一章の一
一
その日の天気は快晴とまでは言わないものの、それはあくまでお天気お姉さんの用語上のことであり、俺たち一般人の目には充分に快晴であると認識される春の日のことだ。その日はこの年の頭ごろ、正確には二月ごろに心身をすり減らすように勉強をした結果、何とか合格を果たした青羽高校の始業式が執り行われた。
これからの期待やら不安やら抱え込みながらも、咲き乱れる桜の花を愛でつつ、俺たち新入生は前日に行われた入学式と同じ会場である、だだっ広い体育館に集まった。保護者同席で行われた入学式とその後の短いホームルームで諸々の説明は受けているが、今日が学生生活の本格的なスタートだ。浮かれていた気分は校長をはじめとする教員による長話で眠気へと変換され、それぞれの教室に向かう頃に至って、怠惰な雰囲気に包まれていた。
まったく、折角めでたい日だと言うのに、あの長話はいかがなものか。
「アンタ、めでたい日とかどの口で言ってんの?」
後ろからぞっとする声がするな。気のせいだといいんだが。
「ぞっとする声って、それはケンカ売ってると思っていいわけよね?」
……なんでコイツとまた同じクラスなんだろうな。このクラス分けは誰かの陰謀か? 呪いか?
「大げさな話にすな。そりゃアタシだってそろそろアンタの顔は見飽きたけど、一年生は六クラスなんだから、確率的には大したもんじゃないでしょ」
「確率なんぞ考えたくもないな。俺はただ我が身の不幸を嘆いただごふ」
最後のごふ、は背中を蹴られたことによる俺のささやかな悲鳴だ。ぎゃーとか言わないだけありがたいと思って欲しいところだ。おかげで教員に見咎められずに済んだんだからな。
「ケンカ売るならせめてこっち向いて喋れ」
なかなかドスの利いた、迫力のある声だ。仕方ないので振り向く。
「いきなり蹴るな。新学期早々背中に上履きの靴跡とか切なくなる」
「ふん。アンタは一言多いのよ。もうちょっとアタシをそんちょーしなさい」
と良く分からない妄言を口にしながら仏頂面をこっちに向けているのは、あー、こういう言い方は古臭くてイヤなんだが、幼馴染の松和亜紀だ。
亜紀と知り合ったのは小学校に入った直後になるから、今年で早くも十年目の付き合いになる。流石に高校に入ってまで同じクラスになるとは思いもしなかったが、偶然というのは恐ろしい。どこか大人びた顔立ちは昔から整っており、子供っぽさはあまり見られない。中学に入ってからすごい勢いで伸びていった身長と反比例するように子供らしさは急速に薄れていった。小学生の頃は俺と同じくらいのベリーショートだった髪型も中学に入って伸ばしはじめ、今では肩に届くあたりで収まるように手入れをしているようだ。中学時代のクラスメートに「松和は胸があれば完璧」と言っていたやつがいたが、それには異を唱えたい。小さな胸が好みだとか言う話ではなく、コイツの見た目に騙されるなということだ。
「何かまた失礼なこと考えてない?」
心を読むな。
「語るに落ちたわね」
しまったと思ったときにはもう遅く、再度蹴飛ばされた。それほど痛くは無いんだが、身長がある分、足が長い。教員はそばにいなかったため助かったものの、クラスメートから不要な注目を浴びてしまうのは勘弁願いたいんだけどな。
さらに亜紀からあれやこれやと文句をつけられながらも、これから一年間過ごすであろう教室、一年三組に到着した。
中学でもそうだったが、この高校でも出席番号は五十音順でつけられるようだ。ちなみに小学校時代は誕生日順だった。既に入学式時に一度クラスには足を踏み入れており、出席番号四十番でこのクラスの最後だった。
「……あれ」
そこで俺は気付いた。
入学式で張り出されていたクラス分けでは、俺が一年三組の出席番号四〇番で最後であり、昨日座った席は後ろに机は無かった。だが、今現在俺の名札が貼られた机は、廊下側の後ろから二つ目だった。なんとなく数えてみると、机は横六列で、内五列は縦に七席並んでおり、廊下側の列の最後尾が一席欠けていた。四十一席ある計算だ。間違いなく昨日より一つ机と椅子が増えている。
「何ぼけっとしてんの? 首痛いの? 頭悪いの?」
ぼんやりしているととんでもない悪言が聞こえた。見ると亜紀が俺の席の左横に鎮座し、こちらを見て変な顔をしている。気付けばほとんどのクラスメートが既に着席していた。
「この机なんだろな?」
自分の席に腰を下ろすと、名札の無い机を軽く小突きながら亜紀に聞いてみる。悪口はスルーするのが上策だ。特にコイツのは挨拶代わりの軽口という意味合いが強い。蹴りさえ飛んで来なければ騒ぎ立てるほどのものではないのだ。
「分かんないけど、説明あるでしょ。大人しくしてなさいよ」
……亜紀に大人しくしてなさいとか言われるなんて。
「何で世界の終わりみたいな顔してるのかしら?」
何でもねえよニッコリしてるのが怖いよいやまじでやめてくださいオネガイシマス、などと抗議していると、隣のクラスの扉が開く音が聞こえるのと同時に、チャイムが鳴り響いた。どうやら時間になったようだ。何人かの教師が廊下を歩く足音、それに扉が開閉される音が聞こえてくる。
それぞれのクラスで何事か始まった気配がしたとき、廊下からスリッパの足音と共に妙な音が聞こえてきた。何か硬いものがフローリングに接触するような、コツンという乾いた音だ。定期的に響かせながらこちらに近付いてくる。
教室の廊下側に据え付けられた窓は若干高い位置にあるため、座っていると覗くことが出来なかったが、ほぼ俺の真横辺りまで進んだところで音の正体に気付く。
「……松葉杖かな」
ぼそりと言ったのだが亜紀には聞かれていたらしく、ちらっとこっちを見てくる。地獄耳め、とさらにぼそりと言ったのに、視線の温度が一気に冷たくなった。
だが、寒風を伴う視線によって体力が低下する前に我らが一年三組の扉が勢い良く開いた。
「おはよう!」
ビックリマークつきの挨拶で俺たち一年三組の生徒を驚かせたのは、濃紺のスーツの上下に身を包んだ若い男性だった。きびきびした動きで教壇の前に立つ。爽やかだ。
「やあ、皆揃ってるね! 改めて、一年間よろしくお願いします!」
と言うと同時に深々とお辞儀をするのは昨日の入学式で顔合わせをした担任教諭の佐藤勉だ。一目で鍛えていることが分かる体つきで分かる通り、担当科目は体育で、剣道部の顧問をやっているということを昨日の自己紹介で聞かされた。スーツも着慣れていないのだろう、似合っていない。
「えー、皆さんに紹介したい人がいます」
……これで自分の嫁、もしくは子供の写真を取り出したら俺は尊敬するね。控えめなデザインの指輪が左手薬指に収まっていたので既婚者だと察しは付いたが、子供がいるかどうかまでは分からなかった。
入って、という佐藤の言葉に反応し、先ほどの乾いた音の主が教室に入ってくる。
教室がざわついた。主に男子が。
そいつは女だった。男どものざわめきがその姿を表しているだろう。良く手入れされた黒髪が腰の辺りまで伸びていて、光沢を放っている。眉毛は細くするのが流行、というより当たり前だと思っている人間が多いらしいが、彼女の形の良い眉毛はそれなりに太いままにされている。黒目がちの瞳はくっきりとした二重だが、眠いのだろうか、若干細められており、それがまた穏やかな雰囲気を醸し出していた。鼻は小ぶりだが形良く、口は微笑を形作っている。亜紀が着ているものと同じデザインの学校指定のブレザー姿が良く似合っている印象を受けた。身も蓋も無い言い方をすれば、人目を惹く容姿の女生徒だった。
音の正体は半分当たりで半分外れた。松葉杖ではなく、何やら変わった形状の杖だ。左足を患っているのだろう、そちらを補助するための杖を突いているのだが、松葉杖のように脇に挟んで保持するタイプではない。肘に当たる部分についたクッションを起点にまっすぐ棒が伸びていて、その途中に手で掴むためのグリップがある。恐らく全体重を杖で支えなければならない状態ではないのだろう。
そいつはゆったりとした動作で教壇の脇に立つと、居並ぶ俺たちを見た。いや、見たというより、眺めたというほうが正しいかもしれない。
「あすか はる、と言います。よろしくお願いします」
名前みたいな苗字だな。名乗った当人は微笑の形を崩さないまま、にこやかに頭を下げる。それまでの間に、佐藤教諭は黒板にその名を板書していた。安宿 葉流と書くらしい。珍しい字だ。
「安宿さんは昨年入学したんですが、諸般の事情があって今年も一年生をやることになりました」
またざわつく。諸般の事情って何だ。
「あ、成績が悪いとかじゃなくて、ケガの治療のために長期間入院していたためです。皆さん仲良くしてください」
それを先に言っとけよ。若い教員だから緊張しているのだろうか、浮ついた感じがするというか迂闊というか。
安宿当人はその微笑を一ミリも崩すことは無かったが。
「じゃあ席はあそこで」
と指差したのは俺の後ろの空席だった。この机はそういうことか、と一人で納得する。
「それではみんなに自己紹介してもらいます。出席番号一番からお願いします」
そう佐藤が続けている間に、安宿はひょこひょこと左足を引きずるようにしながらも杖を器用に使いながら歩いてきて席に落ち着いた。
俺はといえば、頬杖をつきながらぼんやりと、珍しいやつと同じクラスになったものだけどまあ席が近いだけだし、どうせそのうち席替えでもやるだろう、と、他人事だと思って聞き流していた。ちなみに俺の真後ろの席に座った安宿の隣の席に座っている男子が、早速何やら話しかけていた。頑張るねぇ。
黒板に向かって左、窓際の先頭から出席番号順に並んでいる生徒が一人ずつ立ち上がり、自己紹介していく。大体の生徒が氏名、出身中学、それにプラスアルファで中学時代の部活や趣味なんかを述べていく。中にはウケを狙ってギャグを放り込んでいる猛者もいたが、教室の温度を下げるのに貢献する結果になったのは言うまでもない。言っておくが、お互いに探り探りの新生活初日に勇猛果敢にチャレンジした連中には賞賛を送りたい。真似はしなかったが。
比較的早いテンポで順調に流れて行き、俺まで回ってきた。言うことは決まっていたので特に考えずに立ち上がり、
「万矢 涼介、北中出身。よろしくお願いします」
そして再び腰を下ろす。それだけ? と問うような視線を隣の席から感じたが反応しなかった。そちらより気になる呟きが後ろの席から聞こえたからだ。
「……なるほど、君が詩織の弟か」
ぼそりと言ったからだろう、教壇に立つ佐藤には聞こえなかったようで、事務的な説明に移っている。
どちらかというと後ろからの呟きに興味を惹かれた俺は、もたもたと振り向いた。先ほどあれこれと話しかけていた男子が若干鼻白んだようだ。良く見るとこの男子、かなり美形な顔立ちをしているがなんて名前だっけ、と思ったところで自己紹介の八割は聞いていなかったことに気付いた。とはいえしっかり聞いていたとしても四十人も一気に覚えられるわけがない、追々覚えていけばいいさと思い直し、いまだ微笑を顔に貼り付けた女子を見る。
「姉貴の友達か?」
詩織、というのは俺の一つ年上の姉で、同じ青羽高校の二年生である。ああそうか去年この安宿と一緒に入学したことになるのか。
「詩織とは中学からの付き合いになるかな」
中学からか。なんか口調が独特なやつだ。男っぽいというのとは少し違うけど、なるほど、なんて実際に言うやつ初めて見たかもしれない。
「ふうん。姉貴が世話になってるようで」
「君のお姉さんは私の世話など必要としないさ」
「ならいいんだけどな」
そこで話を切り上げ、前に向き直った。佐藤の話はまだ続いており、入る部活はゴールデンウィーク前までに決めること、という説明から自身が顧問を勤める剣道部への勧誘が始まったところだった。
俺がこの後の説明の大半を夢現で聞いていた事は言うまでも無い。




