とある国道の雪道で幽霊を撥ねてしまいました
しいな ここみ様が主催する『冬のホラー企画3』の参加作品になります。
概要はこちら
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フロントガラスから見えるのは、ふわふわと緩やかに落ちる白い雪と、ちょっと灰色がかかっている雪の道、あとは暗闇だけ、モノクロの世界だ。わたしはまだ冷たさが残るハンドルを握りながら、揺れる車を運転している。
「まったくもう、これが国道だなんて聞いてあきれちゃうわ」
思わずひとりごとが漏れてしまう。おとといから降り続けている大雪が、わたしの通勤ルートを北の国に変えてしまった。いま通っている山間部なんて、轍が埋もれかかってるし、道は狭いわ、街灯も無いわで危なくってしょうがない。
「あー、肩が凝りそう。帰ったらお風呂入って、すぐに寝なきゃ」
今夜は残務の処理もあったせいで帰宅が遅れ、道が凍結しかかっていた。ガタガタになった雪道がわたしの体を揺さぶり、ハンドルを握る手にも余計な力が入ってしまう。
すると、今まで重かったハンドルが急に軽くなってきた。メーターの横には、スリップを示す黄色の表示灯が点滅している。
「やばっ、ハンドル取られてる」
とっさにブレーキを踏んだけれど、車はぜんぜん減速しない。それどころか、少しずつ加速している。
「えっ、あれ? なんで? 下り坂でもないのに」
このとき、わたしはメーターにばかり目がいって、前方への注意が散漫になっていた。
「あっ」
気がついた時、目の前に、ニット帽をかぶったおじいさんの姿があった。
「危な――」
どぽぉん。
固いものが破裂したような音とともに、体に伝わってくる衝撃。視界はまっしろになり、大きな耳鳴りがしてくる。
目と耳の機能が徐々に戻ってくると、信じたくない光景が目の前にあった。
人が、さっきのおじいさんが、倒れている。道の右の路肩、わたしの車の右前に。つまり、わたしが撥ね――。
息が詰まりそうになって、しばらくハンドルを握ったまま固まっていた。
なんの考えも浮かばず、目だけがきょろきょろと動く。
あいわらず外は雪と闇ばかりで、他に人の気配はまったくしない。こんな暗くて狭い道、監視カメラも無いだろう。ってことは……逃げても、バレないんじゃ。
ブレーキを踏んでいた右足をちょっとだけ浮かせると、車がガクンと揺れたので、またブレーキを踏みなおす。
そしてようやく、大きな深いため息が、わたしの口から出てきた。ハンドルの上のほうに頭をのせ、頬を両手で軽くたたく。
ばか。なに考えてんのよ依子。逃げるなんてもってのほかよ。たとえ避けようがなかったとしても、撥ねたのはわたしの車なんだから、わたしが責任をとるほかないでしょ。それにあのおじいさんだって、まだ死んだと決まったわけじゃない。スピードは全然出してなかったし。もしかしたら気を失っているだけかも、だったらなおさら速く対処してあげなくちゃ。
そう自分に言い聞かせて、大きく息を吸い、思い切って車のドアを開けた。
「すみません、大丈夫ですか! 怪我はないですか!」
大声で叫びながら、少しずつ、倒れている老人へ近づいていく。しかし何回呼びかけても、おじいさんはピクリとも動かない。
おじいさん、だったと思う。ほんの一瞬しか見えなかったけど、ニット帽をかぶり、赤い色のジャンパーを着ていて、白いひげを生やしていたはず。まさか、もう死んでるなんてことは……。それにしても、なんでこの時間に、一人で?
いろいろな思いが頭をよぎっていった。もう少しでおじいさんの顔が見えそうな位置に来たとき、おかしなことに気付いた。
「あれ、このおじいさん……赤い靴はいてる? ズボンまで赤色? 全身赤づくめなの?」
車から発するライトだけでは、様子がよくわからなかった。寒さでかじかむ手をさすりながら、スマホを取り出し、ライトでおじいさんを照らしてみた。
「ひぅ」
それは、おじいさんではなかった。
人の形をした、真っ赤な血だまりが、雪の上にあるだけだった。
「ひっーひっー」
叫ぼうとしたけれど、声が出なかった。寒さと恐怖で、喉が完全に縮こまってしまっている。
目の前の血だまりは、降り続ける白い雪をどんどん吸収して、少しずつ赤みが薄れているように見えた。
もうわたしは何も考えられず、スマホを胸に抱えて急いで車に戻った。そしてシートベルトもしないまま、アクセルを乱暴に踏み、車体を左に右に揺らして一目散にその場を後にした。
********
その翌日は、まるでわたしをあざ笑うかのようないい天気だった。ショッピングモールの出入口付近には雪かきされた雪の山があって、側面は泥が混ざっているのか茶色く濁っている。
うんちのかき氷みたい。
疲れ切ったわたしの脳みそからは、そんな感想しか浮かんでこなかった。
ショッピングモールへ入ってから一直線に、わたしの職場である二階の家具売り場へと向かう。馴染み深い職場の光景が見えてくると、重怠かった肩が少し軽くなった気がした。
「いらっしゃいま……」
ちょうどレジに、わたしが探している人がいた。同僚で、よく霊感があるって飲み会でふかしている、成美ちゃんだ。
「おつかれ、成美ちゃん……」
「よ、依子ちゃん? どうしてここまで……今日は体調悪くて休んでたんじゃ」
「うん、体調は最悪だよ」
昨夜は家に帰ってから、ずっと布団をかぶって震えていて、そのまま朝を迎えてしまった。いちおう化粧をして出てきたけど、目の充血と肌荒れは隠しきれていないだろう。
「成美ちゃん、今日のシフトはたしか昼までだったよね」
「え、そう、だけど」
「仕事終わったらさ、下の『メリーズコーヒー』まで来てくれない」
「何かあったの?」
「成美ちゃんの好きな、お化けの話」
「お化け!? うっそぉ!」
仕事中にも関わらず、成美ちゃんは大きな声をあげて喜んだ。なぜそこで喜ぶのか、わたしにはわからない。
「あっ、いらっしゃいませ」
急に成美ちゃんが声のトーンを下げたので、振り向くと渋い顔をしたおじさんが収納用のボックスを抱えてレジに並んでいた。
わたしは申し訳なさそうに礼をして、成美ちゃんに『じゃあ、またあとで』と目で合図した。
「ええーっ! 幽霊を車で撥ねたの!?」
成美ちゃんは予想通りの反応をしてきたので、わたしは素早く、立てた人差し指を自分の口元に置く。
「ごめん、興奮しちゃって」
「いいよいいよ」
ショッピングモールの入り口に近くにある、天下の『メリーズコーヒー』のイートインコーナー、活気に満ち溢れていて、霊が入ってくる余地などないはず。騒がしいから話を盗み聞きされる心配も少ないし、ここを選んで正解だった。
「で、どうしたの? その幽霊、撥ねられたら消えちゃったの?」
「うーん、消えたっていうか、最初から言うとね……」
それから、成美ちゃんに昨夜起こったことを詳しく説明した。
「……っていう感じで、もう怖くて眠れなかったのよ」
「なんだろ。自分からあたりに行ったのかな、そのおじいさん幽霊は」
「わからない。朝になって車を調べたけど、バンパーもボンネットも全然へこんでいないのよ、けっこうな衝撃があったはずなのに。とても人を撥ねたとは……思いたくないよ」
わたしは思わず目元を覆った。おかしいことだらけだけど、わたしには人を撥ねたかもしれない疑惑が残っているのだ。あの嫌な衝撃、感覚、今でもはっきり思い出せる。
「大丈夫だよ依子ちゃん。もうちょっとその時の状況を思い出してみよう。あっ、そうだ! ドライブレコーダーは? ドライブレコーダーに記録が残ってるんじゃない?」
「あるよ。バッチリ残ってる。去年の車検で買ったばかりの上等なやつだから」
「あるんだ! 中身は見たの?」
「これから見ようと思って、一人だと、その、怖くて見れなかったの」
成美ちゃんは口をすぼめて、うんうんとうなずいた。ちょっと目がニヤけている。わたしは誰かに聞かれていないか、思わずあたりを見回した。
それから、わたしと成美ちゃんはタブレット上で再生されているドライブレコーダーの映像を、食い入るように見つめていた。
「たしか、もうちょっと先の所で、車がスリップしはじめたの」
「いよいよね。暗くて鬱蒼としていて、いかにも出そうな場所じゃない、うふふ」
タブレットの黒い部分に反射している成美ちゃんの顔が、ちょっと怖かった。
すると突然、映像にノイズが走りだした。
「えっ」
「あれ」
ほんの一瞬だったけど、成美ちゃんにも見えたようだ。
そして、予期していた通りに車がスリップしはじめ、映像が揺れた。
『やべっ、ハンドルが』
「ん?」
わずかに聞こえてきた声。わたしの声……のはずだけど。
ちらりと成美ちゃんのほうを見る。成美ちゃんは何も言わず、じっと映像を見つめていた。
『なんだよもう、この雪は』
ここでわたしは気がついた。この声、わたしの声じゃない。男の人の声だ。
『早いところ帰りてーな』
車は加速をはじめた。記憶よりもずっと速いスピード、だと思う。
そしてついに、あのおじいさんが現れた。
『うおっ!』
あの時と同じ衝撃音。映像は激しく乱れ、タイヤが雪を掻く音が続いた。
次第にみえるようになった映像には、あの時の、あの光景が映し出されていた。ただひとつ違うのは、雪の上に横たわっているおじいさんが、血だまりの跡などではなく、たしかな実体であることだった。
しばらくして、映像にもう一人の人物が映った。
わたし――じゃなかった。
わたしとは似ても似つかない、小太りの、ひげを生やしたおっさんだ。
おっさんは何も言わずに、倒れているおじいさんの所へ歩み寄ると、きょろきょろとあたりを見回した。
その後、おっさんは小走りで車に戻ってきた。
エンジンの駆動音が聞こえはじめ、そのあと、黒いスポーツカーの後姿が見えた。ナンバーはもちろん、わたしの青いコンパクトカーとは何もかもが違う。
その車は速度を落とすことなく、黒い闇の中へと消えていき、映像にはあのおじいさんだけが残された。
すると、再び映像がノイズだらけになり、数秒後には走行中の映像が流れはじめる。
それからはずっと、いつもの帰り道の光景しか映し出されていなかった。終わり際にわたしの自宅が見えてからまもなく、映像は止まった。
……ちょっとまって。え? いったい何が起こったの? 途中からわたし、おっさんに入れ替わってる? 車も途中から変わっちゃった? しかも、ドライブレコーダーで乗ってた車の後姿が見えるなんて、ありえなくない? おじいさんは結局なんだったの? わたしが撥ねたのは何? え? え?
「そうかあ、そういうことか!」
成美ちゃんが急に大声を出したせいで、わたしは小さな丸テーブルに膝をぶっつけてしまった。あやうくコーヒーカップがこぼれるところだった。
「おじいさんは、依子ちゃんに何かを伝えたくて、幽霊になって現れたんだよ」
「や、やっぱり幽霊なの? さっきのおかしな映像も、おじいさんの仕業ってこと?」
「おそらくね。ノイズの間に映った部分、あれが伝えたいことだと思うんだけど」
急に現れたノイズ。映らないはずのものが映っている数分間。おじいさんはわたしに何か伝えたかった? もう、わけがわからない。
「……うん、次に行くところは決まったね」
「えっ、これからどこへいくの」
「警察に行こう、依子ちゃん!」
********
成美ちゃんに言われるがまま、わたしは最寄りの警察署に自首……じゃなくて、相談しに行くことになった。
手続きをして、待合スペースで係の人に呼ばれるのを待つ。警察署という場所にいるせいか、待ってるだけなのに胸が苦しくなってくる。ちょっぴり犯罪者になった気分だ。逆に成美ちゃんは、見るからにワクワクしている。本当に大丈夫なんだろうか、霊が関わっているっていう胡散臭い映像なんか見せちゃって。
すると、スーツを着こなした、体格のいいおじさんがやってきた。
「よう、成美お嬢ちゃんじゃないか、いったいどうしたんだい」
「敷島伯父さん、お久しぶりです!」
「ん!? 成美ちゃん、このおじさんと知り合いなの」
「うん、わたしの伯父で、交通課に勤めてるんだ」
署内に身内がいるから、あんなに余裕だったのね……。
わたしと成美ちゃんは敷島さんに連れられて、交通課の応接室に案内された。
今度は3人で、あのドライブレコーダーの映像を見ることになった。
「ほら、ここ! 車のナンバーまでバッチリ映ってるでしょ!」
「うん、うん、わかってるよ」
再生中でも横槍をいれて説明をする成美ちゃんを、敷島さんは軽くいなしている。しかし、映像を見る敷島さんの表情は真剣だった。映像が終わったあと、敷島さんは天を仰ぎ、大きく息を吐いた。
「どう、伯父さん。これがフェイクに見える?」
「お嬢ちゃんが見せてくるものは、いつも信じがたいものばかりだねえ。しかし、わしもこの事故については思い当たるフシがあるんだ。ちょっと待っててくれるか」
敷島さんはいちど席を立ち、大きな地図と分厚いファイルを持って戻ってきた。ファイルには『未特定』とラベルが貼ってある。机の上に地図を広げると、ファイルの中身とを交互に見ながら、ある一点を指差した。
「依子さん。あなたがそのお年寄りに遭遇したってのは、ここかね?」
「あ、はい! そのあたりだったはずです」
あの時のカーナビは、はっきりと脳に焼き付いている。
「それで……機密情報なんで名前までは明かせんが、この人に似てなかっただろうか」
敷島さんは、ファイルを広げて、ごく一部だけを私に見せた。免許証に写っているような、正面顔の写真がある。
「は……はい! この人、だったと思います」
心の底では、あのおじいさんだという直感があった。
「ふうむ、どうやら本当に、このじいさんが無念を晴らすため、あなたを頼ったのかもしれませんな」
分厚いファイルが机の上に置かれると、敷島さんは話をはじめた。
「この国道の山間部は昔、事故がよく起こっていたんだ。今はもう過疎化が進んで、近くに住んでる人も少なくなり、事故は減ってるんだがね。5年前には小学校もあったんだよ」
あんな人通りが無さそうなところでも、昔の人は生活していたのね。
「特にこのポイントは、雪が降るとスリップしやすく、街灯もなくて真っ暗だった。そして人も車もなかなか通らない。だから事故を起こしてしまったら、魔が差して逃げてしまう人が少なくないんだ」
その気持ち、少しだけわかります。
「今もまだ、このファイルの中には加害者不明のひき逃げ事件が何件も残っているんだ。時効をむかえてしまったものもある。このじいさんの事件も、あと数か月ほどでファイルから外される予定だったんだよ」
「なるほどー、だから何とかしてほしくて、依子ちゃんの車に」
「そ、それで、これからどうすればいいんでしょうか。もし、わたしの代わりに映像に映っていた男の人が、犯人だとしたら……」
わたしの不安そうな顔を察したのか、敷島さんは穏やかに微笑んだ。
「とりあえず、この映像記録はわしらに任せてもらえませんか。オカルト混じりの証拠品とはいえ、車種もナンバーもはっきり映っている。これをもとに再調査してみますよ」
「依子ちゃん、わたしたちにできることはもうここまでだよ。今日は帰って、ぐっすり寝よう」
成美ちゃんに言われて、わたしは昨夜寝ていなかったことを思い出した。一応はひと段落したこともあってか、強い眠気がわたしの頭を包み込んでくる。
「わ、わかりました。よろしくお願いします」
「何かわかったら、連絡してね、伯父さん!」
「はは、それよりも居眠り運転で事故を起こさんよう、気をつけなさいよ」
********
あの奇妙な出来事から、一か月近くが経った。わたしは仕事帰りで、あの国道を車で走行していた。偶然にもあの時と同じく雪が降っている。雪質の関係もあるのか、道はすでに雪が積もりつつあった。
「もうすぐ、あの場所だわ」
わたしはカーナビの地図を確認しながら、ゆっくりと運転している。あれ以来、この周辺でスリップすることも、誰かが飛び出してくることもない。
例の場所にたどり着くと、車を停め、ウインドウを開けてつぶやいた。
「おじいさん、犯人、捕まりましたよ」
映像を敷島さんに渡した後、交通課の再調査で、ある人物が加害者として候補に挙がったという。その人に事情聴取をしたところ、最初は否定していたそうだけど、あの映像を見せたとたん、顔が真っ青になって自供をはじめたらしい。その後、所有していた車のバンパーに修理の後も見つかったため、逮捕に至ったそうだ。
今日の昼休憩中、ことの些末を報告してきた成美ちゃんは、妙に誇らしそうにしていた。わたしはその理由も聞いてみた。
『だってさ、あのおじいさんは死んじゃった後、ずっと悔しい思いをしてたと思うよ。犯人が捕まったって知ったら、きっと喜ぶわ。人助け……じゃなくて霊助けをしたんだよ、わたしたち』
『れ、霊助け……』
『人でも霊でも、いいことしたのに変わりないでしょ』
いいこと、ね。たしかに最初はめちゃくちゃビックリしたけど、終わってみると、まあ……悪い気はしないかな。
私は最後に両手を合わせて、おじいさんの冥福を祈った。そしてウインドウを閉め、普段のように通勤ルートを走りはじめる。
成美ちゃんはこんなことも言っていた。
『今回のお手柄で、もし依子ちゃんが霊たちの間で評判になったら、また他の誰かがあたりに来ちゃうかもね』
はは、それはさすがに勘弁――。
そのとき、車のエンジンが急に大きく唸りを上げた。
あっという間にスピードが上昇していく。
ブレーキを踏んでもまったく効かない。
「う、うそ、まさか」
ハンドルもひとりでに動き始め、フロントガラスの景色は左右に大きく揺れる。
次の瞬間には、目の前に、ランドセルを背負った子どもたちの列が現れた。
「だめ――」
どこっ。ごっ、ごっ、どん。
衝撃と一緒に、何かを轢いたような不快な感触がシートから伝わってきた。
必死で車を止めようとして、何度もブレーキを踏みつける。
気がつくと、車は反対車線の、ガードレールに触れるギリギリのところで止まっていた。
わたしは素早く車外に出て、スマホのライトで車の後方を照らし出す。
「うそ……でしょ。勘弁してよ……」
薄く積もった雪の上には、小さな子どもの形をした、赤い血だまりがいくつも散らばっていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。