を、両手で包んでいた。
「……起きたか」
「旦那様。ずっと、ここに」
「ああ」
「一晩中、ですか」
「まだ夜は明けていない。一晩中かどうかは、これから決まる」
真面目な顔で言うので、私は少しだけ笑った。
笑ったら、喉が痛かった。
包まれた手を、見下ろした。
大きな手だった。
剣だこのある、硬い手だった。
そっと、指を動かしてみた。
旦那様の手が、すぐに応えるように握り返してきた。
眠っている人の手ではなかった。
ずっと起きて、私の手の重さを確かめていた人の手だった。
燭台の横には、水桶と、畳んだ布が何枚も置いてあった。
懐中時計が、蓋を開けたまま、枕元に伏せてある。
この人は、夜中も四半刻ごとに布を替えていたのだ。
片手で。
もう片方の手で、私の手を握ったまま。
「……手を、握ってもらうのは」
声が、かすれた。
「初めてです」
旦那様は、何も言わなかった。
「十年間、母の手を握っていました。眠るまで。眠ってからも、離すと起きてしまうので、朝まで」
口に出したら、止まらなくなった。
「熱を出した夜も、握っていました。自分の手は、誰も握ってくれなかったので。握ってほしいと思ったことも、なかったんです」
燭台の火が、にじんだ。
ぽたりと、熱い頬を何かが伝った。
「なかったはず、なのに」
旦那様の手に、少しだけ力がこもった。
「……旦那様の手、冷たいです」
「君が熱いからだ。ちょうどいい」
それから旦那様は、私の手を包み直した。
指の一本一本まで、確かめるように。
「十年分、握る」
低い声だった。
「離さない。だから、安心して寝ろ」
涙が、枕に落ちた。
私は、子どもみたいに声を立てて泣いた。
旦那様は、空いているほうの親指で、私の頬の涙を拭った。
不器用な手つきだった。
布を絞るのと同じくらい、まだ慣れていない手つきだった。
泣きながら、いつの間にか眠っていた。
鈴の音は、もう聞こえなかった。
◇
翌朝、熱はずいぶん下がっていた。
目を覚ますと、旦那様は椅子に座ったまま、私の手を握ったまま眠っていた。
首が、ひどい角度に傾いていた。
窓から差し込む朝の光が、旦那様の顔を照らしている。
目の下に、うっすらと影ができていた。
起こさないように、そっと手を引き抜こうとした。
指が一本抜けたところで、旦那様の手が、ぎゅっと閉じた。
「……まだだ」
目は閉じたままだった。
「起きていらっしゃったんですか」
「寝ている。……手を離すと、君はまたどこかへ働きに行くだろう」
「行きません」
「本当か」
「……少なくとも、今日は」
旦那様は、片目だけ開けて私を見た。
それから、ふっと息を吐いて、また目を閉じた。
手は、離されなかった。
扉の隙間から、ヘルガさんがのぞいていた。
「旦那様は一晩中、お手を離されませんでした」
声をひそめて、ヘルガさんは言った。
「交代を申し出ましたら、『十年分だ。一晩では足りない』と」
私は、また泣きそうになって、慌てて毛布を引き上げた。
◇
二日後、実家から手紙が届いた。
『母が倒れました。すぐに戻りなさい』
父の字だった。
けれど、言葉は母のものだと、すぐに分かった。
手紙を持つ指が、震えた。
体が勝手に、荷物をまとめようとしていた。十年かけて覚えた動きは、そう簡単には消えない。
「行かなくていい」
旦那様が、手紙を私の手からそっと抜き取った。
「もう手は打ってある」
「手、ですか」
「侯爵家の医師を一人と、看護人を二人送った。今朝、子爵家に着いているはずだ」
旦那様は、手紙を畳みながら続けた。
「侯爵家が責任をもって、母上のお世話をする。ひと月、付きっきりで」
「でも……母は、本当に倒れたのかもしれません」
「だから医師を送った。本当に倒れているなら、侯爵家の医師が治す。熱の下がりきらない君が行くより、確かだ」
旦那様の声は、いつもどおり静かだった。
「それに、君が行けば、君はまた椅子の上に戻る」
私は、膝の上で手を握りしめた。
そうだ。きっと戻ってしまう。
母の手を握ってしまう。十年かけて体に染みついた癖は、たった数日では抜けない。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。夫の仕事だ」
その日の夕方、医師から早馬で報告が届いた。
旦那様は一読して、珍しく口の端を上げた。
「読むか」
差し出された紙には、几帳面な字で、こう書いてあった。
『子爵夫人のご容体。脈、正常。呼吸、正常。食欲、旺盛。昼食を二人前召し上がりました。私より健康です』
私は、思わず吹き出した。
報告には、続きがあった。
『なお、夫人は「アデルを呼びなさい」と繰り返しておられましたが、「ご令嬢は現在、ご自身が療養中です」とお伝えしたところ、しばらく黙っておられました』
母は、私が熱を出すことがあるなんて、考えたこともなかったのだろう。
丈夫な子だから。
報告書を読み終えて、私は紙を膝の上に置いた。
不思議なくらい、心は静かだった。
後で聞いた話では、母は他人の看護人を嫌って、三日で鈴を鳴らすのをやめたという。
鳴らせば来るのは、私ではなく、知らない人だからだ。
「健康すぎる病人」の噂は、ベルク先生の口から、ゆっくりと社交界に広まったらしい。
母は今、毎日自分の足で庭を歩いているそうだ。
医師の言いつけで。
母への返事は、書かなかった。
書くことが、もう見つからなかったから。
◇
ひと月後の朝。
小さなくしゃみが出た。
喉が、少しだけいがらっぽい。額に手を当てると、ほんのり温かい。
昔の私なら、白粉をはたいて、黙って朝食の席に着いていた。
私は、旦那様の書斎の扉を叩いた。
「旦那様」
「どうした」
「……少し、熱があるかもしれません」
生まれて初めて、自分の熱を、誰かに申告した。
旦那様はすぐに立ち上がって、大きな手を私の額に当てた。
「ある。微熱だ」
「微熱なので、大丈夫です」
「大丈夫かどうかは、私が決める。ヘルガ!」
廊下の向こうで、ヘルガさんの「布を十枚!」という声がした。
厨房から、ボリスさんの「麦を出せ!」という声も聞こえた。
ミアが、なぜか嬉しそうな顔で毛布を抱えて走ってきた。
オスカーさんが、すでに医師への手紙を書き始めていた。
「旦那様、微熱です。一晩寝れば治ります」
「なら一晩寝ろ。手は握る」
「お仕事は」
「看病より大事な仕事はない」
大げさです、と言おうとして、やめた。
この家では、熱を出したら、言えばいい。
言えば、握ってくれる手がある。
「あなたは丈夫な子だから」と言われて、私は育った。
丈夫でなくていいのだと、今は知っている。
十年分は、まだ半分も返してもらっていない、と旦那様は言う。
(了)
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