第1話:静かなる世界
春がきた。
窓辺のレースが風にゆれ、蜂が花を巡り、麦畑には若草が芽吹いている。
この国――リュクセン王国には、今日も戦争はなかった。
鐘が鳴れば町の人々はパンを焼き、井戸に列をなし、子どもは裸足で走り回る。
老人は縁側で昼寝をし、猫は屋根の上で丸くなる。
のんびりした時間が、日々、あたりまえのように流れていく。
誰かが大声を出すことも、刃物を抜くこともない。
小鳥のさえずりと風の音と、牛ののどかな鳴き声。
王は大仰な剣を携えることもなく、金の鎧に身を包むこともない。
彼は広場の一角、石造りの椅子に座り、子どもたちに囲まれていた。
腰には古びた短剣。手には村娘から渡された焼き栗。
玉座ではなく、民の隣にいることを好む王。
田畑の様子を視察し、漁港の作業を労い、日照りを祈って神官とともに頭を垂れる。そんな治世だ。
魔法? ああ、あるにはある。
火を灯すための術、水を引くための術、鍋を温める術や、寝違えた首を軽くする術。
どれもこれも、派手さのない“家事の延長”でしかない。
この国の人々は、魔法に夢を見ない。
それは、少し便利な手作業であり、古くからの知恵袋であり、雨の日に頼りたくなる優しい小道具だった。
そんな“のほほん”とした世界の片隅に、一人の青年がいた。
ユリウス・ヴァレンツ。
南方のヴァレンツ領を治める辺境貴族の三男坊。
病弱な母を早くに亡くし、兄たちは武に励み、姉たちは早々に嫁ぎ、家の中では書庫と台所が彼の居場所だった。
彼自身は剣を持たず、馬にも乗らず、ひたすら書物を愛する静かな青年であった。
けれど――
彼には、ひとつだけ、誰にも言えない秘密があった。
彼は、異邦の人だった。
この世界に“転生してきた”者だった。
いや、正確には――
日本という国の、大学で西洋史を学んでいた、ひとりの歴史オタク。
書物をこよなく愛し、中世の制度や封建領主の年貢徴収、騎士の契約書式にまで心躍らせていたような、筋金入りの“机上の旅人”である。
彼はある日、突然命を失い、気づけばこの世界に生まれていた。
平民でもなく、商人でもなく、貴族の三男として。
奇跡だ。いや、チャンスだ。そう思った。
だが、いざ成長して目に映るこの世界は――
まるで“手の届かないおとぎ話”のようだった。
争いがない。
法律も憲章も、制度も政略もない。
農民は年貢を納めることすら楽しげで、誰も権利を主張せず、騎士は礼儀正しく道を譲り、領主は年に一度の祭りで酒を振る舞う。
“封建制度”も“封主契約”も、あってないようなもの。
この世界は、教科書に載っていた「混沌として残酷な中世」とは、似ても似つかぬ、やさしすぎる箱庭だった。
(のどかすぎる……)
ユリウスは、今日もまた村の集会に出て、鍋の味付けで村長と口論する老婦人を眺めていた。
誰も怒鳴らない。誰も争わない。
やがて話し合いで解決し、笑って芋を分け合い、何事もなかったかのように日が暮れていく。
そして――ふと、思うのだ。
(本当に、これでいいのか?)
誰にも見せない顔で、彼は問いかける。
この平和がどれほど貴重なものか、わかっていないわけではない。
だが、あまりにも変わらなさすぎる。
あまりにも、停滞している。
魔法という力がありながら、それが社会制度に反映されることもない。
この国には、“行政”という概念すら、存在していないのだ。
彼の心には、かつての研究で得た知識が残っている。
農業技術の発展と人口増加、土地制度の転換、ギルドと通貨経済の台頭、王権の集中と市民革命……
文明とは、変化と制度の積み重ねであり、静寂だけでは未来は築けない。
(このままでは、どこにも行けない)
そう思ってしまう自分が、時に、ひどく冷たい人間のように思える。
けれど、それが“外から来た者”の視点なのだと、ユリウスは誰よりも知っていた。
彼の“違和感”は、怒りでも野心でもない。
それは、静かなる苛立ち。
変わることを知らぬ世界に、ただひとり、違和という旗を掲げる者の、ささやかな自覚。
この箱庭は、愛おしくもある。
だが同時に、どこかで、歯車がずれている。
ユリウス・ヴァレンツ。
歴史を愛し、制度を愛し、過去に希望を見ていた男。
彼のまなざしが、穏やかに波立ち始めるのは――
この“静かすぎる世界”に、かすかな風が吹き始めた証だった。