第2話:市場の春と少女の目
リュクセン王国の南部に位置する小都市ヴィレムでは、花々が市壁の隙間からこぼれ落ちるように咲き乱れ、広場には朝から香草や蜜漬け果実の香りが立ちのぼる。露店の布地には薄桃色と薄青が交互に揺れ、老舗のパン屋は酵母の香りを漂わせながら、あたたかくも静かな活気を帯びていた。戦も飢えもないこの地において、市場は唯一、血の匂い以外の昂ぶりを人々に与える場であった。
ユリウス・ヴァレンツはその中を歩いていた。地方貴族の三男。継ぐ領地はなく、出仕の予定も未定という中途半端な立場ながら、他の誰よりも眼差しに熱を宿していた。露店に並ぶ塩漬け肉や果実酒を見やり、職人との言葉を交わすたび、彼の中の何かがざわついた。皮革細工師の技術、染織女たちの手の速さ、少年たちの身のこなし——。すべてが穏やかに循環し、閉じている。変わらぬ美しさ。だがそれは、あまりに動かない世界だった。
市場の北端、他より幾分静かな一角に、奴隷取引を扱う帳が張られていた。リュクセン王国における“奴隷”とは、むしろ長期奉公の一形態として機能していた。売買される者たちは多くが孤児や破産した家の子であり、定められた期間の労働の後には解放され、持ち主の推薦を受けて仕事を得ることも珍しくなかった。無論、すべてが理想通りではない。だが少なくとも、ここヴィレムでは、制度の枠内で人々は黙々と役割を果たしていた。商人も、奉公人も、皆それを当然と受け止めていたし、多くの奴隷たちもまた、黙して従うことに不満の色を見せなかった。
ユリウスは最初、その帳に近づくつもりはなかった。だが、そのとき——目が合ったのだ。少女の。
黒い髪。煤けた肌。痩せた頬に、意志だけが残っている。いや、違う。意志ですらない。抗うことを忘れた透明な虚無。それでも、眼差しの奥底には、微かに揺れる光があった。身なりは粗末であったが、体には一切の傷がなかった。痩せ細ってはいる。けれど、それは虐待の痕ではなく、ただ単に十分な食事が与えられなかったことを示すものだった。扱いは粗雑だったかもしれない。だが、暴力ではない。傷ひとつない背中と細い手首が、そのことを静かに語っていた。
「……その子を譲ってくれ」
我ながら衝動的だったと、彼は後に回想する。だが、あの瞬間に選択をしなければならぬという直感は、現代日本で“制度”という名の巨大な獣を学び、飲み込まれ、再び生まれた者だけが持ち得るものであった。
奴隷商人が金額を告げ、ユリウスは無言で金を渡す。身分証を取り交わし、契約を結ぶ。それは制度の内側で完結する一連の動作だった。
少女——名を尋ねると、かすれた声でこう答えた。
「……アナスタシア。あの……言われたこと、だけ……します」
その声音は、よく訓練された従順さの中に、わずかな怯えと、かすかな希望のようなものを含んでいた。彼女は、きっとまだ“自由”という言葉を知らない。
「君は、自由だ」
ユリウスの言葉に、アナスタシアは首を傾げた。理解できないというより、それがどういうことかを理解する準備が整っていない。自由。それはどの制度にも書かれていない言葉。誰も教えてくれなかった命の状態。だからこそ、彼女はただ戸惑った。
「……でも、それって……何をすれば……?」
ユリウスはその問いに、即座に答えることができなかった。
彼の胸に、ぞっとするものが走る。自由を与えたと思った自分が、実は何も与えていなかったのではないか。制度なき自由は、選択肢の海に個を放り出すだけだ。彼は現代日本で、似たような言葉に踊らされ、制度の空白に呑まれて消えた人々の姿を思い出していた。
アナスタシアを連れて屋敷に戻る途中、ユリウスはふと足を止めた。市場のざわめきが遠くなり、二人だけの沈黙が残る。
「制度を、作らなければならない」
それは、誰にともなく告げた誓いだった。少女を、世界を、この春の市場の風景ごと包む、見えない“仕組み”の設計者になる。まだそれが何かは分からない。けれど、第一歩は踏み出した。彼はようやく、ほんの少し、目を覚まし始めていた。