嘘をつく力、本当を突く力
世の中、嘘が嫌われることも数あるが、その実、嘘が愛されることもまた多い。なろうによく訪れる人なら分かるはずだが、娯楽というのは嘘とニアリーイコールでつながっている。
現実はしばしば非情で不愉快だし、誰かに傷つけられることも、自分に有利なように誰かを傷つけることだって、忌むべきものと知りながらそれを経験してしまったりする。
だから大抵のフィクションは嘘であり、我々はニュースなんかより小説が好きだしドラマが好きだしアニメが好きだし漫画だって好きなのだ。
だが、さて、フィクションだからと嘘を盾にして、私たちの経験してきたリアルの影絵が創作に投影されることは、ままある。
好きな創作を思い浮かべてもらって構わない。その全体は嘘と同義だとしても、その一部や、セリフのひとつ、展開のどこからどこまで、という区切りの中では、現実にあるもののシルエットが鮮明に作品内に浮かび上がってはいないだろうか?
影絵の形はいろいろだ。思うようにならない現実の悲しみかもしれないし、欺瞞と、それを破らんとする侠気のせめぎ合いかもしれない。ポジティブな例も出そう。夢を叶える話かも知れないし、運命の愛と巡り逢う話かもしれない。どれも、現実から投影された影絵であるという点は同じだ。
作りものを、嘘を愛するはずの私たちは、フィクションの盾の後ろから飛び出してくる現実の影にどうしてか感動してしまう。その作品と自分とが、一体になったような錯覚を起こす。あるいは、自らがあげられない声の勇ましい代弁としてそれらに自分の心を託したりする。
かくして創作とは頻繁に、作りもの以上の力をもって世を揺るがしたりするのだ。
今に始まったことでもないことだが、創作でもって世の中を揺るがしてやろうという企みを我々は精査する術を持たない。
『蟹工船』が共産主義礼賛の作品であることは、しばしば常識のように語られるが、それを証明する方法がない。作品に対するコンセンサスだけがつるつると滑りながら過去から現在までずっと私たちの隣を滑走しているだけだ。
説得力を得るにはもう少し血肉のある例を出さねばならないだろう。
百田尚樹の『永遠のゼロ』はどうか。フィクションという体を成してはいるが、あれは全体主義と個人主義の同一化を図る、ナショナリズム的な物語であるように私の目には映る。
そうして、そういう見方はある一定数の人間からの同意を得ることはできるだろう。しかし、それが答え合わせになる瞬間は絶対にやって来ない。別にあれは思想書でも哲学書でもなく、第二次大戦をテーマにしたただの小説だからだ。読む人によって読み方は違う。お前はそうなんだろうと一蹴されてしまえばそこから先の話はもうできない。
もう一段階ギアを上げると、同じく百田尚樹氏の『風の中のマリア』なんかは、全体主義的な、滅私奉公のロマンに酔っ払うための強い酒のような作品である。一つの現し世の影絵ではある。事実だ。生まれてから死ぬまで、自らが生まれた世界に携わり続け、自らの属するコミュニティと同一化して生きられるというのは、ある種の幸福であることに異論はない。
しかしどの作品も、読んでいて鼻につくような、嫌な感じを受けるのは、それらが作品の形をした作者自身の主張だからだ。だから嫌悪感がなくならないのだ。みなあっさりと自分の理想を至上のものと掲げ、自分でそれを疑ってみることもしない。自分が掲げるものへの後ろめたさが全然ない。
もちろん、創作で金を取ろうと思うなら、自分の思想への疑念などは全く邪魔なだけであり、創作の中で、いかなる方向へ走っているにせよ自身を強く肯定することを延々と続けていればよいわけだ。
だから、というわけではないが、私は俗っぽい作品が多いことを知りながらも上遠野浩平のほうがよほど密で、落ち着いていて、本当のことについて言及する、芯を突く力に長けているような気がしてしまうのだ。それを安全に痛い自己反省パフォーマンスとか抜かしたどこぞの評論家に向ける私の憎しみは深い。
あれっ?でもおかしい。ここまで書いてきてしまった私自身の言葉はじゃあなんなのだ。他人様には言いたいことを失礼千万に言っておきながら、私自身の見解についてはこれを書きながら全然、内省も疑念も持たないで書いている。こりゃいよいよ本当におかしい。言っていることとやっていることがあべこべである。
こんなことは最初から書かなければ良かったのだろうか?ううむ、さっぱり分からない。語らなければこんな自分自身の矛盾にも突き当たらずに済むものを。すっかり自家撞着に行きついてしまって呆然としている私は、多分また性懲りもなく何かを書くのだ。嘘をつく力も、本当を突く力も、きっと私には全くもって足りていないのだ。とほほ。
頭の中が濁ったように感じるときは、その濁りを析出させて文章にするのが一番の薬になる。まとまりがないのは今に始まったことでもないので別に直すつもりもない。ごみ箱にいれると忘れるので、ごみ箱に入れたという印をつけておく程度のことだ。




