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追放された調律師ですが、署名台帳で消された名前を取り戻しました

作者: 花房 ゆり
掲載日:2026/08/27

「その弦、鳴らさないでください」


 私の声に、舞台袖の空気が半音上がった。


 弓を置きかけていたヌーノ様の手が止まる。私は首席奏者の返事を待たず、ヴァイオリンの下へ指を差し入れた。巻線が爪に引っかかる。ほんのひと筋。目では見落とす程度だが、本番で見落とせば二曲目の高音で切れる。


「交換します。第三弦です」


「あと十二分よ」


 パロマが台帳と、湯気の立つ器を同時に抱えて走ってきた。舞台係の腕は二本しかない。今夜も職務のほうが器官数を上回っている。


「まず食べて。次の契約を断っても食事は届けろ、と首席様から言われています」


「次の契約を断れば、私の指は不要になるはずですが」


「そこに気づく頭があるなら、別のところにも使って」


 どことは言わず、パロマは匙を私の口へ差し込んだ。温かい豆のスープだった。仕事前に温かいものを食べると指の震えが減る。ヌーノ様は出資者として実に合理的だ。終演後まで食事を届ける品質管理とは、ずいぶん長い余韻だけれど。


 弦を外し、新しい巻線を張る。時刻は午後七時四十八分。作業者欄は空白だったので、私はペン先を押しつけた。


 ——コランティーヌ。


 書いた名の横へ、立会人のパロマが署名する。さらにヌーノ様が楽器の持ち主として名を重ねた。


「毎回、ここまで必要でしょうか」


「必要だ」


「誰が張ったか、弦は覚えていませんよ」


「人間が覚えておく」


 低い声は正しい音程から一分もずれない。


 交換を終えると、ヌーノ様は銀色の薬壺を取り出した。


「手に触れても?」


「どうぞ」


 許可を得てから、彼は私の指を一節ずつ支えた。薬は私以外には触らせず、蓋も彼自身が開ける。傷のない指まで確かめる念入りさだ。首席奏者ともなれば、楽器だけでなく調律師の部品管理まで仕事に入るらしい。


「痛むなら今夜は休め」


「この程度なら動きます」


「動くかどうかではなく、痛むかと聞いた」


 妙な質問である。痛くても音は合う。


 私は薬の照りをまとった指を曲げた。


「本番まで指を持たせるためですね」


 ヌーノ様の親指が止まった。


 パロマが、抱えていた空の器へ額をぶつけた。


    *    *    *


「劇場から歩いて三分だ。今夜から使ってくれ」


 二公演目の終演後、ヌーノ様は私の掌へ鍵を置いた。


 寝台と暖炉のある部屋。夕食つき。水場は同じ階。指を湯で戻してから眠れる距離である。条件だけ見れば、調律師を飼育する設備として申し分ない。


「常駐調律師を確保する必要はありません」


 鍵を返した。


 ヌーノ様は受け取ろうとして、手を止めた。


 鍵は私たちの掌のあいだで、どちらにも所属せず冷えていた。


「契約が終わっても住める」


「退去日が決まっていない部屋には入りません」


「追い出さないという意味だ」


「追い出す日を家主だけが決められる、という意味にも聞こえます」


 ヌーノ様の声から、一音ぶんの息が抜けた。


 そこへハーラル管理人が現れた。首席奏者へ向けた腰は、楽譜台より低かった。


「お部屋の手配までなさるとは、さすがヌーノ様でございます。調律師の記入については、こちらの単なる処理漏れでして」


 私へ顔を向けた瞬間、その背が伸びた。


「台帳は内部確認用だ。番組記録へ勝手に名を書くな。客が知るのは奏者の名だけでいい」


「弦が切れれば、客も知ります」


「口答えをするな。裏方は音を出さない。功績も出ない。それだけだ」


 命令形になると声がよく響く。反撃しない壁へだけ豊かな音量を出せるのは、管理人として便利な特技なのだろう。


 ハーラル管理人は番組記録の校正刷りから私の名を線で消し、そのまま手当欄の受取人を自分へ書き替えた。


 抹消ひとつ、横取りひとつ。独奏としては手数が多い。


 私は消された校正刷りではなく、毎夜の弦交換台帳を閉じた。紙の表面には、私とヌーノ様の署名が残る。音は消える。インクはしぶとい。


 四公演が過ぎても、鍵は毎夜差し出された。


 私は毎夜返した。


 食事だけは、パロマが拒否を認めなかった。豆のスープ、鶏肉の煮込み、焼いた根菜。次の仕事を断った夜にも届いた。


 ますます長期的な品質管理である。困った。侯爵家の管理法は、費用対効果の計算がたいへん大らからしい。


    *    *    *


「五夜ぶん、全部です」


 最終公演の日、パロマは台帳を私の作業机へ置いた。


 私の署名が五つの公演欄に並んでいる。そのすべてにヌーノ様の連署があり、作業時刻と交換した弦が記録されていた。


 別に置かれた公式報告には、私の名がひとつもない。


 調律責任者、ハーラル。


 弦交換責任者、ハーラル。


 公演危機への対処、ハーラル。


 ずいぶん働き者である。私が毎夜見たハーラル管理人は、奏者へ頭を下げ、私へ命令し、あとは手当の受領欄に署名していた。三種の動作で六公演を救えるなら、私も転職したい。


「記入漏れではありませんね」


「うん。あなたの名前だけ、毎回きれいに抜けてる」


 パロマの声は早い。怒るほど仕事が速くなる人なので、今なら舞台を一人で解体できそうだ。


 扉が開き、ヌーノ様が入ってきた。


 私を見る。台帳を見る。公式報告を見る。


「ハーラルは」


「予備弦庫です」


「呼べ」


 パロマが走り出す前に、私は台帳を押さえた。


「待ってください。呼ぶ前に、私の契約を終わらせます」


 ヌーノ様の顔から色が引いた。ハーラル管理人ならともかく、首席奏者の顔色を狂わせた覚えはない。


「なぜ、そうなる」


「六公演目が終われば契約満了です。食事も部屋も受け取りません。専属契約書にも署名しません」


「食事は契約ではない」


「では贈与ですか。理由のない贈与は、あとで請求書になることがあります」


「請求しない」


「部屋も?」


「君のものとして使えばいい」


「鍵を持つのはヌーノ様です」


 彼は上着の内側から、見覚えのある鍵を出した。


「婚姻すれば、同じ家の鍵を持てる」


 調子の合わない弦を強く締めすぎると、こういう飛躍をする。夕食から部屋、部屋から婚姻。調律の途中を三工程ほど省いている。


 けれどヌーノ様は冗談を言う顔ではなかった。


「私と食事をしてほしい。私の用意した部屋で暮らしてほしい。望むなら仕事は続けていい。望まなくても、何も失わせない。私の伴侶になってくれ」


 一度に差し出されたものが多すぎる。


 食事。寝床。仕事。婚姻。


 すべて一本の紐で結ばれているように見えた。指が動くあいだだけほどけない、丈夫な紐だ。


「伴侶という名の終身雇用なら受けられません」


 口から出た声は、自分で思ったより硬かった。


 ヌーノ様が近づこうとして、止まる。私の指へ触れる前と同じ距離だった。


「終身雇用ではない」


「専属条項があります」


「君を他の楽団に渡したくない」


「それを雇用と呼びます」


「違う」


「違う、では契約文は変わりません」


 彼は言葉を失った。低く張られていた声の弦が、初めて緩む。


「では、どう書けば信じる」


「何を、ですか」


「手が動かなくても、私が君に食事をさせたいことを」


 喉の奥で、古い冬の戸が開いた。


 笑いへ変えられる傷ではない。六年たっても、温かい皿の前では指の関節が先に覚えている。


「私は六年前、冬公演の準備中に指を裂きました」


 ヌーノ様は遮らなかった。


「薬を買うお金はありませんでした。親方は、右手が動くうちは食事を出しました。寝床も、工房の隅を貸しました。早朝の調律と弦張りをすれば、夕食の残りがもらえたのです」


 あのころの私は、その仕組みを親切と呼んでいた。呼ばなければ寒さが増す気がした。


「雪の日でした。裂いたところが腫れて、指が曲がらなくなりました。親方は私の道具箱を閉じました。翌朝、荷物は路地へ出されていました。食事も、寝床も、仕事も同時でした」


 机の縁へ置いた右手が、わずかに滑った。


 ヌーノ様の手が動く。けれど私へは触れず、落ちかけた台帳だけを受け止めた。


「ですから、手を守る方は手が要るだけだと思っていたのです」


 ヌーノ様は台帳を机へ戻した。


「あれは保護ではなく、使えなくなった職人を捨てただけだ」


「名前を変えても、路地は暖かくなりません」


「そうだ」


 即座の否定が返らなかった。


 彼は専属契約書を取り出し、私の前で開いた。銀の留め具を外す。ペンを握り、二行目へ太い線を引いた。


 ——契約期間中、調律師は他の公演依頼を受けてはならない。


 削除。


 さらに末尾の条文へ線を引く。


 ——雇用主は技能の低下を理由として、住居の提供を停止できる。


 削除。


「これは誰が書いたのです」


「私だ」


「正直ですね」


「君を囲うために書いた」


 ここまで正直だと、怒る側にも足場が要る。私は契約書をこちらへ引き寄せた。


「囲いは要りません」


「分かっている。今、分かった」


「今ですか」


「遅いことも分かっている」


 ヌーノ様は新しい紙へ自分の手で条件を書いた。


 食事と住居の提供は、就労、婚姻、同居の承諾を対価としない。


 入室には居住者の許可を要する。


 仕事の受諾と辞退はコランティーヌが決める。


 退去日はコランティーヌが決める。


 提供者ヌーノは、これらを理由としてコランティーヌを解雇できない。


 最後に、専属契約の文字を二本線で消した。


「解雇権まで削るのですか」


「そもそも君は独立調律師だ。私に解雇する権利はなかった」


「囲おうとして忘れていた、と」


「そのとおりだ」


 侯爵家の次男が、たいへん潔く自分の失点を積み上げている。


 彼は二本の鍵を机へ置いた。一つは部屋の扉。もう一つは内側から掛ける補助錠。


「私の鍵は?」


「ない。合鍵も作らない。入るときは君に頼む」


「断ったら」


「廊下で帰る」


「侯爵家の方を?」


「君が決める」


 私は鍵へ手を伸ばさなかった。


「婚姻への返事はしません」


「待つ」


「食事も部屋も、まだ受け取るとは」


「待つ」


「他の楽団の仕事を引き受けます」


 ヌーノ様の眉が初めて露骨に寄った。独占欲は契約書から消えても、顔には残るらしい。顔面は公文書でないので訂正印が押せない。


「……それも、君が決める」


 言い切るまでに二拍かかった。


 よろしい。境界は美しい音を出す。張りすぎず、緩めすぎず、双方の指が届く位置にあるなら。


「それでは、この紙は預かります」


 鍵はまだ置いたままにした。


「求婚の返事ではありません」


「分かっている」


「声が半音低いですよ」


「その程度で済んだことを褒めてほしい」


 危うい。だが、私の線を見て止まれる人だ。


 そのとき、舞台のほうで弦のはじける音がした。


 私とヌーノ様は同時に振り向いた。


「開演前よ!」


 パロマが扉を蹴り開けた。腕には予備弦の箱。顔色は譜面紙より白い。


「張ったそばから二本切れた。保管箱の残りも変!」


 私は鍵ではなく道具箱を取った。


 恋と契約は待たせられる。本番は待たない。実に礼儀を知らない。


 予備弦庫では、ハーラル管理人が箱の蓋を閉じようとしていた。


「触るな」


 奏者のいない場所では、いつもの命令形だ。


「私の道具です」


「楽団の備品だ。お前は昨日、弦の張力を誤った。報告書にはそう記す」


「昨日の弦は切れていません」


「今夜切れた。お前の調律が原因だ」


 同種の罪をこちらへ貼れば、自分の指紋が消えると思っている。雑な音程である。


 ヌーノ様が入ると、ハーラル管理人の語尾が急に痩せた。


「ヌ、ヌーノ様。これは調律師の不手際を確認しておりまして」


 私は箱から弦を一本抜いた。


 巻線を爪へ当てる。通常の劣化なら、擦れは演奏位置へ偏る。だが傷は留め具から同じ長さの場所に揃い、芯線の半分だけが斜めに割れていた。


「刃が入っています」


「言いがかりだ」


「弓の摩耗なら巻線から崩れます。これは芯が先です。三本とも切れ目の角度が同じ。張れば負荷が一か所へ集まり、最初の強奏で切れます」


「証拠があるのか」


「これから鳴らします」


 私は無傷の弦を選び、ヌーノ様のヴァイオリンへ張った。指先で巻き、弓を借り、一音だけ鳴らす。


 澄んだ音が倉庫の壁を打った。


 続けて、傷ついた弦を古い試奏器へ張る。強くは弾かない。音程を上げる途中で、切れ目だけが白く開いた。


 ハーラル管理人の口も同じ形に開いた。


「保管箱は誰の管理です」


 私が尋ねると、パロマが箱の札を裏返した。


 受領者、ハーラル。


 昨夜の封印確認、ハーラル。


 今朝の開封、ハーラル。


「わ、私だけが触れたとは限らない」


「では評議会で確認しましょう。弦の傷と一緒に」


「客の前で騒ぎを起こす気か!」


 反撃しない裏方へだけ、声量が戻る。


「いいえ」


 私は正しい弦を五本つかんだ。


「客の前では、正しい音を出します。そのあとです」


 交換は七分で終えた。第一弦二本、第二弦一本、第三弦二本。これで今夜の交換数は五本。過去五公演の二十二本と合わせて、二十七本になる。


 公演は予定どおり始まった。


 戦うのは奏者の仕事だ。私は舞台袖で、音が崩れないことだけを確かめた。ヌーノ様の高音は最後まで切れず、客席は三度の拍手で彼らを呼び戻した。


 私は拍手を数えなかった。


 台帳の本数を数えていた。


 終演の鐘が鳴る。


 私はパロマから六夜ぶんの台帳を受け取り、舞台中央へ出た。


 満員の客席には奏者、評議員、劇場職員が残っていた。ハーラル管理人は退路に近い幕際へ立っている。逃げ道の選び方だけは管理が早い。


 評議会卓には、エスペランサ書記が座っていた。


「議事の追加を求めます」


 私の声が、まだ演奏の余韻を抱えた客席へ落ちた。


「内容を」


 エスペランサ書記の声には抑揚がない。一字も逃がさない人の音だ。


「六公演における調律と弦交換の作業者訂正。交換弦二十七本の帰属確認。公式報告と弦交換台帳の照合。加えて、今夜の予備弦の損傷および保管責任者の確認です」


 ハーラル管理人が進み出た。


「内部の行き違いです。わざわざ終演後の議事にするほどではございません。裏方の記名など慣例上——」


「異議を述べた方は、発言を終えましたか」


 エスペランサ書記が尋ねた。


「終えました」


「では、記録を提出してください」


 パロマが抱えていた台帳を、ハーラル管理人でもヌーノ様でもなく、私へ渡した。


「あなたの仕事だから。あなたが出して」


 私は六冊を評議会卓へ置いた。


 白い手袋をしたエスペランサ書記が、最初の一冊を開く。


「冬季第一公演。午後七時四十八分。第三弦一本。巻線の緩みを確認し、開演前に交換。作業者、コランティーヌ。立会人、パロマ。楽器所有者兼確認者、ヌーノ。三名の署名を確認します」


 客席の視線が私へ集まった。


 ハーラル管理人は笑おうとした。口角の片方だけが上がり、もう片方は取り残された。


「単なる一件の記入です。私は全体管理を——」


「第二公演、交換五本。第三公演、三本。第四公演、九本。第五公演、四本」


 エスペランサ書記は声量を変えない。


「全件の作業者欄にコランティーヌ、立会人欄にパロマ、確認者欄にヌーノの署名があります。時刻、弦種、交換理由はいずれも記載済みです」


 一冊ずつ、卓上へ並べられる。


 一。二。三。四。五。


 私の名が、消された回数だけ戻ってくる。


「最終、第六公演。交換五本。作業者、コランティーヌ。立会人、パロマ。確認者、ヌーノ。これをもって六公演、交換弦二十七本。連署に欠落はありません」


 六冊目が置かれた。


 エスペランサ書記は公式報告を開く。


「一方、評議会提出済みの公式報告では、六公演すべての調律責任者および弦交換責任者がハーラルと記載されています。功績手当の受領者も同人です」


「管理責任者として当然の記載です!」


 ハーラル管理人の声が裏返った。


「作業者と管理責任者は同一ですか」


「私の指示で動いた者の仕事は、管理上、私の——」


「私は一度もあなたから交換する弦を指示されていません」


 私が言うと、彼はこちらへ指を突きつけた。


「黙れ! お前のような流れ者に名を載せれば、楽団の格式が落ちる。食わせてもらった裏方が、今さら功績を盗んだなどと——」


 同じ罪名が、きれいに本人へ戻った。


 私は卓上の台帳を指した。


「盗んだとは申していません。作業者、交換時刻、立会人の訂正を求めています。誰が盗んだかは、記録を読んだ方が決めます」


 客席から、署名のない言葉が署名の列へ負ける音がした。


 ヌーノ様が評議員席の前へ進む。


「出資者として、訂正議案を提出する。申立人の記録を六公演の公式記録へ編入し、誤った報告の提出者本人に訂正文を朗読させたい」


「賛成を確認しました」


 評議員の札が上がる。


 エスペランサ書記は訂正書を一枚取り出した。すでに見出しだけが記され、本文は空白だった。


「訂正文の内容を申立人に確認します。コランティーヌ、希望する文言を」


 私が決めてよいのか。


 胸の奥で、六年前に閉められた道具箱の金具が鳴った。


 私はペンを取った。


「『管理上の補助』ではなく、『調律と弦交換』としてください。『関与した』ではなく、『作業を行った』。六公演すべてを一つずつ記載します」


「承りました」


 エスペランサ書記が清書する。日付。公演。交換本数。作業者。立会人。確認者。二十七本の合計。誤った功績手当の受領額。訂正後の受取人。


 最後に、今後この文書を番組記録、評議会議事録、楽団会計簿へ編入する旨が加えられた。


 三つの記録へ、同じ名が入る。


 もう校正刷り一本の線では消せない。


「ハーラル。朗読してください」


 エスペランサ書記が訂正書を渡した。


 ハーラル管理人の手は受け取らない。評議員二名が左右へ立つと、ようやく紙をつかんだ。


 最初の一行を見た顔から、血の色が引く。


「読んでください」


「……冬季第一公演の調律と、第三弦一本の交換は」


 声がかすれた。


「記録に残りません。初めから」


 エスペランサ書記の声は平らだった。容赦とは、時に抑揚を必要としない。


 ハーラル管理人は唇を湿らせた。


「冬季第一公演の調律と、第三弦一本の交換は、コランティーヌの仕事でした」


 一冊目の台帳が開かれる。


「第二公演の調律と、弦五本の交換は、コランティーヌの仕事でした」


 二冊目。


「第三公演の調律と、弦三本の交換は、コランティーヌの仕事でした」


 三冊目。


「第四公演の調律と、弦九本の交換は、コランティーヌの仕事でした」


 四冊目。


「第五公演の調律と、弦四本の交換は、コランティーヌの仕事でした」


 五冊目。


 声は読むたびに細くなった。私へだけ命令できた太さが、一行ごとに削られていく。


「第六公演の調律と、弦五本の交換は、コランティーヌの仕事でした。六公演、交換弦二十七本の功績は、調律師コランティーヌに帰属します。私、ハーラルは、作業者名を公式報告から削除し、自身を責任者として記載し、功績手当を受領しました」


 彼の指が紙の端を折った。


「続けてください」


「公式記録を訂正し、手当の全額を返還します」


「署名を」


 ペンが渡される。


 ハーラル管理人は一度、ヌーノ様を見た。助けを求める目だった。


 ヌーノ様は私を見ていた。


 私の許可なしには一歩も近づかない場所から。


 ハーラル管理人が署名した。


 エスペランサ書記が訂正書へ受領印を押す。


 硬い音が、満員の劇場に響いた。


 六公演の記録が、私の名へ戻った。


 よし。


 よし!


 拍手より、あの印の音のほうが美しい。今夜いちばん正確な一音だった。


 奏者たちが立ち上がった。誰も勝手な説明を重ねない。署名後に初めて、声を揃えた。


「調律師コランティーヌ」


 職名つきだった。


    *    *    *


 ハーラル管理人の記録権限は、その場で剥奪された。


 会計係が保管庫から功績手当の袋を運び、評議会卓へ置く。ハーラル管理人は自分の印章で返還票へ署名し、袋から手を離した。受領票には、私の名が記された。


 今後一年、彼は二名の確認下で備品係を務める。六公演に関係する会計簿、番組記録、保管票の訂正実務も本人の担当となった。謝罪の一音で二十七本を帳消しにはできない。紙は毎日、責任を思い出させる。たいへん教育熱心な職場である。


 予備弦への切り傷は別件として評議会預かりになった。ハーラル管理人は無実とも有罪とも叫べず、封印箱を抱えて監督役の後ろへ並んだ。


 去り際、彼は私を見た。


「私は管理人だぞ」


「昨日までは」


 口から出た。品のない一音だったが、訂正は求められなかった。


 劇場を出ると、夜気が指へ刺さった。


 ヌーノ様は私の隣を歩いた。触れない。先ほど削った条文を、もう実地で守っている。


「部屋は暖めてある」


「契約終了後も?」


「君が退去日を決めるまで」


「仕事を断っても食事は?」


「届く」


「指が動かなくても?」


 ヌーノ様の足が止まった。


「私が運ぶ」


 低い声は、今度こそ揺れなかった。


 彼は二本の鍵を差し出した。


 私は一本ずつ受け取り、右のポケットと左のポケットへ分けて入れた。どちらも私が持つ。片方だけ預けておく、という顔を彼はしなかった。


 劇場から三分の部屋へ着く。


 私は自分の鍵で扉を開けた。


 暖炉には火が入り、卓上には豆のスープと鶏肉の煮込み、焼いた根菜が並んでいた。六公演のあいだに食べたものが、今夜は一度に揃っている。


 パロマの仕業だろう。恋愛の正解を先に知っている人は、献立まで話が早い。


 ヌーノ様は廊下で待っていた。


「入っても?」


 私は部屋の内側から、彼を見た。


 求婚への答えはまだない。


 専属契約もない。


 明日は別の楽団から来た依頼書を開く。ヌーノ様はきっと眉を寄せる。それでも、決めるのは私だ。


「どうぞ。ただし、今夜の夕食には仕事を持ち込まないでください」


「分かった」


「私の指も見ないでください」


「努力する」


「見るおつもりですね」


「食事中は見ない」


 完全な合意には、まだ調整が要る。


 私は彼を部屋へ入れ、扉を閉めた。補助錠の鍵は私のポケットにある。


「仕事の話をしない夕食は、今夜いちばん調律の難しい曲になりそうです」


「君が選んだ曲なら、最後まで付き合う」


 私はスープの器を二つ並べた。


 片方を、自分の手でヌーノ様の前へ置いた。

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