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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。

お風呂の花男さん

【BL】お風呂の花男さんSIDE:A~不憫な生霊と風呂から始まる同居生活~

掲載日:2026/04/28

BL注意です。

 

「ふんふん、ふふふ~ん♪」

 

 ピッ!

 

『お湯はりをします。お風呂の栓は閉じましたか?』

 

「うんうん、閉じてるよ~バッチリだよ~」

 

 ジャバー!

 

「おおお……お湯が勢い良く……」

 

 浴槽にお湯が溜まっていくのをしばし眺め、いそいそと蓋を閉める。

 さて、快適なお風呂タイムのための準備をせねば!

 

 改装して新品、ピカピカの浴室を後にして、脱衣所兼洗面所の棚を開ける。

 そこにはズラリと快適お風呂グッズが、ところ狭しと入っていた。

 

「記念すべき初入浴は、どれにしようかな~」

 

 名湯の入浴剤、薬用ハーブ系、しゅわしゅわ炭酸ガス系など、様々な入浴剤が、出番を待つように行儀よく並んでいる。

 

「ん、やっぱ草津の湯にしよう!」

 

 俺は入浴剤とボディタオルを洗面器に入れて、浴室扉の前に置いた。

 

「楽しみだな~、ぐふふ、人生のクライマックスって感じ」

 

 たかが入浴でクライマックスとは、と思うなかれ。

 俺の唯一最大の趣味が入浴なのだ。

 

 矢島大輔やしまだいすけ。30歳、独身。当然、恋人もいない、くたびれた社畜だ。

 学生時代の友人はほとんどが所帯を持ち、どこかへ遊びに行くどころか、飲み会すらなくなって久しい。まあ、仕事が忙しすぎて、滅多に参加もできなかったが。

 

 そんな俺でも、毎日の入浴は欠かさない。入浴だ。シャワーじゃないぞ?

 

 大学を出て真面目に働いて、使う暇もなく溜め込んだ金で、中古のマンションを購入した。そして、念願の足を伸ばして入れる浴槽にリノベーションしたのだ!

 こだわり抜いた内装に滑らかな浴槽。浴室乾燥機能もつけた。

 

 そんな素晴らしい風呂のある新居に、俺は今日引っ越してきたのだ。

 荷物はまだちっとも片付いていないが、風呂さえ入れればそれでいい。寝る場所なんざ、床だって構わない。

 

 ちゃんらら、ちゃんらら、ちゃんらららら~♪

 

「おおっ」

 

 なんという心踊る調べ!

 

『お風呂がわきました』

 

「わかった!」

 

 ともかく。俺の社畜人生で最大の楽しみとなる風呂場へ、いざ行かん!

 急いで服を脱ぎ、洗面器を手に天国への扉を開いた。

 

 ガラッ ガタガタッ

 

 蓋を開けると、ほのかに湯気の上がる水面が、俺を誘っている。

 

「はわわ……」

 

 俺はすぐにでも飛び込みたい気持ちを抑え込み、まずは入浴剤を入れて、よくかき混ぜる。

 よし、ちゃんと溶けたな! 

 それから、かけ湯だ。心臓から遠い部分から、ゆっくりと体を温度に慣れさせつつ、汚れも流すのだ。ジャバジャバと念入りに湯を掛けていくのは、入浴前の儀式だ。自分だけの風呂とはいえ、風呂に失礼を働いてはいかん。

 

 準備が整い、やっと風呂に入れる。

 まずは足からゆっくり……ああ、あったかい。かけ湯の効果だ。熱く感じない。(体が冷えていると熱く感じるのだ)

 

 とぷん……

 

「ふあああああああああああああ………」

 

 天国だ。

 俺だけの、まさに至福の時間――

 

「はあ……」

 

 ぴちょん……

 

 天井から落ちた水滴が、波紋を作る。


 ……いや、違う。

 もっと浴槽の縁に、ぽたぽたと……波紋の元を辿って顔を上げると。

 

 ボトボトと涙を流している男がいた。

 俺から見て横向きで、服を着たまま湯に胸まで浸かっている。その男が浴槽の縁に手をかけて、静かに泣いている。

 

 若い男だ。多分20代半ばだろう。

 線が細い、……というか痩せ細っている。

 

「…………」

 

 何が起こっているのか、わからない。

 

(いやいやいや、入る前には誰もいなかったよな!?)

 

 あまりのことに声も出せないでいると、男は手で顔を覆って、しくしくと本格的に泣きだしてしまった。

 

『ううう……ぐすっ、ううう……ひっく、ひっく……』

 

 しゃくりあげる声だけが浴室に響く。

 男はただ泣くだけで、こちらに何かをしてくる様子はない。

 ふと、男の服も髪も濡れていないことに気づいて、ゾッとした。

 

(まて、ありえないだろ、……幻か? 俺、そんなに疲れてたのか……?)

 

 思わず目を擦るが、目の前の男は消えない。

 

(まさか……幽霊……?)

 

 浴槽は大きいので、横を向いている男と接触することはないが、思わず体を縮ませてしまう。せっかく暖かい湯の中にいるというのに、体が芯から冷えるような心地になる。

 

(ここって、事故物件だったのか? そんな話は聞いてないぞ……)

 

 だらだらと冷や汗をかきながら、動けないでいると。

 

 ぴちょん

 

「ちべてっ!」

 

 冷たい雫が首筋に当たり、思わず大声を出してしまった。

 

『ひっ!』

 

 その声に、男はびくりと体を揺らした。

 

(あ、聞こえてはいるのか)

 

『ぐすっ、ぐすっ』

 

 涙を拭いながら、男は体を小さくする。まるで何かから逃げようと怯えているように見える。

 その姿は幽霊だと思っていても、何だか気の毒に感じてしまうほどだ。

 

 とはいえ。このままずっと湯船に浸かってるわけにもいかない。

 気づいていない振りをして、黙って浴室から出るのが正解なんだろうが。

 

「……なあ、あんた」

 

 俺は数分悩んだ末、幽霊に声を掛けることにした。

 呪われるんじゃないだろうかと、戦々恐々としながらだったけど。 

 

『ぐすん、……ひっく、……ひっく、……ぐすっ』

 

 しかし、幽霊は反応しない。聞こえていると思っていたんだが、違うのだろうか。

 それならば。男の濡れていない服に向かって、見えていない風を装って湯を掛けてみた。

 

「あー……、きもちいいなあー」

 

 ばしゃばしゃと水しぶきが上がるようにして、顔を洗う。

 飛び散った飛沫を横目で見ていると、男の体をすり抜け、服を濡らすことはなかった。

 

(やっぱり幽霊、だよなぁ)

 

 とにかく明日の昼休みにでも、不動産屋に連絡して苦情を言わねば。

 お祓いでもなんでもしてもらわないと、せっかくの快適風呂ライフがまさに風呂の泡ではないか。

 

 しくしくしく……

 

 男は変わらず、ずっと涙を流し続けている。

 これが生きている人間なら、脱水を心配してしまうレベルだ。

 

(まあ、こっちに気が付かないなら仕方ない)

 

 俺は風呂から出て、バスチェアに腰掛けた。

 そして、お気に入りのボディソープをこだわりのシャリ感のあるボディタオルで泡立て始めた。

 害がないのであれば、幽霊がいようが快適な風呂のルーチンを崩すつもりは一切ない。

 湯気で曇った鏡を手で拭って、背後の男を観察しようとしたが、映らなかった。

 

(おお、さすがは幽霊……)

 

 そう思いつつ、体を洗っていると、背後で気配がした。

 「え?」と思って振り向こうとしたら、肩越しにドアップの男の顔があった。

 

 ぎょろり、と俺の顔を覗く目と視線が合ってしまった。

 

「うわあっ!?」

 

 さすがに驚いて、椅子から転げ落ち、

 

 ガッターン! ガラガラッ!

 

 と、大きな音が浴室に反響した。

 

『ひゃあっ!』

 

 幽霊も驚いて悲鳴を上げた。

 おい、驚かされたのは、俺なんだが。

 

『あ、あの……お兄さんって、幽霊ですか?』

「は?」

 

 あろうことか、俺が幽霊だと言うのか? この幽霊が?

 

「俺が幽霊に見えるってのか!」

 

 思わず凄んでしまったが、フリチンなので全く締まらない。

 

『ひぃっ! お、怒らないでよ!』

 

 ブルブル震えながら、幽霊が浴室の端に逃げる。

 

『だって、あなたが、いきなりうちの家の風呂場に入ってくるから……怖くてっ』

「はあ? ここは俺の家だが?」

 

 よっこいしょ、とバスチェアを戻して再び座って、体を洗うのを再開する。

 

『そんなはずないっ! ここは俺の親が残してくれた家で……っ、あれ?』

 

 幽霊がハッとした顔で周囲を見回す。

 

『あれ……? おかしいな、ここは、俺の家のはず……』

 

 初めて気づいたように、幽霊が目をパチパチとさせる。目からは残っていた涙が数滴足元に落ちて消えた。

 

「ひょっとして、前の家の住人か? 俺は今日、ここに越してきたんだ」

『そんな……お風呂が綺麗になってる……』

 

 呆然としている幽霊を尻目に、髪を洗い始める。

 幽霊とはいえ、相手が服を着ている状態で全裸なのはどうかと思うが、ここは風呂だ。服を着ている方がおかしいのだ、と開き直ることにする。

 

 シャワーで泡を流して、再び浴槽に浸かる。

 

「で、幽霊くんよ。あんた、いつまでここにいるつもりだ?」

『いつまで、って言われても……』

 

 自分の置かれている立場がわかったのか、幽霊は浴室の壁に貼り付いたように立ち尽くしている。

 

『俺、ここ以外に行くあてなんてないし……』

「成仏しねぇの? 墓とかは?」

 

 俺の質問に幽霊はふるふるとクビを振って否定する。

 

『よく、わかんない。俺が死んで、どれぐらい経ったのか……』

「……死因は何だったんだ? 病死か?」

 

 普通に亡くなっただけなら、事故物件ではないのか?

 でも、財産全てを注ぎ込んだ俺からすれば、幽霊が出る時点で同じなんだが。

 

『……わからないです』

 

 幽霊は口ごもりながら答える。嫌な記憶だろうし、思い出したくないのかもしれない。

 

「まあ、いいや。それじゃあ名前は?」

 

 名前、と言われて幽霊はハッとした顔になる。

 

『…………あ、いや、俺、幽霊じゃないです!』

「じゃあ、何だ。風呂に出る妖怪なんかいたか?」

  

 明らかに誤魔化そうとしているので、ツッコミを入れる。

 意外と図太いな自分。

 

『その、……お風呂……』

 

 幽霊は困ったように目を上に向けて考えてから、ハッとした。

 

『お風呂、……そう、お風呂の花男さんなんです!』

「まんまパクリじゃねーか」

 

 すかさずツッコミ返すと幽霊はがっくりと肩を落とす。

 

『花子さんだって、本名かどうかなんて、わかんないでしょ……』

「まあ、前の持ち主ってことなら、すぐにわかるだろうけど」

『……うう』

 

 花男(仮)は立ったままで、再び泣き始めた。

 

「あーもー、泣くな泣くな。辛気臭えな。そんなに悲しいことがあったのか? ……って言っても、死んじまったら、そりゃあ悲しいよな……」

 

 花男(仮)はべそべそと泣いている。

 

「……まあ、なんだ。幽霊が入れるかどうかわかんねーけど、そんなトコに立ってないで、湯に浸かれよ。嫌なことがあった時は風呂に入るのが一番だ」

『お風呂…』

「そうそう、お風呂の花男さんなんだろ? 風呂に入ってないと格好がつかねーじゃねぇか」

 

 幽霊に風呂を勧めるなんて、常軌を逸してるなと思ったが。

 自分だって、辛い時は風呂で癒したもんだ。

 それで何が解決する訳でもないが、それでも明日も元気に生きるために。

 

(……幽霊に、元気に生きるってのも、おかしいか……)

 

 ちゃぷん

 

 微かな水音に目線を上げると、花男(仮)が湯船に浸かっていた。

 今度はちゃんと裸になっていた。

 

『随分と様変わりしちゃったけど、昔は俺も、お風呂で元気になってたなぁ……』

 

 幽霊だからか、あれだけ泣いていたにもかかわらず、目は腫れていない。

 

『どうせ、明日になったらバレちゃうみたいだし。……一緒にお風呂に入ってる縁で、俺の話を聞いてくれますか?』

「おう、かまわんよ」

 

 俺は湯の温度設定を下げた。

 新品の液晶パネルは操作しやすくて、大満足だ。

 

『俺には弟がいるんです』

 

 花男(仮)はゆっくりと話し始めた。

 元々この家に住んでいた頃は、両親、花男、弟の四人家族だった。しかし、弟が手がつけられないほどに荒れて、金銭問題まで起こして、この家を手放すことになってしまった。

 だが、俺が買える程度の金額、しかもローンも残っていて、大した金にはならなかった。そこで両親は身を粉にして働いたが、過労から来る病気と事故で、相次いで亡くなったそうだ。

 

『弟も最初からクズだった訳じゃないんです。中学の時に虐められて、あれで人が変わったようになってしまって。……両親が無理してまで頑張ったのも、いつか元の優しい弟に戻ってくれるって信じてたからじゃないかな……』

 

 しかし、両親の死後も弟は変わらなかった。むしろ悪化した。

 両親にまで暴虐無人に振る舞っていたのが、まだマシだったんだと理解したのは、自分名義の多額の借金に気づいた時だった。

 会社に現れた借金取りが、自分が書いた覚えもない借用書を見せつけてきた。それは、見慣れた弟の字だった。

 

 借金の額は300万。

 車1台分のこの金額が、その日暮らしのような生活を強いられていた花男には途方もない金額だった。

 

 この頃になると、弟は借金取りから逃げるように借家には居着かなくなっていた。素行の悪い連中と一緒にいるか、女性の家を転々としていたらしい。

 しかし、花男の状況は悪化の一途を辿り、ついに借金取りのせいで会社の業務にまで支障が出てしまった。

 1ヶ月分の給料を上乗せされた金とともに、即日解雇された花男は、待ち構えていた借金取りにその全てを持ち去られた。職も金も、何も残らなかった。

 とぼとぼと帰り着いた借家も、もう数ヶ月家賃を滞納していて、退去勧告をされていた。

 もういっそ死のうか……そう思った時、タイミングがいいのか、悪いのか。弟が数カ月ぶりに姿を現した。

 

「よう、兄貴、悪いが小遣いくんね?」

 

 それまで何の気力も湧かなかったのに、弟の一言で一気に怒りが体を焼いた。人生で初めての感情に戸惑う前に体が動いていた。

 

「啓太……っ! お前のせいで……っ!」

 

 心労でほとんど食べれず痩せてしまった体なのに、自分でも驚くほどの力が出た。

 弟の胸ぐらを掴んで詰め寄った。

 

「俺は仕事も金も失った! もう何も残ってない! 父さんも母さんも、お前を信じてたのに……っ! なにもかも……っ!」

 

 怒りで視界が真っ赤に染まる。

 そうだ、俺は死んでもいいが、こいつがのうのうと生き延びるのは、許せない……!

 

 ガンッガンッ!

 

 胸ぐらを掴んだまま、弟の体を壁に打ち付ける。

 普段は近所迷惑を考えて絶対にしない行動だったが、そんなことは頭から抜け落ちていた。

 

「死ね……っ! 俺もすぐに逝く……それが、兄の責任だ……っ」

 

 ふーふーと息が上がる。さすがに体力が限界だ。

 

「ったく、いてぇなぁ」

 

 弟は何事もなかったかのように、体を立て直す。ダメージは全くなかっただろう。ひょろひょろで背も低い俺と、グレて喧嘩に明け暮れていた弟とでは体格も違う。

 しかし、今日は負ける訳にはいかない。

 

「兄貴は、俺の言う通りにしなくちゃだろ? でないと、パパとママに怒られちゃうぜ~? なあ、お兄ちゃん?」

 

 頭がカッとした。

 それは、昔。虐められて傷ついていた弟のためを思って、母が俺に言った言葉だ。

 

『啓太は傷ついているの。出来るだけ言う通りにしてあげてね』

 

 だから、家族はみんな啓太のために一丸となって頑張った。

 ――当の啓太を除いて。

 

「……はは、クソが……何がお兄ちゃんだ」

 

 目を覚ませ、目の前にいるのはとっくに成人を迎えたゴロツキだ。

 俺がこれ以上頑張る必要は、1ミリもない!

 

 そう思って弟を睨んだ。

 が、一瞬にして、気合が削がれた。

 

 弟の目がギラギラと怒りに染まっていた。

 

「ムカつくわー、お前らは、俺の奴隷だろ?」

 

 ボグッ!

 

 目の前に星が飛んだ。

 そして鈍い衝撃と痛み。

 

 ドガッ、バキッ、ドンッ!

 

 人形みたいに、自分の体が跳ねるのを感じた。しかし、その感触も遠い。

 

「俺が、こんなになったのは、お前らのせいじゃねぇかっ!」

 

 弟の憎しみの籠もった声を聞いたのを最後に、俺の意識はそこで途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 ――山口彰良やまぐちあきよし

 

(これが花男の父親か)

 

 俺はマンションの登記簿を取り出して眺めた。

 不動産会社に名義変更されているが、時期は2年と3ヶ月前。

 花男の話だと、このあとに両親が立て続けに亡くなったということか。

 

『ああ、そうか……登記簿……』

 

 花男がまた泣きそうな声で言う。

 

「別に知られたからって困ることあるか?」

『だって、借金取りが……』

「どうやって死んだ人間から取り立てんだよ。それに俺が知り合いだったとしても、法的根拠は全くないだろ」

『そう言うけど、あいつら、本当にタチが悪くて……』

「そん時は警察呼ぶさ」

 

 出してきた登記簿を、不動産関係をまとめた分厚いファイルに戻す。

 

山口勇気やまぐちゆうき……』

「ん?」

『俺の名前。……一応、世話になってるし』

「世話って言っても、別になぁ。呪い殺されるとかなら勘弁だけど」

『そんなことしない! やり方もわかんない!』

 

 花男、……勇気は両手を振って否定する。

 

「あとは、……幽霊つきの物件は価値が下がりそうってぐらいか? まあ、売るつもりはないから関係ないか。……ここは元実家なんだろ? 全く縁がないって訳でもないし」

『……ここにいてもいいの?』

「ダメだって言っても、俺には追い出す手段はないしな」

 

 花男……勇気は、その場にしゃがみこんで顔を覆った。

 

「おい、本当に泣き虫だな」

『だ、だって』

 

 ぐす、と鼻をすすって、ぐっと息を飲む。

 

『誰も、助けてくれなかったから』

 

 そう言って、また涙が溢れてくる。

 

「あー、別に助けてる訳じゃないだろ? できることもないし」

『……もし、俺が生きてる時に会ってたら助けてくれた?』

 

 風呂場で聞いた話を元に、想像してみる。

 

「んー……まあ、弁護士くらいは紹介したかな。あと役所。多分、ご両親は弟さんの更生を願って大事おおごとにはしたくなかったんだろうが、俺は他人だからな。少なくとも、暴力を振るった時点でアウトだ」

『最初から、それぐらい毅然としてれば良かったんでしょうか……』

 

 勇気がぽつんと呟いた。

 

「たらればの話をしてもしょうがない。結果だけ見たらそうかもだが、元の仲の良い家族に戻りたいって願いを責められないだろ」 

『そう、ですか』

「俺だって、自分の家族だったら、どういう対応するかわからん。というか、もし俺がその弟くんみたいな真似をしたら、親父にぶち殺されてる」

『厳しいお父さんなんですね』

「お前さんと同じだよ。弟を殴ろうとしたんだろ」

 

 勇気はそのまま床に座り込んだ。

 

『俺、間違ってなかったのかな』

「敗因は体を鍛えてないことだったな」

 

 勇気はふっと笑った。

 

『インドア派なんです』

「なら、相手を再起不能にできるだけの毒を吐けばいい」

 

 今度こそ勇気は声を出して笑った。

 

『あははっ、そんなこと考えたことなかったけど、確かに兄弟だから、いろいろあるかぁ』

「だろ? 寝ションベン何歳までしてたかバラすだけでも、恥かかせられるぜ」

『あははっ』

 

 楽しそうに笑う幽霊というのもシュールだが、まあ泣かれるよりはマシだ。

 

「まあでも、せっかく死んだんだ。もうイヤなことは忘れろってことだ」

『そうですね……』

 

 

 こうして、俺と勇気の奇妙な同居生活は始まった。

 

 同居生活といっても、相手は幽霊で食べないしトイレも行かない。話しかけなければ部屋の隅でじっとしていた。

 退屈じゃないのかと聞けば、何もしていない時はぼうっと気持ちごと、本当に消えているそうだ。だから、時間の感覚は曖昧らしい。

 

 俺は勇気と弟の名前を検索してみた。

 別に意味はなかったが、同居している幽霊がどうなったのかを知りたいと思うのは当然じゃなかろうか。墓があるなら、花ぐらい添えたいとも思うし。

 

 しかし、どちらの名前も出てこなかった。もし、弟が捕まっているなら名前が出ているはずだ。

 

「引っかからないな……まさか、まだ遺体が見つかってないとか?」

『それはないと思います。あれからもう1ヶ月も経ってますし……家賃滞納してて、すぐにでも明け渡すように言われてたんで……』

 

 この時期の遺体がそのまま放置されて1ヶ月……まあ、匂いやら、アレやらで、見つからないとは思えない。

 本人を目の前にして申し訳ないが、想像してしまった。

 

「じゃあ、生きてる可能性は?」

『どうでしょう。……どこかに捨てたとか、処分したとか? ……ああ、でも、あの雑な弟が一人でそんな面倒なことはしそうにないし。……協力者がいるとは、もっと考えにくいですね……』

 

 うーん、と勇気は考えている。

 

「それじゃあ、警察に行ってみるか。教えてくれるかはわからないが」

『お手間をおかけします。……でも、本当にいいんですよ。知ったからって、どうなる訳でもないし』

「だって、いつまでもこのままって訳にはいかないだろ? 迷惑とかは考えなくていいけど、ずっと幽霊のままでこっちにいるのか?」

『それは、たしかに、わかんないですけど……』

 

 死んで幽霊になってしまったことに、勇気はあまり絶望していない。

 正直、生きている時の方がずっと辛かった。

 もしずっとこのままだと言われても、それでも構わないと思うほどに、現実から逃れられたことに安堵していた。

 だから、しばらくはこの家に厄介になって、邪魔になったら出ていこうと思っている。幽霊なんだから、どこにいたって構わないだろう。

 

 なのに。

 

「やっぱ成仏できるのが、一番いいんだろうな」

 

 どうして、この人は見知らぬ幽霊に優しくしてくれるんだろう。

 

「付き合いのある坊さんにでも聞いてみるか……葬式とか、四十九日とか、いろいろあるし……あ、宗教で違うんだっけか?」

『そういうのも、詳しくないんで……』

 

 まるで自分の身内のことのように真剣に考えてくれる矢島に、思わず笑顔が浮かんでしまった。

 

 

 

 

 

 それからの数日間、矢島は仕事が忙しくて、帰宅はいつも深夜になってしまっていた。

 それでも、無精してシャワーで済ませるなんてことはしないで、きちんと入浴を楽しんだ。多少、睡眠時間が減っても、しっかり入浴することが質の良い眠りに繋がるのだ。

 

 そして、幽霊の勇気も一緒に入浴している。

 勇気は、「幽霊なので、風呂はいいです」と言うが、風呂好きの矢島にしてみれば、入浴できるチャンスを逃すなんて考えられない。しかも、服は一瞬で脱げるし、風呂上がりも体を拭く手間がない。それら含めた全てが入浴のルーチンだとは思うが、正直、時間のない時は羨ましかった。

 

 

 

 

 

 そんなこんなで、やっと休日が来た。

 

 まず、矢島は勇気から聞いた住所の家に出かけた。

 古いアパートの郵便ポストは、ちらしやDMなんかで一杯になっていた。中には督促状と思われる郵便物も見受けられた。そして、玄関ドアには何枚もの紙が貼り付けられていた。そこには「金返せ!」「泥棒!」などの罵詈雑言や「金利の見直しをしますので、事務所まで」などと書かれていた。

 

 張り紙に触れないようにして、そっとドアポストから中を窺う。

 

(……悪臭はしていない)

 

 ということは、遺体が放置されてはいないということだ。

 まあ、見たところ、扉は薄くてドアポストにも隙間がある。悪臭があれば、すぐに気づかれるだろう。

 

 俺はアパートの壁に貼ってある管理会社へと電話をした。

 

 

 

 

 

「ただいま」

 

 我が家に帰宅すると、時刻は夕方だった。駅前で買ってきた牛丼セットを手に部屋に上がる。

 

『おかえりなさい』

 

 リビングから勇気がひょっこりと顔を出す。

 幽霊なんだから、普通は立派な恐怖シーンのはずなのだが。勇気に悪意がないからか、全く恐怖は感じない。慣れって怖いな。

 

「良いニュースだ! 勇気、お前生きてるぞ」

『ええっ!?』

 

 俺の言葉に勇気が目を丸くする。

 

「歩き回ったから腹ペコだ。話は食いながらでいいか?」

『……もちろんです』

 

 テーブルの上に牛丼の特盛と豚汁、そして大量の紅生姜を並べていく。熱々のうちに食べようと考えていたら、勇気の浮かない顔に気づかなかった。

 

 

 

「……それで、管理会社に連絡したら、すぐに『山口さんは入院中です! 借金はこちらではどうにも出来ません!』って言われてさ」

『そ、それは、すみません……』

「いや、俺もそれに便乗したんで、おあいこだ。じゃあ、入院先はどこだぁ? 嘘だったら、そっちの事務所行くがぁ? って行ったら、教えてくれたよ」

 

 矢島はバクリ、と大口で牛丼を含んで咀嚼する。

 口の中に物が入ってる状態では話さない矢島を見て、きちんとした育ちなんだろうな、と勇気は思った。

 

「それで、さすがに今日は面会時間を過ぎてるから戻ってきたんだが、明日行ってみないか?」

『え……』

 

 勇気は戸惑った。

 生きている、と言われても実感がないのに、自分の体が入院している場所へ行く?

 

『…………』

 

 返答できないで黙っていると、矢島が顔を覗き込んできた。

 

「どうした? ひょっとして弟と出くわすかもって心配か?」

『いえ……』

 

 幽霊だから、会ったところで何もできないだろう。

 そうじゃなくて、怖いのは……

 

『俺、生き返りたくない、……かも』

「え……」

 

 今度は矢島が絶句する。

 そんな矢島の顔に、自分の言った言葉の意味に気づいた。

 

『あ、いえ、その……』

 

 思わず口を突いて出た言葉。

 意識していなかったけど、きっと本音だ。

 

 死んだ、と言われて、安心していたのは確かだから。

 

「慌てなくていい。ゆっくりと、落ち着いて」

 

 こんな時にも矢島は優しい。

 苦労して居場所を掴んできたのに、それを拒否する俺を責めない。

 

『……生き返っても、苦しいだけだから……』

 

 だから、素直に心情を吐露した。

 

 その言葉に、矢島は苦い顔をした。しかし、やはり責めはしない。安易な慰めもしない。

 ただ、じっと俺の話を聞いて、何かを考えている。 

 

「……わかった。とりあえず、明日は俺ひとりで行ってみる。状況を確認してからじゃないと、解決策も見つからんしな」

『解決策……?』

 

 まさか、そんなことを考えているなんて。

 解決って、何を? 借金? 弟?

 生きてる時に、あんなに頑張っても詰んでしまったのに?

 

 勇気が戸惑っている間に、矢島はゴミを片付け、給湯ボタンを押した。

 

 

 

 

 次の日。

 矢島は管理会社から聞いた病院にいた。

 

 山口勇気の名前を出すと、受付は「面会謝絶でご家族しか会えません」と伝えてきた。

 

(ビンゴだな)

 

 矢島は礼をして、受付から離れた。

 とはいえ、普通の総合病院だ。エレベーターに見張りがいる訳じゃない。

 

 一旦、建物から出て、しばらくしてから当たり前のように受付前を通っても、忙しく働いている職員は矢島に目線もくれなかった。

 上階にある入院病棟のナースステーションで「親戚です」と伝えると、あっさりと部屋番号がわかった。嘘を言っている罪悪感はあったが、この場合は仕方がないと割り切ることにした。

 

(ここか)

 

 面会謝絶の札は掛かっているが、鍵が掛かっている訳じゃない。

 力を入れずとも、扉はスッと開いた。

 

 ピッピッピッピッピッ……

 

 規則正しい機械の音。

 

 室内はカーテンが引かれて薄暗かった。

 僅かな隙間から差し込む光がほこりを白く浮かび上がらせている。

 枕元にあるモニターが心臓の動きに合わせ、緑色の波形を描いて光っている。

 

 一歩近付いてみると、腕からは何本もの細い管が伸び、傍らの機械が小さなモーター音を立てながら、生きるための薬剤を彼の体へと送り続けているのが見えた。

 

(嘘だろ……こんなに痩せて……)

 

 幽霊の勇気も細いが、そんなもんじゃない。

 人工呼吸器を付けた頬はこけ、腕が枯れ枝のように細い。肌にはいくつもの皺が走り、まるで老人のようだ。

 

「…………」

 

 あまりの衰弱ぶりに絶句していると、ノック音とともに看護師がやってきた。

 

「失礼します。山口さんのご親戚の方ですよね?」

「あ、はい。矢島と言います」

「良かったです。身内の方との連絡が取れなくて。もしご存知でしたら、矢島さんから連絡をお願いしてもよろしいですか?」

「あ、はい。でも、彼の身内というと弟しかいないと思うんですけど、あいにく行方知れずで……」

 

 勇気から聞いた情報を、さも困っている風に話すと、看護師は、ハア、と息をついた。

 

「矢島さんは、山口さんとは親しかったんですか?」

「ええ、まあ、はい」

 

(幽霊とはいえ、同居してるんだから、嘘じゃないよな)

 

「申し訳ないですが、入院の保証人になっていただけませんか? もちろん義務ではありませんが……」

「あ、ええと、……はい、構いません」

 

 そう言うと、看護師はホッとして、表情が柔和になった。

 

「……本来なら、ご家族さんにしかお話できないんですけど、山口さんの病状について、医師からの説明を聞かれますか?」

「可能でしたら、ぜひ」

「では、医師に伝えてきますので、また呼びにきます」

 

 そう言って、看護師は部屋を出て行った。

 

「はあ……」

 

 もう一度、眠る勇気の顔を見る。

 やはり、生気のない顔は、幽霊の勇気と同一人物だとは思えない。

 

(連れてこなかったのは正解だったな。自分のこんな姿を見たら、ますます生き返りたくないとか思っちまうかも)

 

 素人の矢島が見ても、衰弱ぶりが半端ない。

 あまり時間はないのかもしれないと、じわりとした焦りが湧き上がってきた。

 

 

 

 一時間ほど病室にいると、先ほどの看護師が呼びに来た。

 連れて行かれた先は、外科の診察室だった。

 

「山口さんの担当医の真坂です」

 

 そう名乗った年若い医師の前にある縦型2つのモニターには、脳の断面図が映し出されていた。

 

「今のところ、脳に異常はありません。救急で運び込まれた時にあった頭部の裂傷と、全身の打ち身や擦り傷は完治しています」

 

 淡々とした説明が、当時の惨状を想像させた。

 腹の底から湧き上がってくる怒りを矢島は拳を握って耐えた。

 

「じゃあ、今も昏睡状態なのは……」

「正直、原因不明です。とっくに意識を回復してもおかしくないんですが……検査には引っかからない異常があるのかもしれません。……ですが、専門の病院に移送するにも、衰弱が酷くて」

「かなり痩せてましたね……」

「元々細い患者さんでしたしね。……しかし、この状態だと、異常が見つかっても手術に耐えられるとは思えないんですよ。それに、判断を仰ごうにもご家族とは連絡が取れなくて」

「それは、……申し訳ありません」

「病気云々の前に、このまま目覚めないと、衰弱死という可能性もあります。もちろん、全力は尽くしますが」

 

 医師の説明を聞き、これからどうするかは帰って家族と相談しますと告げ、矢島は病院をあとにした。

 

 

 

 

『転院なんていいです! むしろ、入院なんて勿体ない!』

 

 病院での状況を説明したあとの勇気の返答はこうだった。

 

『もう、回復は無理そうなんでしょう? だったら、その呼吸器とか、点滴とか外してしまったらいいのに!』

 

 あまりの勢いに、矢島は口を挟めない。

 

『死んだと思って安心してたのに……! これ以上矢島さんに迷惑はかけられない! 俺、ここを出ていきます!』

「待てって。出ていって、どこに行くつもりだ?」

『幽霊なんですから、どこだっていいんですよ!』

 

「生きてるから、幽霊じゃない!」

 

 矢島が勇気よりも大きい声を出した。

 一瞬、勇気がビクリと体を震わせた。

 

「あ、悪い。大声は怖いよな」

『いえ……』

 

 そう言いつつも、勇気の声は一気にトーンダウンする。

 

「俺は、お前に生きていて欲しいよ。そんで、旨いもの食って、最高の風呂に入って、安心して眠って欲しい」

『…………』

 

 勇気は俯いて何も言えない。

 

「そんで、ちゃんと幸せになって欲しい」

『なんで……』

 

 勇気がゆっくりと顔を上げる。

 

『こんな、借金まみれの幽霊なんて、助けたって、なんの得にもならないのに……』

 

 その問いに、今度は矢島の目が泳ぐ。

 それから、意を決したように告げた。

 

「俺が、お前に生きていて欲しいと思ってるから。それじゃ理由にならないか?」

 

『…………』

 

 勇気は大きく目を見開いたあと、顔を伏せた。

 

『う……ぐすっ、……うう……』

 

 ぼたぼたと涙がカーペットに落ちる。

 それは染みにならずに、そのまま消えていく。

 

「金の問題なら、俺が何とかする。心苦しいと思うなら、いつか返してくれればいい。とにかく、生きてりゃどうにでもなる」

 

『えぐっ、……グスッ、ううう……、ぐすっ』

 

「だから、俺のために、生きてくれないか?」

 

 勇気の肩が震える。

 

『ひぐっ、……そ、そんな、信じられない……』

 

 今まで生きてきて、そんな優しい言葉をかけられたことはない。

 両親だって、弟のことばかり心配して、自分には我慢ばかり強いてきた。それでも家族が揃っていれば幸せだと思っていた。それを失ったから、生きる希望なんてなくなったのに。

 

「俺だって、ビックリだ。……これは、たぶん、あれだ……」

 

 その時、勇気の体がブワッと多重写しのようにブレた。

 

『い”……っ!』

 

 勇気が苦痛の声を上げる。

 

「ど、どうした!?」

『ぐ、ぐるじ……』

 

 勇気が喉をかきむしるような仕草をする。

 その姿がどんどんと透けていく。

 

「勇気! 大丈夫か!?」

『あが、がが、……が、……』

 

 フウッとかき消されるように、勇気が消えた。

 そこには最初から誰もいなかったように、矢島だけが立っていた。

 

「まさか……!」

 

 矢島はひとつの可能性に気づいて、玄関に走る。

 

(この時間、幹線道路は混雑してる……! タクシーを拾うより、自転車だ!)

 

 階段を駆け下り駐輪場に着くと、矢島は愛用のママチャリの鍵をもどかしそうな手つきで解錠した。

 

 

 

 

 

 ピッピッピッピッピ……

 

「やっと、見つけたぜ……アニキ……」 

 

 機械の音しかしない病室で、憎悪のこもった声音が響いた。

 その人影の手には、人工呼吸器のマスクが繋がったチューブが握られている。

 

「お前がしっかり返済しないから、俺にメーワクが掛かってんだよ……わかってんのかよ、クソアニキ……」

 

 看護師に気づかれたらマズいのはわかっているのか、その声は押し殺したものだ。しかし、目つきは狂気を帯びて、ギラギラとモニターの光を反射している。

 

「親父もお袋も死んだ。お前ももう役立たずだ。ったくよお……不甲斐ない家族ばっかりで、俺も貧乏くじ引いたと思わねぇ?」

 

 そう言いながら、啓太は勇気に付けられた機械やチューブをむしり取っていく。

 

「せめて、最後に俺の鬱憤を晴らしてくれよ。アニキ」

 

 ピッピッ、ピッ、ピッ、ピッ…… 

 

 モニターの波形が乱れ、途切れそうになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

「くっそー! どけどけぇ!!」

 

 矢島は夜の繁華街をママチャリで疾走する。

 贅沢をしない矢島は車もバイクも持っていない。普段の買い物にも、ちょっとした外出にも役立つ、頼りになる相棒を全力で駆る。

 

「悪い!」

 

 あまりの勢いに、何事かと振り返る歩行者のギリギリとすり抜けると、スリかと警戒してバッグを両腕で抱える中年男が視界の端に映った。

 

(あと、少し……!)

 

 人通りの多い道を避け、裏通りを走る。邪魔な通行人がいれば、大声で叫んで避けてもらって、少しでも早く、早く……!

 

 ガシャン! 勢いよくスタンドを立て、病院の夜間出入り口に走る。

 

 廊下は消灯され、僅かな照明と非常口を示す緑の誘導灯の灯りだけが廊下を照らす。

 

「あ、おい、キミ! どうした?」

 

 走っているからか、通りがかった警備員に見咎められた。しかし、止まる筈もない。

 

「危篤なんだ! 通してくれ!」

「わ、わかった」

 

 矢島の鬼気迫る勢いに、警備員が躊躇する。エレベーターは一階にあったので、ボタンを押して乗り込んで、すぐに閉じるボタンを連打する。遅い。

 

「……危篤なのに、ICUじゃないのか?」

 

 警備員が鋭いところに気がついたが無視した。

 

 

 

 

「大体、俺は昔から、アニキが大っ嫌いだったんだ……」

 

 ひゅー、ひゅー、ひゅーと、勇気の気管から空気が漏れる。

 苦しそうに眉間が寄っているが、意識が戻る気配のない首に、啓太は手を回した。細い首は啓太の力で簡単に折れそうだ。

 

 ぐっと力を入れて、数秒。

 このまま血流を止めれば、まさに赤子を捻るより簡単に兄は死ぬ。

 

「ふ、ふふ、はははっ」

 

 頬がこけ、唇はひび割れ、まるで死人だ。

 それが、酸素を求めて、口をぱくぱくとさせている。それが命乞いに見えて、啓太の気分はアガる。

 

『ふふふ、くくくっ』

 

 そんな啓太の耳に、自分のものじゃない笑い声が聞こえた。

 

(誰かいる……っ!?)

  

 勇気の首を締めていた手を離し、周囲を見回す。

 今さら、捕まるのが怖い訳じゃないが、“敵”なら倒さないと。

 啓太はポケットから使い慣れたナイフを取り出した。動けない死にぞこないは後回しでいい。

 

『放っておけば死ぬのに、わざわざ殺しに来るなんて、本当に馬鹿だなぁ』

 

「は……」

 

 脳に直接届くような、聞き覚えのある声……いや、でも、そいつは、今、目の前に……

 キョロキョロと周囲を見渡すが誰もいない。

 

「ど、どこだっ」

 

 啓太はゾッとした気持ちを奮い立たせるようにナイフを構えた。

 

『怖いの……?』

 

 キラッと外が光った気がして、啓太は窓に目を向けた。

 

「……っ!!!」

 

 全て開け放たれたカーテン。大きなガラス窓。

 

 その窓一面に、巨大な兄の顔が映っていた。

 

『はは、ははは……そんな顔、久しぶりに見たなぁ』

  

 笑みの形の口から、どろりと血が溢れ出す。

 額から、目から、ドロドロと血が溢れ、現実との境目である窓枠を越えて、血が足元にまで迫る。

 その間、啓太は目を見開いたまま、一歩も動けない。 

 

『もっと早くに、こうしていれば、良かったんだ。そうすれば誰にも迷惑なんてかけずに済んだのに……』

 

 血まみれの手が、窓から啓太に向かって伸びてきた。

 それは何本も、何本も、絡め取ろうと、床からも壁からも、伸びてくる。

 

「止めろっ!!!!」

 

 啓太はここが病院であることも忘れ、大声で叫んだ。

 その勢いで、兄の顔が映る窓ガラスを殴りつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ポーーーン……

 

 エレベーターの扉が開く時間を待つのももどかしく、矢島は僅かに開いた隙間にねじり込むようにして、外に出た。

 それに警備員も付いてくる。

 

「何事ですか?」

 

 俺と警備員の姿を見て、当直の看護師が驚いた声を出す。

 

「いや、この人が危篤だって……」

「危篤? 誰が……ちょっと!」

 

 看護師と警備員が話しているのを横目に病室に向かう。

 が、さすがに甘かった。

 俺の腕は警備員にがっしりと掴まれていた。

 

「俺は、山口勇気の保証人だ! あいつが危ないんだ! 行かせてくれ!」

「どういうことですか? 山口さんに異常はありません!」

 

 一瞬、警備員を殴ってでも先に行こうかと考えたが、さすがはプロ、完全に俺の動きを抑え込んでいる。

 

「だったら、顔だけでも見せてくれ! それが無理なら、あんたが様子を見てきてくれ!」

 

 その時、

 

「止めろっ!」

 ガシャーンッ!

 

 どこかの病室から聞こえた。

 

「え? 今の……」

 

 看護師と警備員が一瞬顔を見合わせた。

 その瞬間、僅かに緩んだ力を見逃さず、矢島は勇気の部屋に向かって走った。

 

「あ、こら!」

 

 すぐに追いついてきた警備員に部屋の前で、再び確保された。

 

「看護師さん、良いから、勇気の様子を見てくれ!」

「もう、仕方ないわね……」

 

 矢島が動けないことを確認して、看護師が病室の扉を開けた。

 

「え……!?」

 

 まず目に入ったのは、床に散乱するチューブや医療器具だった。

 そして、夜中の病室にいるはずのない男の背中。

 

「あなた、誰ですかっ!? 何やってるのっ!?」

 

 看護師の悲鳴に近いような声が響くが、後ろ向きの男は肩で息をして興奮しているのが見て取れる。

 

「警備員さん、あれ、看護師さんが危ないですよ。俺は動かないですから、助けに行った方が」

「あ、ああ」

 

 警備員は一瞬だけ迷ったが、どちらが緊急性があるかは一目瞭然だ。

 

「危ないです。後ろに下がって」

 

 看護師の肩を叩いて、警備員が前に出る。

 キラリと、手元が光ったのが見えた。

 

「警備員さん、気をつけて、そいつ何か持ってる」

 

 俺の言葉に黙って頷いた警備員は、腰に下げた警棒を手に持った。

 

「山口さん、しっかりして……っ」

 

 看護師は慌てて勇気の呼吸を確認している。

 俺も勇気が心配だったが、できることはない。それより目の前の男を見張ることに集中する。

 

(ん……?)

 

 よく見ると、男の脚が震えている気がする。……何だか、重心がおかしくないか?

 

「……た、す、け」

 

 男が小さく呟いた。

 ズルっと、男が一歩、窓に近付いた。

 

 派手に割れた窓ガラスがチャリ、と音を立てた。

 

「い、や、……うぁあ……」

 

 男がガラスのない窓へと手を伸ばす。

 

 次の瞬間。

 まるで何かに引っ張られるかのように男の体が窓枠に乗り上げた。

 

「あっ、あっ、いやだっ、あっ、あああああーーーーっ!!!」

 

 そのまま、人の挙動とは思えない動きで、男の体は窓の外に飛び出した。

 

「「えっ?」」

 

 俺と警備員は同時に声を出した。

 

 ドスンッ!

 

 鈍い音が階下から聞こえた。

 

 何が起こったかわからず、警備員とふたり、呆然としてしまった。

 しかし、すぐに正気に戻った警備員は窓の外を確認しに行った。

 

 俺は、勇気の側にいって、看護師さんに指示を仰いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 生命維持装置を外された上に首を締められた勇気は、一度は心拍が停止するほどの危篤状態に陥った。

 しかし、看護師の適切な処置と医師の賢明な治療によって、何とか持ち直し、命を繋いだ。

 そして、その数日後、勇気は奇跡的に意識を取り戻した。

 

 勇気を殺そうとした犯人の正体は、勇気の弟、山口啓太だった。

 啓太は、勇気の生命維持装置を外したあと、自分で割った窓から飛び降りた。そのまま地面に倒れているのを警備員が発見し、緊急手術となった。

 こちらは命に別状はなかったものの、最終的に下半身不随という診断が下りた。

 そして、後日行われた薬物検査の結果、啓太から覚醒剤の反応が出た。

 

 啓太は殺意を認めながらも、兄の勇気が幽霊になって呪い殺そうとしただの、窓の外へと放り出されただの、意味不明な陳述を繰り返しているそうだ。

 それを薬物のせいで幻覚を見たんだろうという診断が下りたそうだが、罪が軽くなったら困る。

 ただ、啓太は行方不明だった期間に、ヤクザのところで世話になっており、いろんな犯罪に手を貸していた。そのせいで余罪はたっぷりとありそうだ、と刑事が腕を鳴らしていた。

 

 そして、勇気が意識を取り戻してから約2ヶ月半。

 ようやっと、退院の日を迎えた。

 

「もう、すっかり元気になったな」

「うん、病院の人たち、みんな優しくて甘えっぱなしだったよ」

 

 勇気は手に小さな花束を持っていた。何でもリハビリ中に仲良くなった人たちからもらったそうだ。

 

「でも、本当にいいの?」

「ん? なにが」

「その、矢島さんにお世話になって……」

「何を今さら。俺が身元引受け人になったから退院の許可が出たんだぞ? そこからひっくり返す気かよ」

 

 病院前に止まっているタクシーに乗り込み、自宅の住所を告げる。

 

「でも、俺、何の役にも立たないし。お金だって……」

「あーもー、入院中に何度も話しただろ。借金は弁護士に頼んで整理してもらったって。入院費用はソーシャルワーカーがちゃんとしてくれたから、支払ったのは現金支払いの分だけだっての」

 

 勇気は口をへの字にして、納得していない様子だ。

 

「だって、そんな簡単に……信じられないよ。ずっと苦労してきたのに」

「まあ、ご両親が弟さんを更生させたかったんだろうな」

「それは、……うん、そう」

「自分たちが苦労しているのを見れば、いつか心を入れ替えてくれるってな。でも、現実、そんなことは滅多にないんだけど、身内だと、どうしても期待しちまう。甘いって言えばそうかもだが、気持ちはわかる」

 

 矢島の話を聞きながら、勇気は複雑な気持ちになる。

 

「でも、もし弟がまともだったら、ってどうしても考えてしまいます。矢島さんにも迷惑かけなくて、済んだのにって……」

「タイムマシンでもなけりゃ考えたって仕方ないことだ。忘れろとは言わないけど、今後に生かすくらいしかないだろ」

「前向きで羨ましいです……」

 

 道が空いていたこともあって、タクシーはすぐにマンションに到着した。

 

 

 

「ただいまー」

 

 無人の家に向かって矢島が言う。

 

「お前に、おかえりなさい、って言われたのが、嬉しくてさ。つい言っちゃうな」

 

 勇気の視線に気づいた矢島が照れくさそうに笑う。

 

「俺も言いますよ。……特にこの家では」

「まあ、今日からはお前の家だしな。元実家が、自分の家になるって、どんな奇遇だろうな」

「本当ですよ」

 

 あの頃、頼れる大人が周りにいなかった。

 家族でいるために、その形が幸せだと必死で守ってきた。その頃の記憶が蘇ってくる。

 

「ええと、とりあえず、この部屋がお前の部屋な」

 

 矢島が指定してきたのは、以前にも勇気の部屋だった場所だ。

 そこには、借家に残してあった荷物が置かれていた。

 

「どれを処分するとか、わからなかったから、あとはまとめてトランクルームに放り込んである。また休みの日にでも整理しに行こう」

「……はい!」

 

 使い慣れたベッド、タンス。それらがちゃんと部屋に入っていた。

 配置なんかは違うけど、それでも自分の部屋がそこにあった。

 

「前の部屋からの荷物の引取りまでお願いしてしまって……本当にすみません」

「いいよ。その代わり適当だから、荷物がごっちゃになってたら悪い」

 

 正直、家財はもちろん、親の遺品なんかもとっくに諦めていたから、ここまでしてもらって、申し訳ない……は、もう言わないでおこう。

 これから、ちゃんと返していくんだ。

 じんわりと暖かい気持ちが広がっていく。本当に、ここが俺の場所なんだ。

 

「さ、病院じゃゆっくり風呂も入れなかっただろ? 早速最高の風呂に入らないか? それともメシが先か?」

「ええっ、お風呂ですか?」

「風呂好きじゃないのか? 花男くん」

「そ、それは忘れてください……」

 

 矢島は返事も聞かずに、給湯ボタンを押す。

 

『お湯はりをします。お風呂の栓は閉じましたか?』

 

 聞き慣れたアナウンスが流れる。

 

「んもー、本当に矢島さんは風呂好きですねぇ」

「そりゃあ、風呂のためだけに、リフォームしたんだもんよ」

「まあ、ここのお風呂は広くて、綺麗で、気持ちいいですけどね!」

「だろ!」

 

 矢島は勇気の手を引いて、脱衣所の棚を開ける。

 

「さ、今日は退院祝いだ。好きな入浴剤を選んでいいぞ」

「ふふっ、それは素敵ですね」

 

 勇気はずらっと並ぶ入浴剤を眺めた。

 

「あ、これがいいです」

 

 勇気が手に取ったのは、小判の形をした入浴剤だ。

 

「縁起がいいです! 俺、頑張ってお金稼げるようになりたい!」

「ははは、じゃあ、それにしよう」

 

 矢島は入浴剤と着替えを籠の中に放り込んだ。

 

「ほら、着替え取ってこい」

「はい!」

 

 足取り軽く、新しい部屋へと向かう勇気を見て、矢島の口元が緩む。

 

「いや、ホント、デカい風呂にして良かったわ」

 

 気の合う人と、一緒に風呂に浸かる。

 これ以上の幸せがあるだろうか。

 

「お待たせしました!」

 

 勇気が着替えを持って浴室に戻ってきた。

 

「なんか、変な感じですね。ずっと住んでた家で、幽霊の時にもいて、今またここにいるなんて……」

 

 勇気が入浴剤のパッケージを剥がしながら、しみじみと呟いた。

 

「まあ、貴重な体験だと思うぞ。俺も、生霊と一緒に風呂に入った経験はなかったしな」

 

 ちゃんらら、ちゃんらら、ちゃんらららら~♪

 

「「おおっ」」

 

 つい、二人同時に声が出た。

 

『お風呂がわきました』

 

「よし、入るぞ!」

「はい!」

 

 勇気は浴槽にバスボムを入れてかき混ぜてから、服を脱いだ。

 

「よし、ちゃんとメシは食ってたんだな」

「太りました?」

「いーや、まだまだ太らないと、いざって時に攻撃力が足りないからな」

「そうですね!」

 

 二人は顔を見合わせて笑いながら、かけ湯をする。

 矢島のこだわりは生霊としてこの家にいた時から知っている。見様見真似ではあるが、勇気も丁寧にかけ湯をした。

 

 ザバーッ

 

 同時に入ると、お湯が溢れた。

 シュワシュワと入浴剤の泡が立ち上がってきて、良い匂いがする。

 

「ううーーーん……確かに気持ちいいですぅ、はふぅ♡」

「だろう?」

 

 矢島が満面の笑顔で湯を顔にかける。

 

「俺は、これさえあれば生きていけるからな」

「矢島さん」

 

 勇気が真剣な顔で見つめてくる。

 

「俺、絶対に恩返ししますから! それまで待っててくださいね」

 

 そんな勇気に矢島は苦笑する。

 

(いや、もう返してもらってるようなもんだけど……)

 

 矢島に取って、快適な風呂は人生の全てだ。

 

 そして、その中には“勇気”という存在も、既に組み込まれてしまっているのだ。

 

「まあ、無理すんな。返済期限は、俺が死ぬまででいいや」

「また、そんな縁起でもないこと言わないでくださいよ!」

 

 ぷりぷりと怒る勇気に「悪い」と謝りながら、

(そういや、こいつ、最初はずっと泣いてたなぁ)

 と感慨深く思う。

 

 怒って、笑って、随分と表情が豊かになった。

 

 うちの「お風呂の花男さん」は、これから幸せになっていく。

 そのためなら、いくらでも力になろう。

 

(できれば、ずっと側で守ってやりてぇな……なんて、柄じゃねぇか)

 

 矢島は鼻をかきながら、苦笑した。

 

 

 

 

 

 

 

END

 

お読みくださり、ありがとうございました!

 

 

冒頭約1,000字共通のパラレルSIDE:Bがあります。

よろしければ、シリーズリンクからどうぞ。

(独立してますので、読まなくても大丈夫です)

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