四荒天の像
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
つぶらやくんは、偶像については詳しいかい?
そ、アイドルのことだね。
生身でも二次元でも、熱狂的なファンを生み出す崇拝の対象。この現象、一般人からみると、どこか別の世界にいるかのようなのめりこみ具合だ。
これが時をさかのぼって、仏教などが伝わってきたころなどはどうだろう。
同じように神仏をかたどった像が、そこかしこであがめられていく……それは信じないものにとって、異様な光景だったろうことは、想像に難くない。
その偶像の実態に関しては、表の部分のみがよく知られている。
どのような格好であるか、何でできているのかの、造形はね。それこそが偶像に求められている多くの要素で、あとはご利益があれば万々歳といったところだろう。
ゆえに「メッキ」がはがれて、衆目にさらされることは避けなければいけない。だからこそ、見えない影の部分での努力は大切で、それでいてかえりみられることも少ない。
とてつもない苦労が、彼らにはのしかかっているはずだ。それがみんなの熱狂によってねぎらわれるといいのだけど。
その苦労の一端、私が聞いたものだが耳に入れてみないか?
私の地元にあった村のひとつでは、「四荒天」と呼ばれる像が祭られていた。
四荒天の荒天とは荒れた天気のことではなく、大規模な被害をもたらしうる災害四つをさす。
よく知られている、地震雷火事おやじの四つが相当するわけだ。
これもご存じと思うが、世に無数にいる子の父たる「オヤジ」を指してのことばではない。
おやじとは「おおやまじ」のなまり。つまりは強風、台風のたぐいを意味するんだ。
いまでも、文字通りに手を焼く大災害たち。そいつが科学技術も発展途上な昔じゃあ、まともに食らえばひとたまりもないだろう。
その四つの荒天たちの機嫌を取るべく、製造されたのが四荒天の像というわけだ。
その話だけだと、つぶらやくんは四荒天の像は、どのようなデザインのようだと想像する?
風神雷神図屏風のような、神様をかたどったものと思うだろうか? 四つの災害に対応したような。
けれども、そうじゃないんだ。
伝わっている話だと、像の作成は「目に見えたもののみ」を参考にしたというんだ。
神仏は祈れども、その姿を目の前にあらわしたことはない。それでは、正しい姿などを作れるわけがない。
だからこそ災害によって荒れ狂う河川と、ほんのわずかな間、大地を照らす天よりの稲光をもとに、像は作成をされた。
荒れ狂う波を舟の甲板にし、その真ん中に帆のごとく突き立つ、枝分かれしたような稲妻の形。
それが四荒天の偶像だ。
どれほどの効果があったかは、偶像のないパラレルワールドへでも行かない限り、比較はできないな。
ただ、像を建てて以来、人に大きな害を与えるような災害は、せいぜい数十年の間をあけるようにはなったということだ。
数十年は、当時の多くの人が一生を終えるに十分すぎる時間となることも多い。生きている間に、大災害に遭わずに済む世代が出てくるようになった……というのはありがたいことだろう。
しかし、四荒天の像にはとある特殊な手入れをしなくてはいけない、というのも伝わっていてね。
ただ、これは後世になって研究が進んでから、おぼろげながら明らかになった話。
当時の人々の間じゃ、限られた人によってしか伝えられなかったらしいんだ。
四荒天の像は、前回から数えて25回目の満月の夜に、その手入れが行われる。
その三月前から、手入れを任される一族は準備を行う。
それは食生活。
対象者は肉、魚、穀物類を断ち、野草類でもって生活を行わねばならない。いかに空腹を覚えようとも、草以外は水でしのぐしかなかった。
しかもこの生活、現代では再現することが難儀らしい。なんでも、現在は絶滅してしまったという野草が、ふんだんに食されていたようでね。
どこかでサンプルが手に入れば、また違ってくるかもしれないが……今の段階では、ほぼ不可能だ。
そうして三月をかけて整えた、満月の夜。
村の中央に据えられていた像は、皆が寝静まったころをはかって、そっと外されて地へ置かれる。
そのまま総出で村の田畑のある方面へ。選ばれた一族の管理する土地の中央へ寝かせられるんだ。
そうして何をするのかというと、一族の者たちはそこで排せつを行う。
事前に水を大量に飲んでおき、小の方でもすぐに出せるようにしておく。都合がよければ大の方でも構わない。
それによって、像を大いに汚すんだ。
いや、汚すというのは語弊があるな。三月かけて整えた身体の中を通して得たもので、像に感謝をささげる意があるという。
きっちりと役目を果たせていたのなら、その満月はたちまちに陰り、やがては耳をつんざく雷鳴とともに、雨がおおいに降り注ぐんだ。
その像と、役目を担った者にしか聞こえない音、感じられない雨が落ちてくるという。
雨をどっと浴びた像は、その表面に称える金色のメッキを、糞尿と一緒にどんどんとはがしていく。
雨はそれらをすっかり落としたあと、まるで人の身体が傷にかさぶたをこさえて治していくように、地面についた部分より、みるみる真新しい金の塗装をとげていくんだ。
しかし、それを最後まできっちり見届けられる者は稀だ。たいていは、みな平静でいられない。
気を失ったり、顔を背けて嘔吐したりするならまだいいほうで、ひどいものだと手近な石を持って、奇声を発しながら手近なものに襲い掛かるものさえいる。
したたかに相手を打ち付け、石を取り上げたとしても首を絞めたり、目突きにかかったりと、それは悪意ある行動にしか思えない。
像が完全に姿を取り戻すと、それらの変調はぴたりとおさまる。
短い間とはいえ、大小の被害を出すこともあって、臨む者は相応の覚悟が求められるんだ。
像は元通りにされるが、その像のメッキの下にあったものに関しては口にしてはならないとされる。
もっとも、体験した者からして、一様にそれを語る気はなく、口をつぐんでしまうのだとか。