一章の二〜三
学校生活の説明で終始したホームルームが終わり、時刻は午前十一時五十分、チャイムと共に本日の日程はつつがなく終了と相成り、俺はそそくさと教室を脱出した。クラスメートの中には亜紀のほかにも同じ中学出身のやつが何人かいたが、それほど親しくしていた連中ではなかったし、親交を深めるにしても慌てることはないだろうと思っていた。まあ春休みの自堕落な生活が災いしているせいか、どうにも頭が働かないのでさっさと帰って一息つきたかったというのが本音だが。
穏やかな春の日差しを浴びつつ、大あくびをしながら二十分ほど歩き続けて、見慣れた我が家に着くと不思議と肩の力が抜けた、ような気がする、多分。慣れない生活の始まりに多少は心が疲弊していたからそう感じたはずで、断じてこれから三年間歩いて通うのかよ面倒臭いなとか思ってぐったりした訳ではない。
「ただいま」
鍵を開けて扉を開閉し、施錠はきっちりとしながら声を掛ける。中学校では運動靴で登校だったが、今後はローファーでの通学を強いられる。履き慣れていないせいか足が少し痛んだ。靴を脱ぐついでに靴下も脱いで洗濯機に放り込んでから、居間のソファに直行した。
「あ、りょうちゃんおかえり~」
先客がいた。ちくしょう。
ソファにだらしなく寝転がり、分厚い本を読んでいるのは我が姉貴、詩織だ。今日はこいつも学校だったはずなのに、先に帰りついていたらしい。既に寝巻きとしても使っているピンクのスウェットに着替えており、さっきまで着ていたであろう青羽高校の制服はテーブルの上に放られていた。肩甲骨辺りまで伸びている髪は、外出の際は一つにまとめているが既に解いている。
せめてハンガーにかけとけよ、と言いながら制服を片付ける。
「んー、めんどくさいー」
この詩織という姉貴、表裏があるというタイプではないのだが、外と内で落差が激しい。今でこそソファの上でアメーバのようにだらけているのだが、きっちりすると化けるのだ。アメーバが怠惰なのかは分からんが。
何しろ今日を持って青羽高校二年生となった彼女は、生徒会の一員に名を連ねているどころか、現在は副会長、そして次期生徒会長候補筆頭らしい。顔は幼さを残しているのだが、弟の俺が見ても美人ではあると思う。瞳はぱっちり二重だし、ころころ変わる表情も確かに魅力的だ。その顔立ちに合わせてなのか身長は低いものの、出るところは出ている辺り、男共の人気を集めるのに一役買っている。その分女性票は得られないのではないかと思うこともあるのだが、不思議とそういうこともないらしい。考えてみれば亜紀も懐いている。
「りょうちゃん、わたしおなかへったんだよ?」
ただ普段はご覧の通りの有様になる。おまえさっきからひらがなで喋ってないか?
「おねえちゃんにおまえっていっちゃだめなんだよ?」
本から目を離し、こちらをじとっとした目で見てくる。まあ美人ではあるし、こういう油断した部分も可愛らしいと言われるものなんだろうが、俺を召使いか何かのようにこき使うところだけは直してほしいね。それが直れば自慢の姉と言っても良いんだが。
「悪かったよ。有り合わせでいいだろ?」
「うん、おいしいのおねがいね」
にこりと笑いかけてから、視線を本に戻す。こういう風に笑われるとまあ仕方ねえと思ってしまうから不思議だ。甘え上手というのかね。同じ美人という括りになるんだろうが、あの安宿とかいうやつとは大分タイプが違う。
「そいや姉貴の友達が同じクラスになったぞ」
「う?」
冷蔵庫の中身を物色し、昨日のあまりものの煮物と卵にモヤシに肉も少しあるか米は炊いてあるし昼は簡単に済ませられそうだけど夕方には買出しに行かないとな、などと考えながらソファに向かって話す。
「姉貴と中学からの付き合いだっていう」
「はるちゃん?」
寝転がっていた姉貴が体を起こす気配がした。はるちゃんという名前を姉貴の口から聞くのはそれが初めてだった。姉貴は外と内をきっちり分けるタイプなのか、友達の事はあまり話さないし家にも呼ばない。俺もその辺りは姉貴に似ているから、お互い学校の友達は知らなかったりするんだよな。こういうのは姉弟だとどこも似たり寄ったりなのかね。
「そうそれ」
「そっか、きょうからだったんだ……」
水、砂糖、みりんに醤油を鍋に入れ火に掛けたところで、姉貴が何やら考え込んでいる様子に気付いた。
「なんだ、聞いてなかったのか?」
てっきり仲が良いのかと思っていたんだが。
「ねえりょうちゃん」
問いかけはスルーされたがやけに真剣な顔で見つめられていた。何だ一体。
「はるちゃんと仲良くしてあげてね」
仲良くしてあげるとかそんなご大層な人間じゃねえよ俺は。そういうのは同性の亜紀あたりに頼んでくれねえか? まあ亜紀ならもう仲良くなってるかもしれないが。
「あきちゃんにももちろんそうしてほしいけど、りょうちゃんも」
「分かった分かった。出来ればそうする」
「ありがとう」
俺にとっては最大限の譲歩だが、その答えに満足したようだ。姉貴はへらっと笑うとスウェットのポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出していじり始める。
静かになってけっこうなことだ、と思って料理に専念したためあまり気にしなかったのだが、姉貴はこの時、『はるちゃん』にメールを送っていた。その内容を尋ねなかったことが俺の手抜かりだったと気付くのはもう少し後のことだ。
三
始業式の翌日は分厚い雲がこの地域に覆いかぶさり、今にも雨が降りそうな空模様だった。
この青羽高校というのは県立高校であり、青羽市内で唯一の普通科高校だ。市内には他にも公立高校として、商業高校、工業高校があり、さらに市外ではあるが通学の充分可能な位置に農業高校もある。必然的にここを選択した生徒のほとんどは大学への進学を目指しており、その目標に沿う程度には高い進学率を保っている。少数ではあるが東大や早大などの有名大学に進む生徒もいるそうだ。
そういう事情もあって、どの教科の教員も自己紹介はそこそこに、本題に入っていく。
「早速授業ってのも肩が凝るわよね」
亜紀が自分の肩を揉みながら話を振ってきたのは、三時間目の授業をこなした後のことだ。その前までの休み時間、俺は慣れない生活が始まったせいかぐったりしていたのだが、亜紀はクラスメートと親交を深めていたようで、あちらこちらと動き回っていた。元気なやつめ。
「まあな」
とはいえあと一時限で昼飯になるし、午後からは丸々部活説明会を行うそうだし、あと少しの辛抱だ。
「そういえば部活どうするの?」
「もう決まってる」
「え?」
机から紙切れを取り出し、亜紀に見せる。
「文芸部?」
その紙切れは、今朝担任の佐藤から配られた入部希望用紙だ。部活名の欄には既に『文芸部』と書き込んであるし、名前も記入してある。
「姉貴がそこなんだけど、他の部員がみんな去年卒業しちまったらしくてな。入ってくれって頼まれた」
「……高校生になってもしいちゃんには頭が上がらないのねぇ」
苦笑いされながら、先ほど渡した入部届けを返してきた。
しいちゃんというのはうちの姉貴のことだ。詩織だからしいちゃんという、良く言えば分かりやすい、悪く言えば芸の無い愛称である。亜紀と姉貴は昔から仲が良い。亜紀にも弟がいるという共通項があるからかもしれないし、性質があまり似ていないからかもしれない。亜紀と知り合ったのは俺のほうが先だが、親密度で言えば姉貴のほうが断然上だ。休日に二人でショッピングだの映画だのと出掛けたりしてるからな。二人で連れ立って歩いていると本当の姉妹のようだが、亜紀のほうが姉にしか見えないのは身長のせいだけではないだろう。
「別に積極的に反発する理由が無いからな。そこまで忙しい部活には入れないから丁度いいし」
「どこかには入らなきゃいけないのよねぇ……」
この学校の特徴の一つとして、進学校にしては珍しく、部活動に力を入れている。全生徒は何かしらの部活に籍を置くことが義務付けられており、その活動は体育系、文科系共に盛んだ。
体育系ではスポーツ特待生を取っていないため、団体競技で全国大会に進むことはあまり無いが、個人競技では全国大会で優秀な成績を残す生徒もいるらしい。
文科系では写真部が何とかいう賞を取ったり、英語部が全国スピーチ大会に出たりしているらしいし、毎年行われる文化祭も盛り上がるそうだ。
「良く知ってるわねそんなの」
「パンフレットの受け売り。入学案内と一緒に送られてきたろ」
「読んでないわよ」
胸を張って言うセリフではないんだが。
入部先が決まっているから説明会は退屈になりそうだな、と言ったところでふと思いついて後ろの席を見る。そこにいる姉貴の友人は、文庫本に目を落としていた。書店でつけてもらえるカバーをしているため何の本かは分からないが、その書店の名前は俺もよく使わせてもらっている市内の大型店のものだ。
「あんたはもう部活入ってるのか?」
何の気なしに声を掛けてから、昨日の姉貴との会話を思い出した。亜紀も話に加わりそうだしちょうど良かったかも。
と思ったんだが。
「……」
返事が無い。言葉の代わりに、かさりと文庫本の頁を繰る音が返ってくる。視線は相変わらず手元に注がれている。何を読んでるかわからないがすごい集中力だ。
「別に本に没頭しているわけではないよ」
聞こえてないと思ったら口が動き、億劫そうに目をこちらに向けてきた。
「私はあんたではない、という意思表示のつもり」
「あー、悪い」
気をつけてはいるんだが、言葉が雑というか汚いというか、どうにも癖になってしまっているようだ。亜紀と話していると特にそうなるんだが、当の亜紀自身は俺と話すときと他の人と話すときでしっかり使い分けている。なんかズルイと思ったことは今日が初めてではない。
安宿、と呼ぼうとしたが、姉貴と同い年であると思い直す。
「安宿さんは部活決まってるの……デスか?」
「さんと敬語は無しでいいよ」
俺の気遣いはあっさり修正された。
「何が気遣いよ」
亜紀には一笑に付され、
「そんなふうに気を遣われても困る。これから一年間は同級生なのだしね」
安宿には大人な感じでやんわり苦笑いされた。この扱いは不当ではなかろうか。
「気を遣おうとしてくれたこと自体は感謝するけれど、あくまで同級生として扱ってくれると助かるかな」
まあ確かに他の連中には敬語じゃないのに、安宿にだけ敬語だと色々と支障があるか。腫れ物扱いみたいだしな、と言ったら亜紀に睨まれた。
「アンタさぁ……」
「何だ?」
何かまずいこと言ったか?
「分かってはいたけど、アンタはほんっっと鈍いわよね」
幼馴染の刺すような視線の理由が分からなかったので、首を傾げる。安宿に目を戻すと、口元に手を当てて下を向いていたが、良く見ると肩が少し震えていた。
「いやすまないね、詩織から聞いていた通りだと思って」
どうやら笑っていたらしい。微笑み状態が通常形態らしく、一見表情の変化は伺えないのだが、良く見ると目が笑っていた。
「姉貴から何聞いてたか知らんけど、ろくでもないこと聞いてそうだな」
「悪い噂を聞かされていたわけじゃないから安心してくれていい」
人の口に戸は立てられないというから仕方ないところではあるんだが、姉貴め、こっちにも何か教えておけ。
「おや、君は私の噂話に興味があるのかな?」
からかうように問いかけられた。いやまあそう言われると、普段姉貴が友達の話を家でしていたとしても、適当に相槌打ってほとんど聞いてないかもしれない。固有名詞が出てくる話は、自分がその輪の中にいないと記憶にも残りにくい。
「なら仕方ないだろう? もしかしたら詩織は私の話もちらりとしていたかもしれない」
「そうよねぇ。アンタ、ちゃんと聞いてる話は細かいとこまで覚えてるけど、聞いてるフリしてる話は右から左だもん」
前にもこんなことがあって、と横から亜紀が口を出し始め、いつの間にか俺に関する愚痴を安宿に聞かせていた。
話が逸れた気がするがまあいいか、この二人が話すきっかけにはなったろ、とその後は会話の主導権を亜紀に譲り、三人で会話しているうちに休み時間終了の鐘が鳴った。
四時限目と昼休みを挟んだ後、新一年生を対象にした部活の説明会が行われるため、俺たちは体育館に大移動となった。餌を運ぶために列をなす働きアリのように整然と大移動、とはならなかったが、特に教員から注意を受けることもなく進行した。
この学校はこういったイベントも生徒たちの自主性を重んじるという基本精神のもと、生徒会が取り仕切って行っている。その準備のために生徒会副会長である姉貴も、今日は俺より三十分は早く家を出ていた。登壇して挨拶したのは生徒会長である男子生徒だったが、脇に姉貴の姿も見えた。学校では家でのだらしなさは欠片も見せないため、男子生徒からの人気も高いらしいという話を小耳に挟んだ。良いお姉さんがいてうらやましい、或いは、自慢のお姉さんだねとよく言われるが、この辺りの猫のかぶりっぷりは見事と言ってもいいだろう。かといって普段の姿を吹聴する趣味も無いため、その誤解は解けずにいる。解かなくてもいい誤解もあるってことだな。
入る部活が既に決まっている俺にとっては退屈この上ないイベントではあったが、出席番号の宿命か、すぐ後ろに担任である佐藤教諭が鎮座していたため、迂闊に寝ることもできなかった。それぞれの部活動の出し物にいちいちリアクションを取るため、うるさくて寝れなかったともいうが。
そんなわけで代わる代わる登壇してはそれぞれの部活のアピールをする先輩方の顔をぼんやり眺めていた俺に、隣から声が掛かったのは文科系部活の紹介に入ってすぐ、俺の耳にはノイズとしてしか届かない軽音楽部の演奏が始まった頃だ。
「退屈そうだね」
声の主は安宿だった。女子のほうが一人少ないため少し前に座っていたはずだが、気付かないうちに移動していたらしい。
「私は影が薄くてね。これも特技かな」
そうか? かなり目立つ気がするんだが。
「それは留年しているという身の上に関してだけだよ。現に今の二年生で交流があるのは詩織くらいのものだ」
そんなもんかね。
「で、安宿も退屈してるってわけか?」
「まあ、ね。少なくともこの演奏を聞いているのはちょっと苦痛かな」
それは辛辣なご意見で。
「君もそんな顔をしているよ」
否定はしない。
「正直だね、君は。というより迂闊というべきなのかな」
一言多いとは良く言われるけど。
「しかしほんと暇だよなぁ」
「君はもう部活を決めているんだったね」
安宿は前を向いたまま、目をこちらに向けていないが、やかましい音楽の中にあっても声だけは不思議と耳に届く。
「そいやさっき聞き損ねたけど、安宿は決まってるのか? てかもうどっか入ってるのか?」
「いや。出来れば何の活動もせずに済む部活を探すつもりだよ」
この足だしね、と言いながら自嘲気味に笑う。
「そか。まあこの学校は文系の部活もあるんだし、青春してもいいんじゃないか?」
「青春ねぇ……そういう君はどうなんだい? 詩織に頼まれて文芸部に入るのは良いとして、部活の掛け持ちも許されているんだ。他にも良い部活がありそうじゃないか。運動神経も良いと聞いたよ」
どこまで知ってんだ。
「自慢の弟だそうだよ」
うーん……自慢されるような覚えが無いが。
「そういうところじゃないかな?」
くっくと喉の奥で笑われた。何が可笑しいのだろう。
「まあいいか。部活は文芸部だけにするつもりだよ。色々やらなきゃいけないから」
「家事はほとんど君がやっているんだったね」
「……ほんとにどこまで知ってんの?」
ちょっと薄ら寒い気分だ。と言っても知られて困るようなことは……うん、無いはずだ。
「さっきも言ったろう? 悪い噂では無いから安心していい」
まあ人が話すのを止める権利は無いからなぁ、と言ったところで、前方のギター部の演奏が終わり、見知った顔が壇上に現われた。言うまでも無い、姉貴だ。くしゃみが出なければいいが。と思ったら壇上で小さくくしゃみをした。偶然って恐ろしいよな。もっともマイクに向かってした訳ではないから音は聞こえなかったが。
続いては文芸部の発表です、と言う司会の声に続いて、生徒会副会長、万矢詩織は朗々と語り出す。有名な詩歌を諳んじているらしいが、よく知らなかった。
「……君からすると自慢のお姉さんではないのかな?」
ぼんやり姉の顔を眺めていると隣から安宿の声が聞こえてきた。
「わざわざ答える必要も無いだろ」
そちらに顔を向けてみたが、安宿は壇上をじっと見ている。そのまま口だけが動いて言葉が届く。
「それはどちらの意味で?」
「想像に任せる」
壇上に目を戻しながら答えたが、安宿の返事は聞こえなかった。
退屈な部活紹介は結局そこからあまり記憶が無い。真後ろにいた教員は壇上に夢中だったし、文芸部に続いて登壇した吹奏楽部の演奏は賑やかだったものの、惰眠を貪るのに困るほどではなかったということだ。




