追放された調律師ですが、署名台帳で消された名前を取り戻しました
「その弦、鳴らさないでください」
私の声に、舞台袖の空気が半音上がった。
弓を置きかけていたヌーノ様の手が止まる。私は首席奏者の返事を待たず、ヴァイオリンの下へ指を差し入れた。巻線が爪に引っかかる。ほんのひと筋。目では見落とす程度だが、本番で見落とせば二曲目の高音で切れる。
「交換します。第三弦です」
「あと十二分よ」
パロマが台帳と、湯気の立つ器を同時に抱えて走ってきた。舞台係の腕は二本しかない。今夜も職務のほうが器官数を上回っている。
「まず食べて。次の契約を断っても食事は届けろ、と首席様から言われています」
「次の契約を断れば、私の指は不要になるはずですが」
「そこに気づく頭があるなら、別のところにも使って」
どことは言わず、パロマは匙を私の口へ差し込んだ。温かい豆のスープだった。仕事前に温かいものを食べると指の震えが減る。ヌーノ様は出資者として実に合理的だ。終演後まで食事を届ける品質管理とは、ずいぶん長い余韻だけれど。
弦を外し、新しい巻線を張る。時刻は午後七時四十八分。作業者欄は空白だったので、私はペン先を押しつけた。
——コランティーヌ。
書いた名の横へ、立会人のパロマが署名する。さらにヌーノ様が楽器の持ち主として名を重ねた。
「毎回、ここまで必要でしょうか」
「必要だ」
「誰が張ったか、弦は覚えていませんよ」
「人間が覚えておく」
低い声は正しい音程から一分もずれない。
交換を終えると、ヌーノ様は銀色の薬壺を取り出した。
「手に触れても?」
「どうぞ」
許可を得てから、彼は私の指を一節ずつ支えた。薬は私以外には触らせず、蓋も彼自身が開ける。傷のない指まで確かめる念入りさだ。首席奏者ともなれば、楽器だけでなく調律師の部品管理まで仕事に入るらしい。
「痛むなら今夜は休め」
「この程度なら動きます」
「動くかどうかではなく、痛むかと聞いた」
妙な質問である。痛くても音は合う。
私は薬の照りをまとった指を曲げた。
「本番まで指を持たせるためですね」
ヌーノ様の親指が止まった。
パロマが、抱えていた空の器へ額をぶつけた。
* * *
「劇場から歩いて三分だ。今夜から使ってくれ」
二公演目の終演後、ヌーノ様は私の掌へ鍵を置いた。
寝台と暖炉のある部屋。夕食つき。水場は同じ階。指を湯で戻してから眠れる距離である。条件だけ見れば、調律師を飼育する設備として申し分ない。
「常駐調律師を確保する必要はありません」
鍵を返した。
ヌーノ様は受け取ろうとして、手を止めた。
鍵は私たちの掌のあいだで、どちらにも所属せず冷えていた。
「契約が終わっても住める」
「退去日が決まっていない部屋には入りません」
「追い出さないという意味だ」
「追い出す日を家主だけが決められる、という意味にも聞こえます」
ヌーノ様の声から、一音ぶんの息が抜けた。
そこへハーラル管理人が現れた。首席奏者へ向けた腰は、楽譜台より低かった。
「お部屋の手配までなさるとは、さすがヌーノ様でございます。調律師の記入については、こちらの単なる処理漏れでして」
私へ顔を向けた瞬間、その背が伸びた。
「台帳は内部確認用だ。番組記録へ勝手に名を書くな。客が知るのは奏者の名だけでいい」
「弦が切れれば、客も知ります」
「口答えをするな。裏方は音を出さない。功績も出ない。それだけだ」
命令形になると声がよく響く。反撃しない壁へだけ豊かな音量を出せるのは、管理人として便利な特技なのだろう。
ハーラル管理人は番組記録の校正刷りから私の名を線で消し、そのまま手当欄の受取人を自分へ書き替えた。
抹消ひとつ、横取りひとつ。独奏としては手数が多い。
私は消された校正刷りではなく、毎夜の弦交換台帳を閉じた。紙の表面には、私とヌーノ様の署名が残る。音は消える。インクはしぶとい。
四公演が過ぎても、鍵は毎夜差し出された。
私は毎夜返した。
食事だけは、パロマが拒否を認めなかった。豆のスープ、鶏肉の煮込み、焼いた根菜。次の仕事を断った夜にも届いた。
ますます長期的な品質管理である。困った。侯爵家の管理法は、費用対効果の計算がたいへん大らからしい。
* * *
「五夜ぶん、全部です」
最終公演の日、パロマは台帳を私の作業机へ置いた。
私の署名が五つの公演欄に並んでいる。そのすべてにヌーノ様の連署があり、作業時刻と交換した弦が記録されていた。
別に置かれた公式報告には、私の名がひとつもない。
調律責任者、ハーラル。
弦交換責任者、ハーラル。
公演危機への対処、ハーラル。
ずいぶん働き者である。私が毎夜見たハーラル管理人は、奏者へ頭を下げ、私へ命令し、あとは手当の受領欄に署名していた。三種の動作で六公演を救えるなら、私も転職したい。
「記入漏れではありませんね」
「うん。あなたの名前だけ、毎回きれいに抜けてる」
パロマの声は早い。怒るほど仕事が速くなる人なので、今なら舞台を一人で解体できそうだ。
扉が開き、ヌーノ様が入ってきた。
私を見る。台帳を見る。公式報告を見る。
「ハーラルは」
「予備弦庫です」
「呼べ」
パロマが走り出す前に、私は台帳を押さえた。
「待ってください。呼ぶ前に、私の契約を終わらせます」
ヌーノ様の顔から色が引いた。ハーラル管理人ならともかく、首席奏者の顔色を狂わせた覚えはない。
「なぜ、そうなる」
「六公演目が終われば契約満了です。食事も部屋も受け取りません。専属契約書にも署名しません」
「食事は契約ではない」
「では贈与ですか。理由のない贈与は、あとで請求書になることがあります」
「請求しない」
「部屋も?」
「君のものとして使えばいい」
「鍵を持つのはヌーノ様です」
彼は上着の内側から、見覚えのある鍵を出した。
「婚姻すれば、同じ家の鍵を持てる」
調子の合わない弦を強く締めすぎると、こういう飛躍をする。夕食から部屋、部屋から婚姻。調律の途中を三工程ほど省いている。
けれどヌーノ様は冗談を言う顔ではなかった。
「私と食事をしてほしい。私の用意した部屋で暮らしてほしい。望むなら仕事は続けていい。望まなくても、何も失わせない。私の伴侶になってくれ」
一度に差し出されたものが多すぎる。
食事。寝床。仕事。婚姻。
すべて一本の紐で結ばれているように見えた。指が動くあいだだけほどけない、丈夫な紐だ。
「伴侶という名の終身雇用なら受けられません」
口から出た声は、自分で思ったより硬かった。
ヌーノ様が近づこうとして、止まる。私の指へ触れる前と同じ距離だった。
「終身雇用ではない」
「専属条項があります」
「君を他の楽団に渡したくない」
「それを雇用と呼びます」
「違う」
「違う、では契約文は変わりません」
彼は言葉を失った。低く張られていた声の弦が、初めて緩む。
「では、どう書けば信じる」
「何を、ですか」
「手が動かなくても、私が君に食事をさせたいことを」
喉の奥で、古い冬の戸が開いた。
笑いへ変えられる傷ではない。六年たっても、温かい皿の前では指の関節が先に覚えている。
「私は六年前、冬公演の準備中に指を裂きました」
ヌーノ様は遮らなかった。
「薬を買うお金はありませんでした。親方は、右手が動くうちは食事を出しました。寝床も、工房の隅を貸しました。早朝の調律と弦張りをすれば、夕食の残りがもらえたのです」
あのころの私は、その仕組みを親切と呼んでいた。呼ばなければ寒さが増す気がした。
「雪の日でした。裂いたところが腫れて、指が曲がらなくなりました。親方は私の道具箱を閉じました。翌朝、荷物は路地へ出されていました。食事も、寝床も、仕事も同時でした」
机の縁へ置いた右手が、わずかに滑った。
ヌーノ様の手が動く。けれど私へは触れず、落ちかけた台帳だけを受け止めた。
「ですから、手を守る方は手が要るだけだと思っていたのです」
ヌーノ様は台帳を机へ戻した。
「あれは保護ではなく、使えなくなった職人を捨てただけだ」
「名前を変えても、路地は暖かくなりません」
「そうだ」
即座の否定が返らなかった。
彼は専属契約書を取り出し、私の前で開いた。銀の留め具を外す。ペンを握り、二行目へ太い線を引いた。
——契約期間中、調律師は他の公演依頼を受けてはならない。
削除。
さらに末尾の条文へ線を引く。
——雇用主は技能の低下を理由として、住居の提供を停止できる。
削除。
「これは誰が書いたのです」
「私だ」
「正直ですね」
「君を囲うために書いた」
ここまで正直だと、怒る側にも足場が要る。私は契約書をこちらへ引き寄せた。
「囲いは要りません」
「分かっている。今、分かった」
「今ですか」
「遅いことも分かっている」
ヌーノ様は新しい紙へ自分の手で条件を書いた。
食事と住居の提供は、就労、婚姻、同居の承諾を対価としない。
入室には居住者の許可を要する。
仕事の受諾と辞退はコランティーヌが決める。
退去日はコランティーヌが決める。
提供者ヌーノは、これらを理由としてコランティーヌを解雇できない。
最後に、専属契約の文字を二本線で消した。
「解雇権まで削るのですか」
「そもそも君は独立調律師だ。私に解雇する権利はなかった」
「囲おうとして忘れていた、と」
「そのとおりだ」
侯爵家の次男が、たいへん潔く自分の失点を積み上げている。
彼は二本の鍵を机へ置いた。一つは部屋の扉。もう一つは内側から掛ける補助錠。
「私の鍵は?」
「ない。合鍵も作らない。入るときは君に頼む」
「断ったら」
「廊下で帰る」
「侯爵家の方を?」
「君が決める」
私は鍵へ手を伸ばさなかった。
「婚姻への返事はしません」
「待つ」
「食事も部屋も、まだ受け取るとは」
「待つ」
「他の楽団の仕事を引き受けます」
ヌーノ様の眉が初めて露骨に寄った。独占欲は契約書から消えても、顔には残るらしい。顔面は公文書でないので訂正印が押せない。
「……それも、君が決める」
言い切るまでに二拍かかった。
よろしい。境界は美しい音を出す。張りすぎず、緩めすぎず、双方の指が届く位置にあるなら。
「それでは、この紙は預かります」
鍵はまだ置いたままにした。
「求婚の返事ではありません」
「分かっている」
「声が半音低いですよ」
「その程度で済んだことを褒めてほしい」
危うい。だが、私の線を見て止まれる人だ。
そのとき、舞台のほうで弦のはじける音がした。
私とヌーノ様は同時に振り向いた。
「開演前よ!」
パロマが扉を蹴り開けた。腕には予備弦の箱。顔色は譜面紙より白い。
「張ったそばから二本切れた。保管箱の残りも変!」
私は鍵ではなく道具箱を取った。
恋と契約は待たせられる。本番は待たない。実に礼儀を知らない。
予備弦庫では、ハーラル管理人が箱の蓋を閉じようとしていた。
「触るな」
奏者のいない場所では、いつもの命令形だ。
「私の道具です」
「楽団の備品だ。お前は昨日、弦の張力を誤った。報告書にはそう記す」
「昨日の弦は切れていません」
「今夜切れた。お前の調律が原因だ」
同種の罪をこちらへ貼れば、自分の指紋が消えると思っている。雑な音程である。
ヌーノ様が入ると、ハーラル管理人の語尾が急に痩せた。
「ヌ、ヌーノ様。これは調律師の不手際を確認しておりまして」
私は箱から弦を一本抜いた。
巻線を爪へ当てる。通常の劣化なら、擦れは演奏位置へ偏る。だが傷は留め具から同じ長さの場所に揃い、芯線の半分だけが斜めに割れていた。
「刃が入っています」
「言いがかりだ」
「弓の摩耗なら巻線から崩れます。これは芯が先です。三本とも切れ目の角度が同じ。張れば負荷が一か所へ集まり、最初の強奏で切れます」
「証拠があるのか」
「これから鳴らします」
私は無傷の弦を選び、ヌーノ様のヴァイオリンへ張った。指先で巻き、弓を借り、一音だけ鳴らす。
澄んだ音が倉庫の壁を打った。
続けて、傷ついた弦を古い試奏器へ張る。強くは弾かない。音程を上げる途中で、切れ目だけが白く開いた。
ハーラル管理人の口も同じ形に開いた。
「保管箱は誰の管理です」
私が尋ねると、パロマが箱の札を裏返した。
受領者、ハーラル。
昨夜の封印確認、ハーラル。
今朝の開封、ハーラル。
「わ、私だけが触れたとは限らない」
「では評議会で確認しましょう。弦の傷と一緒に」
「客の前で騒ぎを起こす気か!」
反撃しない裏方へだけ、声量が戻る。
「いいえ」
私は正しい弦を五本つかんだ。
「客の前では、正しい音を出します。そのあとです」
交換は七分で終えた。第一弦二本、第二弦一本、第三弦二本。これで今夜の交換数は五本。過去五公演の二十二本と合わせて、二十七本になる。
公演は予定どおり始まった。
戦うのは奏者の仕事だ。私は舞台袖で、音が崩れないことだけを確かめた。ヌーノ様の高音は最後まで切れず、客席は三度の拍手で彼らを呼び戻した。
私は拍手を数えなかった。
台帳の本数を数えていた。
終演の鐘が鳴る。
私はパロマから六夜ぶんの台帳を受け取り、舞台中央へ出た。
満員の客席には奏者、評議員、劇場職員が残っていた。ハーラル管理人は退路に近い幕際へ立っている。逃げ道の選び方だけは管理が早い。
評議会卓には、エスペランサ書記が座っていた。
「議事の追加を求めます」
私の声が、まだ演奏の余韻を抱えた客席へ落ちた。
「内容を」
エスペランサ書記の声には抑揚がない。一字も逃がさない人の音だ。
「六公演における調律と弦交換の作業者訂正。交換弦二十七本の帰属確認。公式報告と弦交換台帳の照合。加えて、今夜の予備弦の損傷および保管責任者の確認です」
ハーラル管理人が進み出た。
「内部の行き違いです。わざわざ終演後の議事にするほどではございません。裏方の記名など慣例上——」
「異議を述べた方は、発言を終えましたか」
エスペランサ書記が尋ねた。
「終えました」
「では、記録を提出してください」
パロマが抱えていた台帳を、ハーラル管理人でもヌーノ様でもなく、私へ渡した。
「あなたの仕事だから。あなたが出して」
私は六冊を評議会卓へ置いた。
白い手袋をしたエスペランサ書記が、最初の一冊を開く。
「冬季第一公演。午後七時四十八分。第三弦一本。巻線の緩みを確認し、開演前に交換。作業者、コランティーヌ。立会人、パロマ。楽器所有者兼確認者、ヌーノ。三名の署名を確認します」
客席の視線が私へ集まった。
ハーラル管理人は笑おうとした。口角の片方だけが上がり、もう片方は取り残された。
「単なる一件の記入です。私は全体管理を——」
「第二公演、交換五本。第三公演、三本。第四公演、九本。第五公演、四本」
エスペランサ書記は声量を変えない。
「全件の作業者欄にコランティーヌ、立会人欄にパロマ、確認者欄にヌーノの署名があります。時刻、弦種、交換理由はいずれも記載済みです」
一冊ずつ、卓上へ並べられる。
一。二。三。四。五。
私の名が、消された回数だけ戻ってくる。
「最終、第六公演。交換五本。作業者、コランティーヌ。立会人、パロマ。確認者、ヌーノ。これをもって六公演、交換弦二十七本。連署に欠落はありません」
六冊目が置かれた。
エスペランサ書記は公式報告を開く。
「一方、評議会提出済みの公式報告では、六公演すべての調律責任者および弦交換責任者がハーラルと記載されています。功績手当の受領者も同人です」
「管理責任者として当然の記載です!」
ハーラル管理人の声が裏返った。
「作業者と管理責任者は同一ですか」
「私の指示で動いた者の仕事は、管理上、私の——」
「私は一度もあなたから交換する弦を指示されていません」
私が言うと、彼はこちらへ指を突きつけた。
「黙れ! お前のような流れ者に名を載せれば、楽団の格式が落ちる。食わせてもらった裏方が、今さら功績を盗んだなどと——」
同じ罪名が、きれいに本人へ戻った。
私は卓上の台帳を指した。
「盗んだとは申していません。作業者、交換時刻、立会人の訂正を求めています。誰が盗んだかは、記録を読んだ方が決めます」
客席から、署名のない言葉が署名の列へ負ける音がした。
ヌーノ様が評議員席の前へ進む。
「出資者として、訂正議案を提出する。申立人の記録を六公演の公式記録へ編入し、誤った報告の提出者本人に訂正文を朗読させたい」
「賛成を確認しました」
評議員の札が上がる。
エスペランサ書記は訂正書を一枚取り出した。すでに見出しだけが記され、本文は空白だった。
「訂正文の内容を申立人に確認します。コランティーヌ、希望する文言を」
私が決めてよいのか。
胸の奥で、六年前に閉められた道具箱の金具が鳴った。
私はペンを取った。
「『管理上の補助』ではなく、『調律と弦交換』としてください。『関与した』ではなく、『作業を行った』。六公演すべてを一つずつ記載します」
「承りました」
エスペランサ書記が清書する。日付。公演。交換本数。作業者。立会人。確認者。二十七本の合計。誤った功績手当の受領額。訂正後の受取人。
最後に、今後この文書を番組記録、評議会議事録、楽団会計簿へ編入する旨が加えられた。
三つの記録へ、同じ名が入る。
もう校正刷り一本の線では消せない。
「ハーラル。朗読してください」
エスペランサ書記が訂正書を渡した。
ハーラル管理人の手は受け取らない。評議員二名が左右へ立つと、ようやく紙をつかんだ。
最初の一行を見た顔から、血の色が引く。
「読んでください」
「……冬季第一公演の調律と、第三弦一本の交換は」
声がかすれた。
「記録に残りません。初めから」
エスペランサ書記の声は平らだった。容赦とは、時に抑揚を必要としない。
ハーラル管理人は唇を湿らせた。
「冬季第一公演の調律と、第三弦一本の交換は、コランティーヌの仕事でした」
一冊目の台帳が開かれる。
「第二公演の調律と、弦五本の交換は、コランティーヌの仕事でした」
二冊目。
「第三公演の調律と、弦三本の交換は、コランティーヌの仕事でした」
三冊目。
「第四公演の調律と、弦九本の交換は、コランティーヌの仕事でした」
四冊目。
「第五公演の調律と、弦四本の交換は、コランティーヌの仕事でした」
五冊目。
声は読むたびに細くなった。私へだけ命令できた太さが、一行ごとに削られていく。
「第六公演の調律と、弦五本の交換は、コランティーヌの仕事でした。六公演、交換弦二十七本の功績は、調律師コランティーヌに帰属します。私、ハーラルは、作業者名を公式報告から削除し、自身を責任者として記載し、功績手当を受領しました」
彼の指が紙の端を折った。
「続けてください」
「公式記録を訂正し、手当の全額を返還します」
「署名を」
ペンが渡される。
ハーラル管理人は一度、ヌーノ様を見た。助けを求める目だった。
ヌーノ様は私を見ていた。
私の許可なしには一歩も近づかない場所から。
ハーラル管理人が署名した。
エスペランサ書記が訂正書へ受領印を押す。
硬い音が、満員の劇場に響いた。
六公演の記録が、私の名へ戻った。
よし。
よし!
拍手より、あの印の音のほうが美しい。今夜いちばん正確な一音だった。
奏者たちが立ち上がった。誰も勝手な説明を重ねない。署名後に初めて、声を揃えた。
「調律師コランティーヌ」
職名つきだった。
* * *
ハーラル管理人の記録権限は、その場で剥奪された。
会計係が保管庫から功績手当の袋を運び、評議会卓へ置く。ハーラル管理人は自分の印章で返還票へ署名し、袋から手を離した。受領票には、私の名が記された。
今後一年、彼は二名の確認下で備品係を務める。六公演に関係する会計簿、番組記録、保管票の訂正実務も本人の担当となった。謝罪の一音で二十七本を帳消しにはできない。紙は毎日、責任を思い出させる。たいへん教育熱心な職場である。
予備弦への切り傷は別件として評議会預かりになった。ハーラル管理人は無実とも有罪とも叫べず、封印箱を抱えて監督役の後ろへ並んだ。
去り際、彼は私を見た。
「私は管理人だぞ」
「昨日までは」
口から出た。品のない一音だったが、訂正は求められなかった。
劇場を出ると、夜気が指へ刺さった。
ヌーノ様は私の隣を歩いた。触れない。先ほど削った条文を、もう実地で守っている。
「部屋は暖めてある」
「契約終了後も?」
「君が退去日を決めるまで」
「仕事を断っても食事は?」
「届く」
「指が動かなくても?」
ヌーノ様の足が止まった。
「私が運ぶ」
低い声は、今度こそ揺れなかった。
彼は二本の鍵を差し出した。
私は一本ずつ受け取り、右のポケットと左のポケットへ分けて入れた。どちらも私が持つ。片方だけ預けておく、という顔を彼はしなかった。
劇場から三分の部屋へ着く。
私は自分の鍵で扉を開けた。
暖炉には火が入り、卓上には豆のスープと鶏肉の煮込み、焼いた根菜が並んでいた。六公演のあいだに食べたものが、今夜は一度に揃っている。
パロマの仕業だろう。恋愛の正解を先に知っている人は、献立まで話が早い。
ヌーノ様は廊下で待っていた。
「入っても?」
私は部屋の内側から、彼を見た。
求婚への答えはまだない。
専属契約もない。
明日は別の楽団から来た依頼書を開く。ヌーノ様はきっと眉を寄せる。それでも、決めるのは私だ。
「どうぞ。ただし、今夜の夕食には仕事を持ち込まないでください」
「分かった」
「私の指も見ないでください」
「努力する」
「見るおつもりですね」
「食事中は見ない」
完全な合意には、まだ調整が要る。
私は彼を部屋へ入れ、扉を閉めた。補助錠の鍵は私のポケットにある。
「仕事の話をしない夕食は、今夜いちばん調律の難しい曲になりそうです」
「君が選んだ曲なら、最後まで付き合う」
私はスープの器を二つ並べた。
片方を、自分の手でヌーノ様の前へ置いた。




