閑話:宰相ゼーヴェルの視点
──王都・会計局、夜更けの執務室にて。
帳簿に塗られた修正跡が、ゼーヴェルの眉をわずかに動かした。
公的に提出された数字は過不足ない。整っている。だが、その“整いすぎ”こそが不自然だった。
「……本当に、地方の三男坊の仕事か?」
提出者の名は、ユリウス・ヴァレンツ。
リュクセン南部、海に近い小領地の名家の三男。通常なら、政務にも財務にも口を出す立場にはない。
だが、書かれた数式は正確で、分析は簡潔で的確。王都の実務官僚でも、ここまで書ける者は稀だ。
ゼーヴェルは静かに立ち上がると、部下に命じた。
「馬車の支度を。行き先はヴァレンツ領だ」
「……は?」
「君にはまだ早いかもしれんな。だが、風が吹き始めたとき、それに気づける者は少ない。私は、試したい」
──数日後。ヴァレンツ領。
応接間の少年は、ゼーヴェルの予想よりもずっと“整って”いた。
礼儀は過不足なく、口調には僅かな距離があり、しかし核心では迷いがない。
見ている。何かを。
国の外側か、時の外側か──それは分からぬが。
そして、彼は言った。「風穴を開けたくなる」と。
その一言に、ゼーヴェルは確信する。
この青年は、ただの“逸材”ではない。
王国の制度という静かな密室に、無意識のうちに酸素を送り込もうとする“異物”だ。
「そして、ひとつ忠告を。風穴を開けるというのは、時に暴風を招く行為だ」
ゼーヴェルが口にしたのは、すでに国政を担う者としての警戒であり、期待でもあった。
王国はあまりに整っている。魔法は生活を潤すだけのもので、飢えも戦もない。
だが、それは同時に、あらゆる“うねり”を押し潰す構造でもある。
変革は、常に制度の外側からしか始まらない。
だが、外側からの異物は、拒絶される。
ならばどうする? 内部に潜む異物──たとえば、ユリウス・ヴァレンツのような──。
「名前だけは覚えておこう」
ゼーヴェルはそう言い、背を向けた。
この出会いが、王国にとって幸か不幸か。
それは、風穴の先に吹き込む“風”次第である。