気のせいじゃない
この物語は、「匂い」で世界を感じる少女の物語です。
彼女にとって、教室の空気は「雨上がりの匂い」であり、友達の機嫌は「レモンの匂い」であり、涙は「塩の匂い」です。言葉にすると少し不思議に聞こえるかもしれません。でも彼女は、いつも何かを確かに感じ取っています。ただ、それをうまく言葉にできないだけで。
あなたにも、きっと覚えがあるのではないでしょうか。理由は説明できないけれど、何かが「違う」と感じること。周りには伝わらず、自分でも「気のせいかな」と飲み込んでしまうこと。
この物語を読み終えたとき、あなたの中の「気のせい」が、少し違って響くものになっていたら幸いです。
・気のせいだと思った。
教室に漂う、かすかな塩の匂い。
五時間目の、あの眠たい空気の中で、私はそっと顔を上げた。
窓の外では桜の蕾がまだ固く閉じている。二月の終わりの、冷たい光。教室のみんなは先生の話を半分聞きながら、ノートに何か書いたり頬杖をついたりしている。いつもの午後。
でも、匂いがする。
塩の匂い。涙の匂いだ。
私はそっと首を巡らせた。誰も泣いていないように見える。隣の席も、前の席も、窓際の子も。みんな普通の顔をしている。
でも。
「……誰か泣いた?」
つい、口に出していた。
近くの席の何人かが振り返った。え、という顔。
「なに急に」
「いや、なんか……塩っぽいっていうか」
「塩って何。ここ海じゃないんだけど」
くすくすと笑いが広がる。またか、という空気。私はちょっとだけ耳が熱くなって、「ごめん、なんでもない」と小さく言って俯いた。
でもその直後、窓際の席の女の子が、そっと目元を拭ったのが見えた。
教科書で顔を隠すようにして、指先で涙を拭っている。
やっぱり。
私の鼻は、当たっていた。でもそれを「すごいね」と言ってくれる人はいない。「また変なこと言ってる」。いつもそうだ。
匂いで分かることを、どう説明すればいいのか、私には分からない。言葉が足りない。いつも足りない。だから変な子だと思われる。匂いの話をすると、みんなきょとんとする。「何言ってんの」って顔をする。
それに、万能ってわけでもない。人がたくさんいると匂いが混ざってぐちゃぐちゃになる。雨の日は水の匂いが強すぎて、他の匂いがぜんぶ流されてしまう。近くにいないと分からないし、体調が悪いときはぼんやりして何も感じ取れない日もある。
変な鼻。しかも、当てにならない鼻。自分でもそう思う。
だから……気のせいだってことにしておく。そのほうが、楽だから。
*
「今日の教室、雨上がりの匂い」
「みんな穏やかってこと?」
隣の席のゆかが、いつものように私の言葉を翻訳してくれる。
昼休み。教室の隅で机をくっつけて、お弁当を広げている。ゆかはきれいに詰められたおかずを箸で取り分けながら、私の匂いの話を当たり前のように聞いてくれる。
「うん、たぶん。でもちょっと湿っぽい」
「湿っぽいって、誰か落ち込んでるとか?」
「ううん、そこまでじゃない。なんていうか……曇りが晴れかけ、みたいな」
「はいはい、天気予報ね」
ゆかが笑う。呆れたような、でも嫌じゃない笑い方。夏目ゆかはそういう子だ。私が変なことを言っても、馬鹿にしない。「それってこういうこと?」って、ちゃんと聞いてくれる。世界で一人だけ、私の匂いの言葉を分かろうとしてくれる人。
ゆかの匂いは、いつも石鹸みたいだ。清潔で、まっすぐで、少しだけ冷たい。それが私は好きだった。
「ねえ、昨日の数学の追試、大丈夫だった?」
「うん。火蓋を叩いたよ」
「……切るね。火蓋は切るの」
「え、叩かないの?」
「叩かない」
ゆかが眉を寄せて笑う。こういうの、よくある。私は言葉をよく間違える。慣用句とか、似た言葉とか、ごちゃごちゃになる。自分では気づかないから厄介だ。
でも、ゆかは笑うだけで怒らない。お弁当の卵焼きを一切れ私のほうに寄越しながら、「で、追試どうだったの」と話を戻してくれる。ゆかの卵焼きはいつも甘い。砂糖多めの、家庭の甘さ。ふわっと鼻に届いて、すぐに消える、安心する匂いだ。
前の席の子がくしゃみをした。レモンみたいな、つんとした匂いが一瞬広がった。元気な匂いだ。振り返って「大丈夫?」と声をかけると、「うん、平気平気」と手を振られた。私はいつもこうだ。誰かの変化に気づくと、自分のことより先に相手のことが気になってしまう。ゆかはそれを「お節介」と言うけれど、本当は心配性なだけだ。
「ちなみに追試は再来週だから、まだ火蓋すら切れてないよ」
「え、追試終わったと思ってた」
「それ期末テスト。追試はこれから」
「……あれ?」
ゆかがため息をついて、でもその目は笑っていた。こういう私をそのまま受け入れてくれる人が、世界に一人でもいるということが、どれだけ心強いか。
「あら、お弁当? 美味しそうね」
声をかけられて顔を上げると、担任の先生が教室に入ってくるところだった。柔らかい声。いつも生徒のことを気にかけてくれる、優しい先生だ。
「先生、なんか甘い匂いする。……キャンディ食べた?」
私がそう言うと、先生は一瞬だけ目を瞬かせて、それからふわりと笑った。
「そう? ハンドクリームかな」
キャンディの包み紙を開けたときみたいな、ふわっとした甘さ。気にするほどのものじゃない。先生はいつも良い匂いがする。
「最近、何か困ったことない? クラスで嫌なこととか」
「ないです。大丈夫です」
「そう。何かあったらいつでも言ってね」
先生は少し身を屈めて、私の目を見た。
「大丈夫。先生がちゃんと見てるから」
先生の声は柔らかくて、温かかった。ちゃんと見ていてくれるんだ、と思った。この学校に来てまだ一年も経っていない私にとって、それは心強い言葉だった。福岡から引っ越してきて、まだどこか馴染みきれない場所で、こうやって気にかけてくれる大人がいるというだけで安心できた。
先生が教室を出ていくと、ゆかが小さく言った。
「先生、あんたのこと気にかけてくれてるね」
「うん。いい先生だよね」
甘い匂いのことは、もう気にしなかった。
*
異変が始まったのは、その翌週だった。
その週は、立て続けに不穏なことが起きた。ロッカーの体操服が見覚えのない畳み方に変わっていた。筆箱の中に、何も書かれていない白い紙切れが挟まれていた。机の端に、覚えのない付箋が貼られていた。何も書かれていない、ただの黄色い付箋。下校途中、振り返っても誰もいないのに視線を感じた。匂いを探ったけれど、距離がありすぎて何も感じ取れなかった。
怖くなった。誰かに言いたかった。ゆかには心配をかけたくなくて、先生に相談した。放課後の相談室は西日が差し込んでいて、先生の横顔が柔らかく照らされていた。先生は椅子を引いて、私の正面に座ってくれた。
「先生、あの……ロッカーのこととか、メモのこととか」
「うん、聞いてるよ。心配しないで」
先生が優しく頷いた。
「大丈夫。先生がちゃんと見てるから。先生が守るからね」
先生の声はいつもと同じ、柔らかな響き。でも——匂いが、少しだけ変わった気がした。チョコレートを溶かしたような、とろりとした甘さ。前より、濃い。
気のせいかな。先生はいい人だし。
気にしすぎだ。相談に乗ってくれてるのに、匂いがどうとか、失礼なことを考えてしまった。
相談室を出て廊下を歩いていると、クラスメイトの子がグミの袋を開けていた。甘い匂いがふわっと広がる。ぶどう味。
甘い。でも、これは普通の甘さだ。
さっき先生の近くで感じた甘さとは、何かが違う。グミの甘さは、匂いを嗅いだらすぐに消える。でも先生の甘さは、鼻の奥にとろりと残った。何が違うのかは言葉にできなかった。
*
先生に相談した翌日、教科書のカバーが外されていた。体操服は裏返しに畳み直されていた。前の日には何もなかったロッカーが、一晩で別人の手に触れられている。
相談すればするほど、酷くなる。でもその因果関係に、私はまだ気づけなかった。
先生に報告した。先生はそのたびに、「調べたけど何も見つからなかったよ。大丈夫、先生がちゃんと見てるから」と同じ言葉をくれた。
最初は安心できた。でも同じ言葉を繰り返されるたび、安心より先に「本当に?」という問いが浮かぶようになった。その声を押し殺すたびに、息が苦しくなった。
……気のせいだ。
気のせいだと思うことが、いつの間にか「努力」になっていた。「気のせいだ」が、お守りから鎖に変わっている。自分の鼻を信じることが、こんなに怖いことだと思わなかった。
面談のたびに、先生の甘い匂いは濃くなっていた。練乳をそのまま舐めたような、べったりした甘さ。鼻の奥にまとわりつく。面談が終わって教室に戻っても、まだ鼻の奥に残っている感じがする。
廊下を歩いていると、保健室の前で足が止まった。ドアの隙間から、甘い匂いが漏れている。一瞬、心臓が跳ねた。でも違った。消毒液とうがい薬が混ざった、薬品の甘さ。保健室の甘さは冷たくて、すぐに消える。先生の甘さは温かくて、いつまでも残る。——甘い匂いなんて学校のあちこちにある。先生の匂いも、ただの匂いの一つなのかもしれない。
先生は私のために動いてくれている。忙しい中、調べてくれている。そんな人を疑うなんておかしい。
ある日の放課後、自分でロッカーの周りを確認しようと思い立った。先生に言われるまま待っているのが嫌だった。自分の目で確かめたかった。自分で確かめないと納得できない性格は、昔からだ。教室に残って、ロッカーの裏側や近くの掲示板の隙間を覗いていた。何か手がかりがあるかもしれない。
「あ、そこはもう先生が調べてあるよ」
振り返ると、先生が教室の入り口に立っていた。いつ来たんだろう。足音は聞こえなかった。
「先生が?」
「うん。あなたが心配してたから、先に見ておいたの。何もなかったよ。だから安心して」
「……ありがとうございます」
先生がもう調べてくれていた。私が動く必要なんてなかったんだ。
でも——なぜ先生は、私がここに来ることを知っていたんだろう。今日ロッカーを調べるなんて、誰にも言っていない。放課後に教室に残ることだって、急に思い立っただけだ。
そんな疑問が一瞬よぎったけれど、先生の柔らかい笑顔を見て、すぐに消えた。先生は、ただ見回りに来ただけなのかもしれない。
「先生って、私の友達のことまで気にかけてくれますよね。ゆかが部活休んだとき、すぐ気づいてくれたし」
「だって、あなたの大切な友達でしょう? あなたに関わることは全部、先生は気にしてるよ」
嬉しいはずの言葉。でも、どこか——引っかかる。先生はゆかの欠席どころか、最近私が誰とお弁当を食べたかとか、放課後どこにいたかとか、やけに詳しい。クラスの子と立ち話をしただけで、「今日は誰と話してたの?」と翌日聞かれたこともある。
私がクラスの子と話す回数が、最近減っている気がする。先生に相談するたびに「あんまり周りを巻き込まないほうがいいよ、心配かけちゃうから」と言われたから。先生の言う通りにしていたら、いつの間にか、私の周りにはゆかしかいなくなっていた。
先生が大丈夫って言うなら、大丈夫。
私の鼻がおかしいだけだ。
……気のせいだ。
目を閉じても、鼻の奥にまだ甘さが残っていた。
教室に戻ると、窓際の席に座っている子が一人で本を読んでいた。以前は一緒にお弁当を食べていた子だ。先生に「あの子、あなたのこと面倒くさいって思ってるかも。距離を置いたほうがいいよ」と言われてから、話しかけられなくなった。
本当に、そうだったのかな。あの子は今、一人で本を読んでいる。私が話しかけなくなってから、ずっと一人だ。
考えないようにした。先生がそう言ったんだから。先生は私のことを思って言ってくれたんだから。
*
「ゆか」
「ん?」
「……先生の匂いが、気になる」
放課後、教室に二人だけ残っていた。窓の外はもう暗くなりかけていて、蛍光灯の白い光だけが二人の顔を照らしている。ゆかは手を止めて、私を見た。
「どう気になるの?」
「甘い……でも、甘すぎる。なんか……気持ち悪い」
言葉にしてみると、ひどいことを言っている気がした。先生のことを悪く言っているみたいだ。自分の口から出た言葉に、自分で傷ついた。
「でも、先生はいい人だし」
自分で否定した。ゆかは少し黙って、鞄の中のファイルを整理する手を止めた。
「先生に相談してるんでしょ? なら大丈夫じゃない?」
「……うん。そうだよね」
ゆかは弁当箱の蓋を閉めて、少し黙った。横顔が硬い。
「……あたしも昔、隣の子に消しゴム隠されてたの。先生に言ったら『気にしすぎ』って」
石鹸みたいな匂いの奥に、ほんの少しだけ苦い匂いが混じった。古い怒りの匂いだ。
「だから……先生が動いてくれてるなら、大丈夫だと思いたいの」
ゆかの「大丈夫じゃない?」は、論理じゃなかった。祈りだった。
ゆかの言葉に、ほっとする自分がいた。信頼できる大人に相談した。その大人が動いてくれている。それで十分じゃないか。
でも——本当は、もっと言いたいことがあった。匂いがどんどん濃くなっていること。先生に相談するたびに、不審なことがむしろ酷くなること。先生が私の行動を全部知っているみたいに感じること。先生の目が、優しいのに、どこか——離してくれない感じがすること。
言えなかった。
弱音を吐いたら、ゆかに心配をかける。匂いなんて証拠にならない。目に見えないものを「怪しい」と言ったって、誰にも伝わらない。先生を疑うなんて——最低だ。
涙が滲みそうになって、ぐっと飲み込んだ。泣き虫のくせに、泣いている姿を見せたくない。
教室の空気が変わっている。入学したばかりの頃の「雨上がりの匂い」は消えて、今はじっとりとした、曇りの日みたいな匂いになっていた。重くて、湿っていて、息がしづらい。みんなの間にある空気が、少しずつ淀んでいく。
「ねえ、体育の先生、最近やたらこっち見てない?」
いつの間にか、教室ではそんな噂が広がっていた。体育の先生——口数が少なくて、ぶっきらぼうな男の先生。放課後にも校舎内をうろうろしているのを何人かが目撃していた。
「あの先生、なんか変じゃない?」
教室のあちこちで、ひそひそと同じ名前が囁かれている。
でも、あの先生からは、特に変な匂いはしない。
廊下ですれ違ったとき、意識を集中して嗅いでみた。汗と日焼け止めの匂い。それだけ。砂糖水に浸されたような、喉にまとわりつく甘さ——あれは、あの先生からはしない。
みんなが言うなら、そうなのかもしれない。でも私の鼻は「違う」と言っている。
どっちを信じればいいんだろう。みんなの言葉か。自分の鼻か。
……気のせいだ。きっと、私の鼻がおかしいだけだ。
匂いなんかで人を判断するほうが、おかしいに決まっている。
家に帰って、布団に潜り込んだ。目を閉じると、甘い匂いの残像が鼻の奥にこびりついている。振り払えない。先生の笑顔。先生の声。大丈夫、という言葉。全部が甘い匂いの中に溶けていて、どれが本物でどれが嘘なのか、もう分からなくなっていた。
枕に顔を押しつけた。泣きたいのに、泣けなかった。
*
体育の先生が職員会議に出ていた日の放課後に、それは起きた。
私のロッカーの中身が、全部入れ替えられていた。教科書の順番、筆箱の向き、体操服の畳み方。全部、違う人の手で丁寧に並べ直されていた。前と同じように、きちんと、丁寧に。まるで「見ているよ」と言わんばかりに。
帰りのHRで聞いた。体育の先生は四時間目からずっと会議室にいたらしい。何人もの先生と一緒に。
じゃあ、誰が?
震える手でロッカーの扉を握りながら、涙が溢れた。こらえようとしたけれど、無理だった。ぽたぽたと、ロッカーの底に落ちる。もう限界だった。ずっと我慢してきた。気のせいだと思おうとしてきた。でも、もう無理だ。
「ちょっと、どうしたの」
ゆかが駆け寄ってきた。私は泣きながら、しゃくり上げながら、言葉にならない言葉を絞り出した。
「気のせいだって、思おうとした、けど——」
「気のせいじゃないって」
ゆかの声が、いつもと違った。冷静で、いつも落ち着いているゆかが、声を荒げていた。目が赤くなっている。怒っているのか、泣きそうなのか、両方なのか。
「あんたの鼻、今まで外れたことあった?」
「……え?」
「塩の匂いがするって言ったとき、泣いてた子いたでしょ。錆の匂いがするって言ったとき、怪我してた人いたでしょ。あんたがレモンの匂いって言った日は、みんな機嫌よかったでしょ」
言われて、思い出す。全部、当たっていた。一度も外れたことがなかった。
甘い匂いがした人は。
ふいに、もっと古い記憶が蘇った。中学のとき、甘い匂いがした先輩がいた。すごく優しくしてくれた。面倒見がよくて、私のことをかわいがってくれた。でも後になって、陰で後輩たちの悪口を言っていたと知った。あの先輩の笑顔の裏にあったもの。甘い匂いの裏にあったもの。
甘い匂いがする人は、いつも、後で何かが裏返った。いつも。一度も、例外なく。
「あんたの鼻が『普通』って言うなら、あの先生は普通なんだよ」
ゆかが言い切った。体育の先生のことだ。
「じゃあ……『甘い匂い』の人は?」
息が止まった。
ずっと押し殺していた違和感が、一気に形になった。
甘い匂い。どんどん濃くなる甘い匂い。相談するたびに、優しい言葉をくれるのに、何も解決しない。むしろ酷くなる。私の行動を全部知っている。私が誰と話したか知っている。私がロッカーを調べようとしたことまで知っていた。周りの人から私を遠ざけている。
先生。
全部、先生だったんだ。
悔しさが、腹の底から込み上げてきた。ずっと自分の鼻を疑っていた。ずっと気のせいだと言い聞かせていた。先生の言葉を信じて、自分の感覚を殺していた。その間に、どんどん追い詰められていた。
負けたくない。自分の感覚を殺し続けてきた自分に、もう負けたくない。
「ゆか。次に先生と話すとき、録音していい?」
「——あたしがやる。保険かけといて損はないじゃん」
ゆかの目が真剣だった。石鹸みたいな匂いの奥に、かすかな鉄の匂い。怒りの匂いだ。ゆかは、私のために怒ってくれている。
ごめん、ゆか。ずっと一人で抱え込んでて。
声には出さなかった。でも、もう一人じゃないと思えた。
*
翌日から、私は先生を観察した。
今度は、匂いから目を逸らさないと決めて。
三時間目の現代文。先生が教室を巡回しながら、前の席の子にプリントの書き方を教えていた。身を屈めて、穏やかな声で。私は二つ後ろの席から、息を殺して匂いを探った。——何もしない。普通の大人の匂い。柔軟剤と、少しだけコーヒーの残り香。それだけだ。
先生が次の列に移って、窓際の子に話しかけた。ノートを覗き込んで、「よく書けてるね」と褒めている。その距離、その声の柔らかさ。匂いは——やっぱり、普通だった。
そして先生が、私の前に来た。
「ここ、もう少し自分の言葉で書いてみようか」
途端に、あの甘さが立ち上った。さっきまで何もなかったのに。まるでスイッチが入ったみたいに、とろりとした甘さが鼻の奥に流れ込んでくる。背筋がすうっと冷えた。手の甲に鳥肌が立つのが分かった。
私にだけ向けられる甘さ。私にだけ見せる顔。他の子には普通なのに、私の前でだけ匂いが変わる。それはもう、ハンドクリームでも香水でもない。この人の、私に対する何かが、匂いになって漏れ出している。
やっぱり。私の鼻は、最初から正しかった。
ゆかと二人で、これまでの出来事を整理し直した。放課後、誰もいない教室で、ノートを広げて。
「ロッカーのことが最初に起きたのは、いつ?」
「先生に、クラスのことを相談した次の日」
「メモが入ってたのは?」
「先生に、ロッカーのことを相談した翌日」
「付箋は?」
「先生にメモのことを……」
声が震えた。全部、先生に相談した後だった。一回も例外がない。私が不安を打ち明けるたびに、その不安を現実にするかのように、もっと酷いことが起きていた。
「タイミング、全部一致してる」ゆかが静かに言った。それから、少し目を伏せて付け加えた。「でも……あたしには匂いは分からない。あたしに分かるのは、タイミングが一致してるってことだけ。確かめられるのは、あんただけだよ」
分かっている。ゆかの論理は、ここまでしか届かない。「タイミングが一致している」という事実。でもそこから先——あの甘い匂いが何を意味しているのか。それは、私にしか分からない。
これは、私がやらなきゃいけない。
ゆかが言った。「一人で行くなんて危ないって」
分かってる。怖い。足が震える。でも——。
「行かなきゃ。私が確かめなきゃ、誰にも分からないまま終わる」
ゆかは唇を噛んだ。何か言いかけて、飲み込んだ。止めようとしていたのが、分かった。でもゆかは止めなかった。代わりに、ぎゅっと私の手を握った。
ゆかの手が冷たかった。指先が震えていた。ゆかも怖いんだ。でもそれを言わない。
「……分かった。でも保険はかけさせて。あたし、相談室の近くにいる。ドアが開いたら入れる場所に」
「ゆか——」
「十五分。十五分経っても出てこなかったら、あたしが入る。それだけは譲れない」
ゆかの声は静かだったけれど、目が真剣すぎて、何も言い返せなかった。
止めることと、支配することは、違う。ゆかは私の判断を尊重してくれた。先生とは、違う。
その日の放課後、先生のところへ行った。いつもの相談室。いつもの柔らかい椅子。窓の外はまだ明るくて、夕方の光が壁を橙色に染めている。
「どうしたの? また何かあった?」
先生の声は、いつも通り優しい。いつも通りの柔らかい笑顔。いつも通りの、生徒思いの良い先生。他の誰が見ても、この人を疑う理由なんてないだろう。
でも、匂い。
甘すぎて、頭が痛くなるくらい。砂糖の塊を口に押し込まれたような、息が詰まる甘さ。今まで感じたどの甘さよりも濃くて、重くて、逃げ場がない。相談室の狭い空間に充満して、こめかみがずきずきする。窓は閉まっている。この甘さの中に、先生の本当の顔が隠れている。私は今日、それを暴きに来た。
「最近、本当に大変だったね」
先生が言う。いつもの、あの語りかけるような声で。
「でも大丈夫。きっと気にしすぎなだけだよ。先生が——」
「先生」
私は、先生の言葉を遮った。
心臓がうるさい。手が震えている。膝も震えている。口の中がからからに乾いている。でも——ここで引いたら、また気のせいにしてしまう。また自分の鼻を裏切ってしまう。
間違ったことを、見過ごしたくない。
*
「先生。あのね、先生から、ずっと甘い匂いがしてた」
声が震えた。情けないくらいに。でも、言えた。初めて、自分の感覚を自分の言葉にできた。
先生の表情が——一瞬、凍った。
笑顔が固まって、目の奥の光が消えた。ほんの一瞬。でも私は見逃さなかった。
それと同時に、匂いが変わった。
甘い匂いが、一瞬で消えた。今まで相談室を満たしていたあの圧倒的な甘さが、嘘みたいになくなった。
代わりに——金属の、冷たい匂い。錆びた鉄を舐めたような、背筋が冷える匂い。今まで甘さの下に隠れていたものが、一気に剥き出しになった。
仮面が、外れた。匂いは嘘をつかない。どんなに優しい言葉で飾っても、どんなに柔らかい笑顔を作っても、匂いだけは本当のことを教えてくれる。
「……何の話かな」
先生の声は柔らかいまま。まだ笑おうとしている。まだ「優しい先生」でいようとしている。でも、匂いはもう嘘をつけない。声は優しくても、匂いが全部教えてくれる。この人は今、怖がっている。そして、怒っている。
「先生がロッカーを触ってたこと。相談するたびに、もっと酷くなったこと。私の友達関係を、全部知ってたこと」
一つずつ、震える声で並べた。匂いじゃない、事実だけを。ゆかと二人で整理した、タイミングの一致を。先生に相談するたびに起きたこと。先生だけが知っていたはずのこと。先生に言われて、友達から遠ざかったこと。
「それは、先生が心配してたから——」
「大丈夫。先生がちゃんと見てるから——って、いつも言ってくれた」
先生の目が、かすかに揺れた。
「ちゃんと見てる。ずっと、見てたんですよね」
ポケットの中でスマホが震えた。ちらりと画面を見る。ゆかからのメッセージ——「あと5分」。それだけが表示されていた。
見守りじゃなかった。監視だった。
ずっと、全部、先生が。
「大丈夫」の裏側で、ずっと。
先生の表情から、優しさが消えた。ゆっくりと、水が引くように。代わりに、今まで見たことのない冷たさが浮かんだ。目が据わって、口元が引き結ばれて、別人のようだった。
「誰が信じると思うの?」
先生の声が低くなった。甘さのかけらもない、硬い声。
「匂い? そんなもので? 甘い匂いがしたから先生が犯人です、なんて——誰が信じるの。先生はずっとあなたを心配して、相談に乗って、守ってきたのよ」
「先生だけが、あなたのことを本当に分かってあげられるのに」
「——分かってなんか、なかった」
声が震えた。でも、出た。
先生の目が見開かれた。一瞬、金属の匂いが鋭くなった。
正しい。先生の言う通りだ。匂いなんて証拠にならない。目に見えない。数値にできない。他の人には分からない。
「私だって……匂いなんかで人を判断されたら、たまらないわ」
先生の声が、一瞬だけ震えた。
その一言に、何かが詰まっているような気がした。悲鳴に似た何かが。先生自身も、かつて何かを嗅ぎ取られることを恐れて生きてきた人なのかもしれない。自分の感覚を殺して、言葉だけの世界で生きることを学んだ人。だから、感覚で世界を見る私が——怖かったのかもしれない。
でも、だからって。
「信じてもらえなくても、いいです」
涙が溢れた。止められなかった。止めようとも思わなかった。震えが止まらなかった。声も、手も、膝も。全部震えていた。
でも、足は動かなかった。退かない。退きたくない。泣き虫で、語彙力がなくて、いつも言葉が足りない私だけど。今だけは、ここに立っていなきゃいけない。
「私の鼻は、ずっと本当のことを言ってた。私が信じなかっただけで。先生の言葉を信じて、自分の感覚を気のせいだって——ずっと、ずっと」
声が詰まった。涙で視界が滲んだ。でも、匂いは分かる。涙で目が見えなくても、鼻は利く。
「でも、もう気のせいにしない」
先生が椅子から立ち上がった。机を回り込んで、一歩、近づいてくる。金属の匂いが濃くなる。逃げ出したい。でも足が動かない。動かない、んじゃなくて——動かさない。私が、ここに立つと決めたから。
「——あんたの保険、届けに来たよ」
ドアが開いた。
ゆかが立っていた。制服の肩で息をして、頬が紅潮している。ずっと廊下にいたんだ。壁に背中をつけて、ドアの向こうの声を聞いていたんだ。手にスマートフォンを握っている。
「録音、してた」
ゆかの声も震えていた。でも、目は真っ直ぐだった。私を見て、一度だけ頷いた。大丈夫、という目だった。
「先生が『誰が信じる』って言ったとこから。全部」
先生が動きを止めた。口が開きかけて、閉じた。何か言おうとして、でも言葉が出なかった。言葉で生きてきた人が、言葉を失った瞬間だった。
甘い匂いはもう、どこにもなかった。金属の匂いさえ薄れて、ただの無臭の空気だけが、相談室に漂っていた。何の匂いもしない。仮面が外れた後に残ったのは——空っぽだった。
*
五時間目の教室。
窓の外では、桜の蕾がほんの少しだけほころび始めていた。三月の、柔らかい光。あの日と同じ時間、同じ場所。でも、空気の匂いが違う。
あれから、いろいろなことがあった。あの日の夜、ゆかが録音をお母さんに聞かせてくれた。お母さんは長い間黙っていて、それから泣いた。次の日、お母さんと一緒に学校に行った。教頭先生に全部話した。ゆかが整理したタイミングの記録も渡した。教頭先生は最後に「よく話してくれたね」と言った。先生は学校を去った。新しい担任が来た。ロッカーの中身は、もう誰にも触られていない。
新しい担任が私の列に近づいてきたとき、無意識に身体がこわばった。甘い匂いがしないか、息を止めて探っている自分がいた。
……柔軟剤と、少しだけ汗の匂い。それだけだ。
ほっとした。でも悲しくなった。大人に優しくされるたびに匂いを確かめてしまうのかもしれない。あの先生が奪ったのは、安心して誰かを信じる力だった。
教室は今日も穏やかだった。雨上がりの匂い。みんな、普通に過ごしている。ノートに落書きしている子、居眠りしかけている子、こっそりスマホをいじっている子。いつもの五時間目。窓際の子がこっちを見て、小さく手を振ってくれた。最近また一緒にお弁当を食べるようになった子だ。手を振り返すと、その子は笑った。レモンの匂いがした。
「ねえ、今日なんか匂いしない?」
隣の席の子に聞いてみた。
「え? 何の匂い?」
「なんか……春っぽい匂い。土と、水と、なんか緑っぽいやつ」
「春っぽいって何。緑っぽいって何」
「うーん、ほら、花が咲く前の……土が柔らかくなる感じ?」
「気のせいじゃない?」
前なら、「そうだね」と言って笑って終わりにしていた。気のせいだってことにして、自分の鼻を黙らせていた。変なことを言って笑われるのが怖くて、感じたことを飲み込んでいた。
でも今は——。
「ううん、気のせいじゃないよ」
笑ってそう言えた。声が少しだけ震えたけど、言えた。
変な鼻。みんなはまだそう思っているかもしれない。
でも、これは私の鼻だ。変でも、言葉にできなくても、間違いなんかじゃない。この鼻があったから、私は真実にたどり着けた。この鼻があったから、自分を守れた。
「今日はどんな匂い?」
ゆかが聞いた。いつもの石鹸みたいな匂いを纏って、いつもの席に座って。
「……春の匂い。うん、もうすぐ春」
窓の外で、固かった蕾が、ほんの少しだけ綻んでいた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
この物語は、「嗅覚」という、小説ではあまり中心に置かれない感覚から書き始めました。視覚や聴覚に比べて、匂いはずっと曖昧で、言葉にしにくい感覚です。でもだからこそ、取りつくろえないものが滲み出るのではないか。そんな感覚の正直さを、物語の軸にしてみたいと思いました。
「自分の感覚を信じる」ということは、簡単なようでいて、とても難しいことだと思います。周りに「大丈夫」と言われれば、自分の違和感のほうが間違っているのだと思いたくなる。信頼している相手なら、なおさらです。主人公が自分の鼻を「気のせい」だと言い聞かせ続けた時間には、そうした怖さを込めました。
主人公は、特別な力を持っていても、決して強い人ではありません。泣き虫で、言葉がうまく足りなくて、自分の感覚を自分で疑ってしまう。それでも最後に「もう気のせいにしない」と言えたことに、彼女なりの強さがあると感じています。
また、夏目ゆかという存在も、この物語にとって大切でした。同じものを感じることはできなくても、信じることはできる。その距離感の中にある友情を書きたかったのだと思います。
匂いの描写、とくに担任の「甘い匂い」が少しずつ変わっていく過程は、何度も書き直した部分でした。読みながら、その変化や、最後に甘さが消えたあとの感触を受け取っていただけていたなら嬉しく思います。
この物語が、誰かの中にある言葉にならない違和感について、少しだけ立ち止まるきっかけになっていたら幸いです。




