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ドアマット令嬢と罵られた幼女の三年後

作者: 夜明け前
掲載日:2026/04/20

「知っている?貴方は巷ではひっつき虫と呼ばれているそうね、死んだ母親をいつまでも想い続ける哀れな邪魔虫よ!」


私の義姉リラ・マナペンストは屋根裏部屋から許可もなく出てきた私によく言葉を浴びせた。


私の名前はエルゼ。


マナペンスト子爵家の前妻の娘として生まれ、今年で十二歳になった。


――母が三年前に病で逝き、半年も経たぬうちに父は新しい妻を迎えた。


後妻にはリラという十四歳の娘がいて、それからというもの私の生活は一変したのだ。


私室を剥奪され、食事の席から外され、今では屋根裏の物置部屋が私の居場所となっている。使用人たちはとうに入れ替わり、古い顔はひとつも残っていない。新しい使用人たちは後妻のご機嫌ばかりを伺い、私のことを見て見ぬふりをするか、時折嘲笑の目を向けてくる。


父親はといえば、私の名を口にすることさえ久しくなかった。


「ひっつき虫」というのは、この辺りの言葉で、蔓のように他人にしがみつく厄介な存在を指す。


リラはいつもそれを笑いながら言った。まるでその言葉が小石でも投げるような気軽さで。


けれど私は知っている。母は最後まで私の名を呼んでくれた。エルゼ、エルゼと、熱に浮かされながらも手を握ってくれた。その温もりが本当のことで、リラの言葉などは嘘だと。


……それでも、毎日繰り返されれば、心は少しずつ削れていく。


屋根裏部屋の小窓から、私はよく外を眺めた。通りを行く人々、荷車を引く馬、笑いながら走り回る子供たち。世界はちゃんと回っているのに、私だけが切り取られたように、ここに閉じ込められている。


あの日は、朝から後妻の機嫌が悪かった。


朝食の片付けを言いつけられた私が、うっかり皿を一枚割ってしまった。それだけのことだった。


後妻は椅子を蹴って立ち上がり、私の頬を打った。


一度。二度。


リラはその後ろで腕を組みながら、退屈そうに爪を眺めていた。

父は書斎に籠もっていて、物音すら立てなかった。


「役立たず!この屋敷の空気を吸う資格もないくせに!」


後妻が怒鳴る。


「お母様の言う通りよ」とリラが欠伸交じりに付け加えた。


「ひっつき虫って、踏みつけてもなかなか死なないものね」


私は頬を押さえながら、じっと俯いていた。


泣かなかった。


泣けば余計に殴られると知っていたから。それだけじゃない。泣く気力も、もうほとんど残っていなかった。


屋根裏部屋に逃げ帰り、埃っぽい毛布に包まって膝を抱えていると、ふと窓から一羽の鳥が飛んでいくのが見えた。茶色い小さな鳥が、青い空へ向かって、まっすぐに。


その瞬間、何かが胸の中ではっきりと音を立てた。


……なぜ、私はここにいなければならないの?


物語の中の良い子は、救いが来るまで耐え忍ぶ。


祖父母が迎えに来るまで、王子様が現れるまで。でも私には迎えに来てくれる祖父母もなく、王子様など夢物語の話だ。父方の祖父母はすでに亡く、母方の祖父母とは父が縁を切ってしまっていた。


それでも人間というのは懲りない生き物で、私は何度も指折り数えた。助けてくれるかもしれない人を。近所の人は? 父の知人は? 教会の人は? 数えるたびに、指はすぐに折り尽きた。


その日の夕食は、にんじんの皮と玉ねぎの外葉が沈んだ、薄い薄いスープだった。


厨房の隅で、冷めたそれを木の椀で受け取る。使用人たちは渡しながら目も合わせない。侍女頭はもうすでに背を向けていた。スープの表面に、小さな油の粒がひとつだけ浮いていた。


屋根裏部屋まで、こぼさないように運ぶ。


それが今日の夕食だった。昨日も一昨日も、たぶん明日も、同じだ。


毛布にくるまって椀を両手で持つと、少しだけ温かかった。飲み干すのに時間をかけた。そうすれば、長く温かさが続く気がするから。


外では風が鳴っていた。冬が近い。去年の冬、寒さで夜中に何度も目が覚めた。


毛布を頭まで被って、母の子守唄を口の中で繰り返した。声に出すとリラに笑われるから、いつも声には出さない。


椀の底に、にんじんの皮がへばりついていた。

指で剥がして、口に入れた。


誰も来ない。


ならば、私が出て行くしかない。


決意した時、恐怖より先に清々しさが来たことを、今でも覚えている。


その夜、私は行動した。


屋根裏部屋に残っていた母の形見は、小さなロケットペンダントひとつ。それだけを胸に忍ばせた。


深夜、家人が寝静まったのを確かめた。


勝手口は頑丈に閉ざされていた。この体では、外に出られない。


私は喉元から込み上げてくる苦い汁を飲み込んで、意を決した。


部屋の隅にあった古い木箱を持ち上げ、小窓へ向かって思い切り投げつけた。


ガッシャーン、と窓ガラスが砕け散った。


冬の夜気が、一気に流れ込んでくる。


私は割れた窓枠に手をかけ、身を乗り出した。


「助けてください」


最初は、声が震えた。


「助けてください。誰か、助けてください」


でも構わなかった。震えたまま、続けた。


「私はエルゼ・マナペンストです。この屋敷の子爵の娘です。毎日殴られています」


隣の家に、灯りが点いた。


「後妻のキャサリンに、今日も頬を打たれました」

「熱湯を頭からかけられたこともあります」

「背中に、火傷の痕があります」


通りの向こうで、誰かが窓を開ける音がした。


「義姉のリラに蹴られています。髪を引っ張られています。廊下に何時間も正座させられます」


屋敷の中が、騒がしくなってきた。


「食事は一日一度だけです。使用人の食べ残しのスープだけです」

「熱を出して三日間倒れた時も、誰も来ませんでした」


後妻の金切り声が聞こえた。


「やめなさい! やめなさい!」


リラの泣き声も続く。


「ひどいわ、ひどいわ! 私のお嫁入りが!」


私は構わず続けた。


「父親のマナペンスト子爵は、全部知っています」

「知っていて、何もしません」

「半年以上、私の名前を呼んでいません」


父の怒鳴り声が廊下から響いた。


「やめろ! 降りてこい!」

「父親が怒鳴っています」


私は夜の闇に向かって、そのまま言葉を続けた。


「半年ぶりに声をかけてもらいました」


通りに、人影が集まり始めていた。

まだ叫ぶことは山ほどあった。

警ら隊が来るまでの間、私は叫び続けた。





どれくらい経った頃だろう。

制服姿の男たちが、屋敷の前に立っていた。


「子供、聞こえるか。警ら隊だ。今から中に入る」


声が、夜の闇に響いた。


私はその言葉を聞いた瞬間、はじめて膝から力が抜けた。


しばらくして、扉が開いた。その手が、私の肩をそっと包んだ。


私はその温かさに、声もなく泣いた。泣きながら、何度も、洗いざらい話した。父の名前も、後妻の名前も、リラの名前も、全て。隠すことなど何もなかった。


隠す必要のある後ろめたいことを、私は何一つしていなかったのだから。


マナペンスト子爵家には翌日に捜査が入り、後妻と使用人数名が起訴された。父は不問にはならなかった。事件は新聞にも載り、しばらくの間はこの街の話題になったと後から聞いた。


私は養護施設に移り、その翌年、詰め所の所長夫妻に引き取られることになった。


所長夫人は、出会った日に私にそっと言った。


「あなた、ひっつき虫って呼ばれていたんですって?」


恥ずかしくなって俯きかけた私に、夫人はふわりと笑った。


「ひっつき草の種ってね、どんな場所にも根を張るのよ。岩の隙間でも、乾いた土でも。強い子じゃないと、ひっつき虫なんてやっていられないわ」


そう聞いた時、喉がからからになって無性に胸の奥が熱く疼いた。

目尻が濡れて涙が溢れると、私はわぁああぁんと大声で泣いたのを覚えている。


私はその言葉を、今も、母の子守唄と同じくらい大切にしている。





それから三年後、私は十五歳で幼馴染のレオンと式を挙げた。所長の屋敷の中庭で、夫人が縫ってくれた白いワンピースを着て隣に立った私に、レオンはぶっきらぼうに言った。


「緊張してる?」

「してる」

「僕も」


なぜか途方もなく嬉しくなって、空を仰いだ。

蝶が、快晴の空をひらひらと飛んで行った。所長が盛大に拍手をして、夫人がまたふわりと笑った。


エルゼ十五歳。根を張った場所で、ようやく花が咲いた。

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