金眼の聖女(二)
非難囂々、紆余曲折。
たが結局は、私の意見に反対はなく、作戦は開始された。
私の指揮のもと諜報班は貴族区で情報を集めるとともに、紱魔班は不測の事態にそなえ対象となった貴族周辺に張りつく。
あつめた情報から指示を更新し、商業区については役割の多くをイザベラに任せ、その子どもたちが諜報協力者となって情報収集にあたった。
私はというと指揮命令のほか、もっとも憂慮すべき相手に接近をはかっていた。
同期アルエ=ヒルスラである。
アルエは商業十二区の立候補者ミズリ=キートランの後援会長として組織をまとめる立場にあった。人の嘘を見ぬく力をもつアルエはまさしく諜報の天敵といえる。なので彼女の手のうちを知りつくす私みずから後援会の運動員としてまぎれ込むことにしたのだ。
『ルーズさんですね、よろしくお願いします。この戦い一緒に勝ち抜きましょう』
魔法光で文字を宙につづったアルエに、私は無言のままこくり頷く。
アルエは聴力にとても優れている。私がひとたび何か喋れば、たとえ魔術で声を変えたとしてもすぐにバレるし、彼女は体内の魔力を透かしみて相手を特定することもできる。ただ、私に流れる魔力は至って平凡であり、阻害魔術でその存在をうすめれば、私と認識できないことは騎士学校時代にひそかに検証ずみであった。
つまり口のきけない役に徹すればアルエに見破られることはない。
『目のみえないわたしと耳のきこえないあなたとでは、なにかと意思疎通がむつかしいと思いますがよろしくおねがいしますね』
彼女の笑顔をひさしぶりに見た。騎士学校時代からずいぶんと毒気が抜け、やわらかな表情をうかべている。
そんな彼女は後援会長で、私は末端運動員である。挨拶をすませればもう会話をかわすことはほとんどない。十名ばかりの運動員たちの信用を勝ちとるため、私は積極的に雑用を引きうけることにした。
『ルーズくん、これ貼れる?』
こくり
『おいルーズ、この伝票、書けるか』
こくり
『ルーズちゃん、これ組み立てたりできない?』
こくり
少々頼られすぎな気もするが、みな熱心に候補者ミズリ=キートランを当選に導くべく、自身のやれる範囲で精力的に活動していた。
ここは商業十二区。商業区のなかでも最後尾ナンバーであり、住まう市民は内包魔力にとぼしく魔術をまともに扱えない貧困層であった。
都市南端に位置するここは、見上げるばかりの巨大な外壁がすくそばにそびえ連なっている。それがつねに陽射しとなって一日ずっと陽があたらない。昼でも仄暗くカビた匂いが立ちこめていた。
「さあみなさん、お待ちかねのお昼ですよ」
私は耳がきこえてない設定なのでひとり黙々と作業をつづけていると、アルエが私の肩をたたいて筆談でそれをしらせ、平屋に卓をかこんで食事をとる。
野菜の切れ端とわすがな肉を煮込んだ塩スープに、硬くしなびた黒パンをひたして食し、みな明るく語りあった。口のきけない私は黙々とスープとパンを食らった。
私の仕事ぶりに目を留めたのか、アルエは私を隣席に招いてその仕事ぶりをわざわざ筆をとってねぎらうも、ふと物憂げな表情でぼそりつぶやいた。
「神学校や庁舎よりずっと居心地がいいだなんて皮肉です」
私は聞こえないふりをし、ふやけたパンを口いっぱいに頬ばって『おかわりほしい』とねだると、アルエはぶっと吹きだして『いくらでもどうぞ』と笑った。
十二区に住まう彼らはみな生きるのに必死だ。魔術都市カンテラで魔力を使わずに生きるにはどうしたって困難がつきまとう。水を捻るにしても、湯を沸かすにも、ランプひとつ灯すにしたって今や魔術起動が主流となっていた。
それすら扱えない彼らのつくる日用雑貨は安値で買いたたかれ、みな困窮に喘いでいた。だが、国はそんな彼らを都市から追いだすことはしない。むしろ配給までして保護している。それは単なる福祉としてではなく、餓死による疫病を防ぐとともに、差別対象としてこの閉鎖空間で暮らす市民の不満のはけ口に利用しているからにほかならなかった。
彼らはそんな辛酸を舐めさせられつづけてきたが、今はもう違った。アルエに見いだされ、ローア神の加護をうけることで魔力に目覚め、今では明るい未来に想いをはせ活き活きとしていた。
もし国に申請すれば、魔力適性と職能にあった区にあがれるだろうが、彼らにその意思はまったくない。神のお導きのもと、アルエとともにこの十二区からミズリ=キートランを市議に輩出する。皆すでに熱心なローア教信者となっていた。
しかし当の立候補者ミズリ=キートランはここにはいない。彼女は貴族西区に住むスコット伯家の令嬢ミズリ=スコットとの裏はとれている。登記上は商業十二区の住人とされているが、そういう偽装がこの国ではまかり通っていて、選挙においてはよくある手法のひとつだった。ゆえに私はアルエに訊いた。
『ミズリ先生はどこですか』
『彼女はとてもお忙しく、残念ながら今はお逢いできないの』
首を横にふるその表情はさえない。アルエもまた教会の指示に従って動いてるにすぎない。それでも運動員の慕いようをみれば彼女のあつい信仰心に疑いの余地はないだろう。
昼休憩がおわると彼らは仕事につく。より価値のある商品をうみだすべくアルエから魔力操作の指導をあおいで作業に没頭し、魔力細工のほどこしたガラス食器や木工品に一喜一憂しながらそれを金にかえてくる。そのほとんどが選挙費用、布教活動、そしてローア教会の献金に消えていき、教会の懐だけがうるおう。
まさしく宗教ビジネスがここに成り立っているわけだが、彼らはじつに幸せそうであった。私もそれに交じって不器用を演じれば、みなに可愛いがられ、アルエも熱心に私の指導にあたった。
騎士学校では見たことのない肩に力のぬけた彼女の姿に、はたして私を殺すなどいう凄惨な末路にどう行き着くのか、いまだ検討もつかなかった。それでもこれだけ彼女の懐に深く入りこんだ以上、まもなく彼女に殺されるのは間違いないだろう。
――いずれ貴方を殺すことになります
彼女の予知夢に例外はない。その検証において私は今に至るまで何ひとつその未来を変えることができなかったのだから。
◇
『お疲れさまでした。それではまた明日』
日没になってアルエたちと別れ、薄闇の路地へと分け入る。細く奥まった道で伝達役の少年ロキからすれ違いざまに小包みを受けとった。
「はいこれ」
なかには水晶の欠片がひとつあり、あらかじめ知らされてあった魔術暗号を念じれば脳内に鮮明な映像がうかびあがって、水晶の欠片はさらさらと砂となって風に消えた。イザベラの特異な魔術に舌をまきつつ、私はすぐさま二班を集めて情報共有にあたる。
私は言った。
「六区、九区の後援会はすでに公安が複数潜入していて守りが固く、候補者との接触は事実上不可とのことです」
イザベラよりもたらされた情報にみな眉をひそめる。
「参ったわねぇ、でもま、商業区はもともと公安のテリトリーだし」
「ならさ、もういっそのこと、その二区は公安に任せればいいんじゃね?」
「ですね、あと二日しかありませんし、残すはグレイが警戒している十二区だけですから、そこに集中すれば――」
断ち切るように私は言った。
「そうもいかないようです。公安の目は外に向き、工作活動も見られず、むしろ対象者を保護しているようにすら感じたそうです」
「え、うそ、なによそれ、あの公安がローア教と手を組んでるとでも」
「行政省が旧帝国勢力と組むとかさ、さすがに何かの間違いじゃないのか」
「その点ふくめカステイラ係長、何か情報はありますか」
「はいはーい。えとまずね、貴族西区のスロット伯家ですが都市ウエストジェムの司祭と繋がっているのは間違いないみたい。けどそれ以上は探れなかったの。伯爵はご高齢でずっと外出してないし、警備も尋常じゃなくて。あとリリもこっちに内緒で同じように動いてた形跡あり。グレイくんの言うとおり、これはヤバい臭いがする」
「え、うっそ、リリシアまで。どうなってんのこれ」
議論が暗礁に乗りあげるなか、ずっとだんまりを決めていたヒースがはじめて口を開いた。
「なあみんな、薄々分かっているとは思うが俺もローア教信者だ」
場が沈黙する。
みな固唾をのみ、ヒースの次の言葉をまった。
「魔法省外局諜報課ってのは、そのおおくが外部採用だ。色んな問題を抱えて、どうにもならなくなったところをリリシアに拾われて、その恩に報いたくて命賭けようっていう連中がほとんどだと俺は思ってる。こんな仕事、金以外はホント割にあわないしな。まあグレイなんかは例外だろうが」
黙り込むメンバーに、ヒースは卓上の仔猫サフィアの背をなでながら言った。
「俺は今でも女神ローアを信じてる。そのおかげで治癒の力が使えて、何度も仲間を救えた。この猫だって救えた。だがな、けってしてあんな糞みたいな母体が同じローア教だなんて今も認めていない。あれは地獄だった。もう二度とあんな想いはしたくないし起こさせない。要するにそういうことなんだろうグレイ。そろそろ教えてくれ。みんな全体像が見えず少なからず不満をためてるんだ。まず、その上っ面な敬語をやめろ。お前は俺たちの命を預かる指揮官なんだぞ」
剣呑とした眼差しのヒースに、私はこたえる。
「そうかわかった。ではこれより本作戦をすべて開示する。この内容の一切を他言無用とし、もし情報が漏れれば、全員命はないと覚悟をきめてくれ」
みな目配せしたのち同じタイミングで首肯した。私は言った。
「まずヒースふくめた紱魔班は地方都市ウエストジェムの教会に信者として潜入、対象者を捕獲。諜報班は魔法省軍部研究開発部門をマークし教会との関係を徹底的に洗いだして欲しい。今からその詳細と今後予想される事態、展開、行動パターンについて説明する。頭にたたき込んでくれ」
すべて伝えると反応はさまざまで、頭を抱える者、呆れる者、笑いだす者。うちヒースは小さくうなずき、私の目を見て言った。
「今回の指揮はお前じゃなきゃ無理だった。それを見越したリリシアもやっぱすげえよ。だから任せとけグレイ。お前はお前で元カノを救ってやれ」
「いや、それはまったく違うんだが」
「えー、あの情報通のラスクが元カノだって言ってたんですけどぉー?」
「それな、めっちゃ美人って聞いてる、うらやましいわー」
「え、なに、どういう意味よそれ」
「……いや、その、なんでもないです」
「ボクもてっきり元カノとイチャイチャしたくて指揮命令をおざなりしているかと疑っていたところでした」
なるほど、彼らと腹を割って話すとなにやら面倒くさいことがよくわかった。あとラスク氏の評価を下方修正しておこう。根も葉もないことを吹聴してまわる件についてあとできつく問いただすことにするが、それもこれも私がこの作戦で生き残れたとすれば、の話だが。
みな盛り上がるなか、ひとり浮かない顔のマロンちゃんが私に耳打ちした。
「ねえグレイくん、ちゃんと生きて返ってくるよね」
「ええ、もちろんです」
私はひとつお願いごとをする。
「これを預かってもらえませんか」
「ん、なにこれ」
「然るべきとき、然るべき相手に渡して欲しいんです」
◇
「なあクロノ、これ終わったらお前のバディ、俺に貸してくれないか」
「はい? 藪から棒になんですか」
「ま、考えといてくれ」
定期連絡のヒースの言葉にわたしは驚きました。あれだけ頑なにバディを組みたがらなかった彼に、まさかこんな日が訪れようとは。まったくあの後輩は一体なにをしでかしたのでしょう。あとで口の軽いキリィあたりを懐柔するとして、わたしは望遠レンズ越しに対象者の監視をつづけます。
今回リリシアよりグレイと別働で命じられた任はスコット伯爵家の調査、監視。ゴートン候を筆頭とする西系貴族のなかでも、なぜか取り立てて権力をもっているわけでもないスコット伯家を調べよとのこと。理由は定かではありませんが、おそらく今回もグレイが一枚噛んでいるのでしょう。グレイは別班の指揮命令をとる立場にありながら、十二区ミズリ=スコットの後援会に自ら潜入しているとのことで、それを受けてリリシアもスコット伯爵家に着手することを決断したようです。
スコット家は地方都市ウエストジェムの辺境伯家につらなる血族にあたります。
大陸中央に横たわる四つの都市ノースフラン、ウエウトジェム、サザンポート、イーストンは二大列強であった旧帝国と旧盟国に挟まれた土地に位置していることから、かつて激しい戦渦に巻きこまれ、戦場の最前線となっていた時代がありました。
そんな暗黒時代から逃れるべく四都市はひそかに手を組み、長年の戦争で疲弊していた二大列強を出しぬくかたちで和解、独立宣言を果たすとともに都市連合国を樹立。中立不可侵をモットーとし、その運命共同体としてこの地に中央都市カンテラを建国するに至りました。さしあたってウエウトジェムからはゴートン家をはじめとする有力家が先遣隊としてむかい、西方魔法と治水技術でもって都市発展に寄与。新たに爵位を得て、うちスコット家は百年以上つづく伯爵家となりました。
スコット伯家はその功績から川沿い一角の地主となり、その地代で代々生計を立てています。働かずとも生涯金に困らず、グレイがさぞ羨ましがるであろう安泰の暮らしぶりです。
かたやローア教は当時から西方圏に位置するウエストジェムの国教となっていましたが、多様な人種が集まるカンテラとは相容れず、その信仰はずっと下火のままでした。それはローア教が女神ローアを唯一神とし、ほかの宗教はすべて悪魔教とする過激な思想をもつため、ほか三都市からの激しい反発をうけ、いつしかゴートン家をはじめとする西方貴族たちもローア教と距離をとったかたちです。
しかし今になってその関係は再燃。接近をはかりだしました。それは一にも二にも貴族たちが百年以上の安泰を享受したことによる危機意識の低下と、その間隙をつくローア教のしたたかなロビー活動によるものでしょう。
スコット伯家はいまも川沿い一角の地主ですが、その区画は第二魔術倉庫もふくみます。スコット家の影響力は当然ながら倉庫所有の商会までおよび、その倉庫で例の事故は起きました。まったく事故かも疑わしいですが、その一切を管轄の軍部が秘匿し、その軍部にはスコット伯の嫡男ウィリスンが在籍しています。スコット家当主は高齢で寝たきりのため、代がわりもまもなくのことでしょう。
そして今回の選挙戦においてはウィリスンの次女ミズリ=スコットが貴族令嬢ながら十二区に立候補。ミズリ=キートランという偽名ではありますが、あからさまなやり口にもかかわらず貴族院は沈黙。その議長は西方貴族の筆頭ゴートン候。
はたして一連の動きはすべて偶然でしょうか。
現在、すでに調べがついているのは次女ミズリ=スコット。連日とくに必要もないパーティーに繰りだし、立候補者としての支持を取りつけるわけでもなく昼夜遊び暮れているとのこと。あきらかに市議の器になく、立候補したところで当選の見込みもないですから、スコット家としても周囲に恥を晒すわけにもいなかないので、公示前にみずから取り消すとみてまず間違いありません。
ではなぜミズリ=スコットは立候補したのか。それは軍部による撒き餌とみるべきでしょうか。その対象は行政省公安、あるいはうち諜報課。とくに諜報課は魔法省内にありながら独立した組織であり、軍部からすればさぞ目障りな存在でしょうから。
グレイも当然ながらすべてを理解しているはずで、それでもなおミズリ=スコットが立候補する十二区の潜入からいっこうに手を引く気配がありません。そればかりかグレイからの報告の詳細がふいに途絶え、いったいなにを目論んでいるのか見通せなくなりました。
またですか。
また何かやらかす気ですか。
ええ、ええ、バディゆえわかってますとも。
ほんとにどうしようもない後輩ですね。
と、わたしに新たな連絡が入ります。
「クロノちゃん、ちょっといいかな」
「どうしましたマロン」
「あのね、グレイくんのことなんだけど」
マロンまで後輩ですか。
同僚からのグレイ問い合わせはもう五件目。
ただ、マロンは随分と落ち込んだ様子。
「ついに何かやらかしましたか」
「え? ううん違うの。彼に死相がでてないか占って欲しくて」
「ああ、死相でしたらもちろん出てますよ」
「エエッ!?」
ヒースといいマロンといい、本当にあの後輩は。
「言っておきますと、今回で二度目です」
「……そ、そんなことありえるっけ?」
「あり得ません。初めて見ました」
「……だよね?」
「死相の見えた人間はまずもって死にます。ですから二度目なんてありません。魔術倉庫の一件のとき、スコープ越しに見えた死相で、彼は死んだと完全に思いました。ですが彼は今も生きています。つまりそういうことなのでしょう」
「そういうこと?」
「東方魔術卜占は極めて高い確率論術式ですが、死相がでても死なない未来がほんのわずか残されています。グレイはそのわずかな生存可能性を引き当てたのでしょう。もちろん運ではなく必然として。わたしはそう解釈しました」
「……そっか」
「マロン。わたしなりに彼と接してわかったことがあります」
「なんだろ」
「彼は怠惰で優秀で仲間想いな阿呆です。天下るまで決して死にませんよ」
「……だね、ありがと!」
明るく声を弾ませ通信は切れました。マロンは課のムードメーカーなのですからいつも元気でないと我々みなが困ります。ただ、グレイの身に危険が差し迫っている事実に変わりありません。あの後輩のことですから心配するだけ損なのでしょうが、バディとして何かしてやれることはないかと考えれば、ひとつだけ心あたりがありました。
『時戻りの力』をもつ英雄の末裔クロック=リーズリー。
彼がいれば、誰が死のうがすべてなかったことに。
一国の行く末を簡単に転がせる、恐ろしい固有魔法の持ち主。
きっとグレイはそれを望んでいないでしょうが死なれては元も子もありません。もっとずっとわたしに先輩面させてもらわないと困ります。せっかく馴染んできたバディをヒースに譲る気もありません。
わたしは英雄の末裔に手紙をしたため、周辺をうろつく少女に声をかけました。
「イザベラさんにこれを」
「えっ、あなただれ!?」
あわてふためく愛らしい少女は、しかし手紙を受けとるとすぐに平静となり周囲に溶け込むように大通りに消えていきました。わたしは彼らが炭鉱都市コークスを国外逃亡するにあたり顔写真つき身分証を用意した張本人ですから、彼らの顔は全員おぼえていました。あとは情報屋に託すとして、わたしはスコット伯家の監視をつづけます。
――――!!
ついにきました。
リリシアの賭けは当たり。
結界外に漏れでるほどの魔力源泉。
魔術でなく魔法のそれ。
神に汲みする人智を超えた力。
女神ローアの秘蹟。
わたしはすみやかにリリシアに連絡をいれます。
◇
路地の一角、黒の礼服に洋杖とシルクハットで着飾った紳士を、私は呼び止める。
「ご無沙汰しております兄上」
「はて、わたしを兄上と呼ぶ人物にまるで心当たりはないが、まあ風のたわむれとでも思っておこう。それで?」
「公安に手を引くよう進言していただけないでしょうか」
「ふむ。わたしは商人の端くれだ。その本質はなんだと思う」
「最大利益の追求、でしょうか」
「まさしく。だが、それは商人に限らない。公安しかり、軍部しかり、ローア正教しかり。そして過ぎたるは及ばざるが如しという。ローア神の秘蹟を知っているかい」
「同僚より聞き及んでおります」
「サクラメント。なかなかに厄介でね。誰かが汚泥をそそいでくれるなら、私は市議などという堅苦しい枠におさまる必要もなくなるのだが。まぁすべては独り言」
「わかりました。かならずや公示前、明日までに終わらせます」
「吉報、吉報。風のたわむれも時に役立つらしい。では刻限まで待つとしよう」
どこまでも紳士然とした男は路地奥へと姿を消した。
兄上のやり口はいつも褒められたものではないし、突きつけてくる条件もまったく割に合わないのだが、約束だけは必ず果たす男だ。リリシア課長もこの橋渡役をまずまっさきに私に期待したのだろう。
私はひとり地下道へ降りていく。
すでに準備はつくした。
あとは友と向き合い、全身全霊をもって神に喧嘩を売るだけ。
むろん殺される気など微塵もない。




