閑話:長兄ラファエルの独白
ラファエル・ヴァレンツは、弟の背中を見ていた。
暖炉の火が柔らかに揺れ、窓の外には春の宵が沈んでゆく。昼間のあたたかさが残る空気のなかで、アナスタシアが静かに食器を片づけていた。父はもう部屋を後にし、自分もそろそろ立ち上がるべき頃合いだった。
だが、立てなかった。
弟が椅子に腰掛けたまま、火を見つめている。その眼差しは、何かを見ているようで、何も見ていないようだった。遠くを、思い出しているような。あるいは、まだ来ぬものを、確かに感じているような。
静かに笑っていた。昔からそうだった。喜怒哀楽を派手に見せることなく、だが誰よりも深く何かを感じているような眼をしていた。母が亡くなったときも、次兄を失ったときも、ユリウスは泣かなかった。ただ、その眼差しの奥が、誰よりも痛んでいた。
それを兄として、見てきた。守りたいと思った。彼は家に残り、書物を読み、庭で杖を振っていた。何者にもならず、何者でもいられるように見えた。
だが――
(……ユリウス。お前は、どこまで行くつもりなんだ)
心の中で、そう呼びかける。言葉にはしない。
ユリウスは、何かを考えているくせに、それを表に出さない。目立たず、騒がず、家の空気に静かに馴染んでいた。
けれど、ラファエルにはわかっていた。いや、わかってしまっていた。
あいつは、ここに馴染みすぎていない。ぬるま湯のようなこの日々を、どこかで“美しいが完成されすぎた静物画”のように思っている。父の語る道徳や、領民の生活、神殿の儀式、それらを尊重しながらも、どこかで物足りなさを感じている。それが顔に出たことは一度もないのに、ラファエルはそのことを、ずっと前から知っていた。
アナスタシアのことを連れて帰ってきたときも、そうだった。
驚いた。だが、それ以上に納得してしまった。
あいつなら、そうする。助けるべきかどうかではなく、「放っておけない」と思ったのだろう。理屈じゃない。けれど、その行動の奥には、理屈を何重にも重ねた末の“決断”がある。
それが、あいつのやり方だ。
父のように、人の心を率いていくわけではない。自分のように、剣で示すでもない。
ユリウスは、誰にも見えない“何か”を問い詰めて、問い詰めて、誰にも見えないかたちで斬っていく。
静かで、やさしくて、誰も傷つけずに、それでいて――いつか誰かを遠くへ連れて行ってしまいそうな、そんな予感がある。
(お前がどこまで行くのか、まだ俺にはわからない)
(だが……その歩みが、俺には理解しきれない場所へ続いている気がする)
そう思って、微笑む。皮肉でも、哀しみでもない。ただ、兄としての素直な胸のざわめきだった。
弟の志が、優しさから始まっていることを、ラファエルは疑わなかった。
だが、志というものは、優しさのままでは終われない。信念を持ち続けるには、誰かを背に置き去りにせねばならない時が来る。
そしてその時、弟が選ぶのは――自分がいまだ立ったことのない場所かもしれない。
(……そのとき俺は、どんな顔でお前を見ればいいんだろうな)
感情を言葉にせず、ただ静かにそう呟いて、ラファエルは立ち上がった。
杯を手に取り、春の夜風へと足を運ぶ。その背を追うものはなかったが、彼の中にだけ、少し早い風の兆しが吹き抜けていた。
静かで、やさしくて、そして、どこか切ない風だった。