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第5話:団らんとユリウスの刃

春の陽気が残る夕刻、ヴァレンツ邸には、父・ギルベルトと長兄・ラファエルの姿があった。


母は数年前に病で亡くなり、次兄も青年の年で不慮の事故によりこの世を去っていた。そうした過去を抱えながらも、残された家族は少しずつ、静かな日常の形を取り戻していた。


この夜もまた、失われた人数を補うように、暖かな団らんの時間がゆっくりと流れていた。


父もラファエルも、長旅の疲れがあったはずだが、顔には心地よい緩みが見え、久々の食卓を誰よりも楽しんでいる様子だった。暖炉には火がともり、炉の上には香草とバターの香りをまとった肉料理が湯気を立てていた。


「この煮込みは……アナスタシアの仕事か?」


父がスプーンを口に運びながら眉を上げる。誰より舌の肥えた人だったが、その表情には素直な驚きがあった。


「うん、そうだよ。最近は香辛料の調合も覚え始めてね。あまり口数は多くないけど、覚えは早い」


ユリウスが答えると、兄のラファエルが頷いた。


「なんというか……不思議な子だよな。時々ふっと消え入りそうな目をしているが、今夜は穏やかだった。領都に連れて帰ってくるって聞いたときは驚いたけど、いい子じゃないか」


「うむ。食事を囲む手がひとつ増えるというのは、それだけで家が温かくなるものだな」


父もゆっくりと杯を傾けながら、目を細めた。


その穏やかさの中で、ユリウスはふと、ゼーヴェルの姿を思い出していた。


あの視線。あの声。あの問いかけ。


――君は、どこでそんな視点を得た?


だが今、この食卓には、剣も秤もない。ただ、やさしい時間が流れていた。ユリウスはその空気を壊すような言葉を慎んだ。


「そういえば、ゼーヴェル様がいらしたとか?」


不意に兄が切り出した。軽く杯を傾けながら、興味半分といった口調だった。


「父上から手紙をもらって、腰を抜かしそうになったよ。まさか我が家に宰相殿が来られるとはな」


「視察のついでらしいよ。書類を少し見て、少し話をしただけさ。特別なことは何もない」


ユリウスは淡々と返した。それが嘘であることは、自分でもよくわかっていた。


だが、ここにいる家族にとっては、それで十分だった。父は頷くだけで、深く追及しなかった。兄も肩をすくめ、別の話題へと移っていった。


それでいい。家族は、ユリウスの深部まで覗こうとはしない。信じてくれているからこそ、余計な詮索をしないのだ。彼らのまなざしは、無知ではなく、あたたかい無関心であり、包容だった。


――この空気を壊す権利が、僕にはあるのか?


ふと、そんな問いが胸をよぎる。


だがユリウスは、食卓を見渡して、静かに首を振った。


ギルベルトの皺の刻まれた頬。ラファエルの少し大きな声。隣の席には、食器を丁寧に片づけるアナスタシアの姿。


誰もが生きている。今日という日を、大切に。


その姿に、ユリウスは言葉を交わすことなく、深く感謝した。


だからこそ、僕はこの“静けさ”に挑む。

それが、家族のためであるとは誰にも言わない。そんな安っぽい正義を振りかざす気はない。だが、これほどまでに穏やかで、美しいものが確かに“存在する”と、肌で知っているからこそ、その価値を制度というかたちで証明したかった。


食後、暖炉の火が静かに揺れていた。


父は本を手に取り、兄は葡萄酒の残りを持って書斎に向かう。


ユリウスも立ち上がろうとしたとき、アナスタシアが声をかけた。


「……ありがとう、ございます」


「どうして急に?」


「今日のこと……こうして、家族のように一緒に過ごせたのが、うれしかったから」


彼女の声は小さく、けれどしっかりとしていた。ユリウスはそれに、ただ微笑みで応えた。


そして部屋に戻ると、蝋燭を灯し、手帳を開く。


今日は何も書かない。


ただ、火のゆらめきの中で、胸の奥にある“剣”のような思想が、静かに鍛えられていくのを感じていた。


風は、まだ吹かない。


だが、やがて訪れる嵐に備えて、鞘の中の刃を、彼は黙って研ぎ続けていた。

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