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第9話:人間界は不便。

 星ヶ丘・河川敷―――。


(最っ悪だ・・・。無理やり車に乗せられたと思ったら・・・ここどこ⁉︎)


 みさきは、腕を柱のうしろにまわされ、手首をテープで固定されていた。からだをくねらせながらもがき続け、こすれ合った皮膚が火を吹く。


(もうっ! 外れない・・・っ!)

「みさきちゃんだっけ? 手荒くなっちゃってごめんね〜」


 ひとりの男が、佐竹たちの輪から抜けて、しゃべりかけてきた。腰をかがめ、みさきの顔を舐め上げるようにのぞき込む。タバコの煙の向こう側に映る顔は、剃り込みの入った金髪がオールバックにされ、細い眉と、無精髭が目立っていた。


(こいつ・・っ! 運転してたヤツ!)


 ぺちゃんこの三角形のような切れ長の目は、うつろな目をした佐竹とは違った威圧感を持っていた。首には、蛇のウロコのような金色のネックレスが、みさきを噛みつかんばかりに鈍く光る。


「土井さん、今日のお礼っちゃなんすけど、その女、自由にしてもらっていいんで」

「おう。じゃあ、結城ってやつの、あとのお楽しみにさせてもらうわ〜」

「はい」


 みさきの目に光るものが溜まり、意識と関係なく、足が細かく震え出す。


(ゆ、結城くん、いつからこんなのにからまれてたの・・・?)

「早く来ねーかな〜」


 そう言って土井は、親指と人差し指で、タバコの吸い口付近をつまんだ。口に溜め込んだ煙を、薄い唇の間からみさきのほおに吹きかける。みさきは、目を閉じて、首筋がこれ以上伸びないほど顔をそらした。


(ふん、バカね! いくら待っても来ないわよ! 大事な試合を控えた水泳部のエースが、部員に迷惑かけるようなことするわけ―――)



 ド―――――――――ン!



 すると、腹を突き上げるような大きな音が、倉庫の中に響き渡った。錆にまみれた鉄の車輪がレールを走り、扉が開き切ったと同時に跳ね返る。


(へ・・・?)


 みさきが顔を上げると、外灯を背中から浴び、ゴロゴロと閉まっていく扉を、片腕で受け止める海斗のシルエットが映った。


「はぁっ・・・はぁっ・・・はぁっ!」


 海斗は、血が混じるような熱い息を吐き出し、全身が心臓になったかのように、激しく呼吸をしていた。


(うそ・・・結城くん・・・?)


 みさきは、まやかしでも見ているように、ぼう然とする。


「28分32秒〜。よくできました〜」

「はっはっはっ! 佐竹さん、ほんとに時間はかってたんですか!」


 海斗のあごから、大きな雨粒のような汗がしたたり落ち、レールの間に入り込む。首まわりは、耳元と髪の毛の襟足から流れる滝のような汗で、脂の乗った魚のように光っていた。


 海斗は、無理やり血液に酸素を送り込むように深呼吸をし、倉庫に一歩入った。肺を濡らすような湿気が、からだにまとわりつく。いつも泳いでいる50メートルプールほどのスペース。それを、ひとまわり小さくするように、壁に沿ってコンテナが重ねられていた。中央に、薄っぺらい屋根に開いた穴から月の光が差し込み、ステージライトのようになって佐竹たちを照らしている。海斗は、それに向かって歩を進めた。途中、ペンキが剥がれ、ひび割れたコンクリートの床に、鉄の砕片や、木屑、油にまみれた廃棄物が乱雑に転がっていた。


「んーーっ! んーーっ!」


 海斗の耳に、膜が張ったような声が入ってきた。


「・・・っ! みさき・・・っ!」


 左前方のコンテナの陰から、みさきの姿が目に入った。柱といっしょになって、口元に貼られたテープの奥で、何か叫んでいる。反射した月の光は、花びらが乱れ落ちたような、はだけた浴衣と、それにべっとりまとわりつく、ナメクジのような男を映していた。


「おっ、おまえら・・・っ! みさきになにをした!」


 海斗は、眉間に深い刀傷が入ったようなシワをつくり、正面の佐竹に向かって叫んだ。怒りが、切り立った崖に激しく打ちつける波となり、海斗を一気にのみ込んでいく。


「まだなにもしてねーよ。人の心配してる場合じゃねーだろ。バカか、おまえ」


 佐竹は、ガニ股でゆっくり海斗に近づく。


「へっ、なんだ。ピュアなおぼっちゃんかよ」


 そう言って土井は、何かを探すそぶりを見せながら、佐竹たちの元へ歩いて行った。


「おまえが言ったとおり、ひとりで来た! もう、みさきに用はないだろ! 解放しろ!」

(ゆ、結城くん・・・?)


 みさきは、いままで感じたことのない、攻撃的で威圧感のある海斗の雰囲気に、背筋を凍らせた。


「それは、おまえ次第」

「・・・っ⁉︎」


 海斗は、前後を佐竹と土井に挟まれる。そして、数珠つなぎになるように、他の男たちは、海斗を中心に円を描いた。


「目的は・・・なんだ」


 そう言って海斗は、男たちに視線を送りながら、神経を尖らせる。


「目的? 目的ね・・・おれを満足させること」

「満足・・・?」


 佐竹は、海斗が眉をひそめる様子に胸が躍り、ねっとりした笑みを浮かべる。


「・・・みさきを無事に返すって約束するんなら、おれのことは好きにしていい」


 海斗は、構えを解き、身を差し出すように言った。


「そうこなくちゃな」


 その瞬間、海斗は背中に雷が落ちたような衝撃を受け、ひざをついて四つん這いになった。自分の太ももの間から、反対向きになった土井の足と、鈍く銀色に光るL字の鉄パイプが見える。息つく暇もなく、佐竹にみぞおちに刺さるような蹴りを入れられ、海斗は、仰向けになって、からだをねじり動かした。


(・・・っ! ・・・っ! 結城くん!)


 みさきは、まるで、ひっくり返された亀のようにもがく海斗の姿に、胸がえぐられる。


「立て」


 佐竹は、一歩前に出て、海斗を見下ろして言った。海斗は脇腹を押さえ、乱れる呼吸とともに立ち上がる。そして、佐竹の振りかぶった右のこぶしが、こめかみにねじ込まれるように入った。揺れる脳みそと火花が散る視界は、ビルが倒壊するようにバランスを狂わせる。続けざまに、佐竹は、集中豪雨のような、途切れることのない蹴りやパンチを浴びせていった。次第に、佐竹の息が上がると、それは、土井に引き継がれていく。


(結城くん、お願いだから、もう逃げて・・・っ!)


 殴られるたびに、海斗の生々しい嘔吐に似た声が、倉庫にこだまする。みさきは、息がまともにできず、目がくらんだ。むなしくも、まるで水の中で声を出しているような、のど元にごもる声は、海斗に届かない。まるで、長い映画のシーンを強制的に観せられているかのように、ただ、時間だけが過ぎていった。


 とうとう、海斗は全身の力を失ったように、ひざから崩れ落ちた。頭部からの出血が、どす黒いペンキのようなたまりになって、床に広がる。海斗の瞳に、佐竹たちの足の隙間から、はるか遠くにかすんだ、みさきの姿が見えた。それは、暗い海の中で、必死にもがくミシェルそのものに映る。


(み・・・さき)


 海斗は、うつ伏せのまま、無意識に右手を伸ばし、みさきと重ね合わせた。


「さ、佐竹さん、もう、そろそろいいんじゃないすか? こいつ、限界ですよ」

「はぁ? おまえ、おれに指図すんのか?」


 佐竹は、胸で沸き上がっている熱い高揚感に水を差され、こめかみに青筋を立てた。


「あっ、いや、こいつ人気の水泳選手で、ネットニュースで注目されてるんすよ・・・」

「だから?」


 佐竹は、いつも脇でおとなしくしている木下のでしゃばりで、怒りが増幅する。


「きょっ・・・今日も、前代未聞のタイム出して、インハイ決めたって発信されてましたよ。来月には、世界大会も控えてるみたいだし・・・再起不能にしたら、なにかとまずいんじゃ」

「ああ、なるほど。おまえ、詳しいな」


 パッと白い歯を見せた佐竹は、ゆっくり海斗のまわりを歩き出した。


「おい、奥野、そいつの右手、押さえとけ」

「はい」


 すると、海斗の右手の甲が、タバコの火を消されるように足で踏み潰される。


「ちょっと、佐竹さん? なにやるつもりすか⁉︎」


 木下は、血の気が引き、顔を真っ青にして言った。土井は、笑顔で近寄ってきた佐竹に、阿吽の呼吸で鉄パイプをゆずる。そして、手ぶらになった土井は、海斗の背中に全体重をかけて座り込んだ。


「おれは、あの日、校門でこいつに殺されかけたんだ。ちゃんと、それに見合うお返しはしてやんねーとな・・・」

「・・・佐竹さん?」


 木下は、急に笑顔が消えた佐竹を、見逃さなかった。


「それに、こいつ見てると、なんか胸くそわりーんだよ」


 そうつぶやいた佐竹は、海斗の横に立ち、まっすぐに伸びた右腕を見下ろす。海斗は、意識をもうろうとさせながら、佐竹に視線を送り、かすれる声を押し出した。


「な・・・なにを・・・」


 そして、圧迫されて動かない右腕と、佐竹の振りかぶった鉄パイプを交互に見ながら、心臓が破裂するほどの恐怖を覚える。


「やっ、やめ―――」



 ボグッ!



「うあぁぁぁぁぁ・・・・・・っ!」


 海斗に、腕の中で響いた気持ちの悪い音と、これまでにないショックが脳天を貫く。海斗の扁桃腺を焼き切るような声は、倉庫全体に響き渡った。


「さ、佐竹さん・・・っ!」


 木下を含む数人の男たちは、全身に戦慄が走り、口を開けっぱなしにしながら、唾をのみ込んだ。


(結城くん・・・っ! ・・・っ!)


 みさきは、絶望の淵に真っ逆さまに落とされたかのように、地面に座り込んだ。


 海斗は、自分の顔の前で、左のこぶしを黄色くなるほどにぎり締める。まるで、陸に打ち上げられたばかりの魚のように足をばたつかせ、からだと心を支配してくる痛みに耐えた。額には、じっとりした脂汗が帯のようににじみ出し、息を吸っているのか吐いているのか、わからなくなるほど呼吸が乱れていた。土井は、身をよじる海斗の上で、まるでマッサージチェアに揺られるようにくつろぎながら、タバコを取り出した。


「ふう・・・。じゃ、次は、とどめ」


 そう言って佐竹は、海斗の頭に照準を合わせ、鉄パイプを月明かりにさらした。土井は、穏やかな顔をして、一服の煙を、白ゆりの花を咲かせるように、真上に広げる。


「佐竹さん! もうダメっす! ほんとに死んじゃいますよ!」

「あぁ?」


 佐竹の視界に、木下が割り込んできた。


「こ、こいつ、もう、しばらく泳げませんよ! それで十分でしょ!」

「どけ木下、いま、おまえ、おれに逆らってんのか」

「あ、いや・・・っ!」


 木下は、黒目が一気に収縮した佐竹ににらまれ、からだ中の血液が逆流するほどの恐怖を覚える。佐竹は、鉄パイプを引きずりながら、後退りする木下に距離を詰めていった。


「どういうつもりで言ってるのか、説明しろ」

「・・・っ!」


 佐竹は、いまにも木下を丸のみするかのように、顔を近づける。


「知ってるよなぁ? おれは、大切な仲間に裏切られんのが、一番嫌いだってこと」

「も、もちろんです・・・っ!」

「なのに、おまえ、いま、おれに楯突いてるよなぁ⁉︎」


(な、仲間割れ・・・?)


 みさきは、円を描くコンパスの中心がブレたように、乱れていく孤を見つめる。佐竹のこぶしは、木下のほお骨に、鈍い音を立てて炸裂した。鉄パイプは、忘れられたように床に転がるが、代わりに、二発目、三発目とこぶしが用意されてあったように、木下に向かって飛んでいく。


「な、なあ・・・、なんか、今日の佐竹さん、度が過ぎねーか? それに、あの詰め方、尋常じゃなくねー? 木下さんって、佐竹さんの右腕だろ?」

「だからこそだよ。ああ・・・おまえは知らねーかもな」


 海斗の周りを囲っていた男たちは、土井の吐き出す雲のようなタバコの煙に身を潜め、小声で話しはじめた。


「佐竹さん、背高いし、結城ってやつに負けず劣らずの、恵まれたからだしてるだろ? もともと、高校入学してすぐ、サッカー部のエースストライカーとして活躍してたんだ」

「げっ、マジかっ! すげーな・・・っ!」

「でも、試合中に相手チームから執拗に狙われて、怪我を負わされた。大事なひざ、やっちまって、二度とプレーできなくなったんだよ」


 土井は、モヤのかかった月明かりを見つめながら、大きく吸い込んだ煙を、肺の隅々まで行き届かせる。その下で、海斗は奥歯を噛み締めながら、途切れそうになる意識に、必死に食らいついていた。


「まあ・・・同情はするけど、そんなの、よくある話じゃね? それで、あそこまでやる?」

「おまえさー、それを企んだのが、同じチームの先輩だったら、どうする?」

「・・・っ!」


 ふたりは、充満する大量の煙に撒くようにして、さらに小声で話し続けた。


「それからだよ、佐竹さんが変わっちまったのは。それがわかったとき、いっしょに入部してた木下さんも、嫌気がさして抜けたんだ」

「・・・ふ〜ん」

「ちなみに、土井さんは、そのサッカー部のOB。佐竹さんと入れ違いの学年だったから、親身になって相談に乗ってくれたって」


 そのとき、再度、背中が凍てつくような恐怖に襲われた。佐竹が、鉄パイプを引きずりながら戻ってくる。木下は、息を荒げ、足を引きずるようにして、佐竹のあとに続いていた。


 みさきは、佐竹と海斗の距離が縮まっていくのと同時に、吐き気をもよおすほどの恐怖で、からだを震わせていた。


 佐竹は、海斗の頭上で、いま一度、鉄パイプを月明かりに照らした。海斗は、虫の息になりながら、床に伸びた佐竹の影を見つめる。土井の薄い唇に挟まれたタバコは、蝶の羽が燃えるような炎を最後に見せ、根本付近で、まとまった灰を落とした。




 木下の苦い顔を背景に、佐竹の両腕が下ろされる―――。




(やめてーーーっ!)


 みさきは、手首がちぎれ、肩が外れそうになるほど、上体を前に突き出した。


 佐竹のからだは、止まらない。渾身の力が乗った鉄パイプは、海斗のこめかみに向かって、銀色の扇を描くようにして落とされていった。みさきは、息を止めて、目玉がなくなってしまうほど、まぶたをきつく閉じた。



 そのとき、倉庫全体が闇に覆われる―――。



 いつまで経っても、衝撃の音が聞こえない。


(・・・・・・⁉︎)


 みさきが薄目を開けると、佐竹の振り下ろされた両腕は、空っぽのまま海斗の首元を抜けていた。佐竹は、放ったはずのパワーが宙に散ったことで、目を皿のようにして、びしょ濡れになった手を見つめていた。土井は、目の前を、水に浮かびながら、横切っていく鉄パイプを凝視していた。タバコが、静かに指の間から滑り落ちる。


「う、ううっ、上・・・っ!」


 奥野が肝を潰しながら出した声は、佐竹と土井を振り向かせるのに十分だった。プラチナの赤髪と黄色いフリルのワンピースを着た人体が、月明かりを遮断して、天井から舞い降りてくる。透明な水玉にすっぽりおさまったそれは、一直線に、海斗の頭上に降り立って静止した。


「な、なんだ、おまえ・・・っ!」


 佐竹が威勢よく叫んだと思ったら、彼のからだは、一瞬にして、数メートル先のコンテナに叩きつけられていた。


(・・・っ!)


 みさきの目に映っていたのは、円盤の刃のようになって噴射した水が、一番近い土井を、床にねじ伏せたあと、他の男たちを、弾丸のごとく吹き飛ばす光景だった。そして、浮遊していた鉄パイプが、甲高い音を立てて床に落ち、あたりは凪のように静かになる。


(・・・っ! ・・・っ!)


 赤髪から垣間見える、深海のように光が宿らない瞳と、コンテナを背に、くの字で首が垂れ下がる佐竹たちの惨状は、みさきの細胞を一斉に萎縮させた。


「人間界は不便。からだの移動に、これだけかかるなんて」

「セ・・・セレイン・・・」


 海斗は、顔を床にこすりながら、セレインを視界に入れた。


(はは・・・そうか・・・。おれは、またセレインに助けられたのか)


 海斗は、半分まぶたを閉じ、全身でため息をついた。そして、いまにも消え入るような声を出す。


「おい・・セレイン、それ以上は・・・やるな」

「黙って、海斗。ここにいる者、全員殺す」


 セレインは、海斗を押しやるようにして、佐竹に向かって歩を進めた。


(なに・・・結城くんがあの人としゃべってる? 知り合い・・・?)


 みさきの心拍数が、異様な音を立てて上がっていく。


「全員・・・? みさきに・・・手を出したら・・・許さないぞ・・・!」

「海斗を脅かす要素は、全て排除する」

「よせ・・・っ!」

「誤算だった。みさきがこれほどまで海斗を苦しめるなんて。もっと早く始末しておくべきだった」

「ち、違う・・・っ!」


 海斗は、からだを叩き起こすようにして立ち上がった。そして、感覚のない右腕を押さえながら、一歩一歩、みさきの方へ近づいていく。


「海斗、じっとしてて。いま動くと、からだがもっと壊れる」


 セレインは、ぐったりした佐竹の前で立ち止まり、海斗を目で追った。海斗は、腰で足を持ち上げるようにして、サンダルを引きずりながら、ただ、ひたすら、まっすぐ進む。


「みさき・・・」

(結城くん!)


 海斗は、みさきの目の前で、右腕をダラリと床に落とし、ひざを床に打ちつけるようにして折り曲げた。


「・・・ごめん、みさき。怖い・・・思いさせて」


 海斗は、左の指先で、みさきの目にかかった髪の毛を横に流しながら、涙まみれになった瞳を見つめて言った。そして、口元のテープをゆっくり剥がす。


「っ! はぁ!」


 みさきは、久しぶりに水面から顔を出したように、思いきり肺に空気を送り込んだ。


「結城くん! ・・・っ!」

「待ってて、みさき。いま・・・手の方も外すから」


 そう言って海斗は、這いずるようにして、みさきの背後にまわった。擦り切れて真っ赤になったみさきの手首に、海斗の息が当たる。そして、何重にもされた粘着は、海斗の歯で噛みちぎられた。


「結城くん!」


 海斗は、花の茎が折れたように、首を垂れてうずくまる。海斗の右前腕は、赤い風船のように膨れ上がり、蒼白になった顔面には、血の混じった汗が伝っていた。みさきは、のぞき込むようにして、前髪に隠れた海斗の瞳を探す。


「みっ・・・さき・・・大丈夫?」

「わたしは大丈夫だよ! それよりも、結城くん、血っ! それに腕が・・・っ!」


 みさきの胸から込み上がってくる喪失感と絶望感が、涙となってあふれてくる。


「みさきは・・・なにも心配しなくていい。そんなことより・・・っ!」

「ちょ、ちょっと・・・」


 そう言って海斗は、満身創痍のからだにムチを打ち、正面を向いて立ち上がろうとした。


「待って、結城くん! 動いちゃダメだよ! 救急車呼ぶから、すぐ病院に―――」


 そこへ、みさきの背中につららで刺されるような戦慄が走った。海斗の視線の先に目を移すと、先ほどの女が、赤髪を逆立て、血走った白目をギラつかせながら接近してくる。みさきの足は、生まれたての子鹿のように震え出した。


「海斗、みさきから離れて」


 そう言ってセレインは、歩きながら自分の右手に水玉を出現させる。海斗は、まるで、さざ波のような浅い息を繰り返し、落ちてくるまぶたに必死で抵抗しながら、セレインに強い視線を送っていた。


「結城くん・・・っ! なんなの、あの人・・・っ!」


 みさきは、まるで、徐々に氷を割られて追い詰められるアザラシのように、怯えて動けなくなる。


「みさき、おれの・・・うしろに下がって」

「え・・・?」

「・・・っ! 早く!」

「は、はいっ!」


 そう言ってみさきは、飛び上がるようにして海斗の背後にまわった。そして、そばに投げ捨てられていた自分のスマホと巾着を、急いで拾い上げる。


「セレイン・・・おまえ、なんか勘違いしてないか・・・?」

「してない。みさきがいなければ、海斗はこんな目に遭ってない」


 セレインは、海斗を悠々と見下ろすように言った。


(なに・・・この人、味方じゃないの・・・?)


 みさきは、海斗のシャツの裾をにぎり、固まった唾をのみ込む。赤いプラチナの髪は放電されるように逆立ち、光が宿らない瞳は、みさきを恐怖のベールで包み込む。海斗は、それに挑むように鋭い眼差しを向け、小さく口角を上げた。


「自分の・・・からだ、取り返したいんだろ・・・? みさきに手を出したら、おれは、二度と協力しない。それでも、いいのか?」

「脅しても無駄。海斗、なにも自分で守れないくせに、いつまでミシェルやみさきを気にかけるつもり? 同じこと、何度も繰り返す必要ない」


 セレインは、海斗の一メートル手前で足をまっすぐそろえて立ち止まった。そして、人の頭の大きさに育てた水玉の照準を、海斗の背後で見え隠れするみさきに合わせる。


「海斗、これで最後。みさきから離れて」

「は・・・っ! セ、セレイン! うしろ・・・っ!」


 海斗が叫んだ瞬間、稲妻が脳天を貫いていくように、セレインのからだが左右真っ二つに分かれた。その裂け目から、土井のうらみ潰すような目玉と、銀色の三日月のように光った鉄パイプが姿を現す。


「きゃぁぁぁぁぁっ!」


 みさきの高く鋭い声が、倉庫を割るように響く。そのまま、みさきの視界は回転し、フッとろうそくの火が消えたように、意識を失った。


「み、みさき・・・っ! うわっ!」


 海斗は、寄りかかってくるみさきを左手で受け止めながら、尻もちをついた。そして、みさきの全体重が太ももにずっしりと乗っかり、海斗の動きが封じられる。


 その間、セレインのからだは、蜃気楼のようにゆらゆらと折れ曲がり、肌の境界線が透き通ってぼやけていく。やがて、頭の方からキラキラと金色に輝く粉末に変化し、そのまま消滅していった。


「お、おい! セレイン・・・っ!」


 海斗は、ヒラヒラと舞い落ちる、黄色いワンピースに向かって叫んだ。その直後、土井が、眉をひん曲げ、顔を真っ赤にして突進してきた。


「ぶっ殺してやる」

「・・・っ!」


 海斗は、とっさにみさきに覆いかぶさった。



 ガコンッ―――。



「痛って・・・っ!」


 土井は、両手に高圧の電流が走ったかのような衝撃を受ける。そして、床に叩きつけられた鉄パイプは、暴れ馬のようになって、土井から離れていった。


「なっ・・・なんだ⁉︎」


 次に、土井に飛び込んできた光景は、地上数メートルの位置で、海斗とみさきが大量の水に包まれながら浮かんでいる姿だった。さらに、海斗の胸の真ん中から、深海でイカが発光するかのように、白い光の粒が生成されている。それは、海斗の皮膚全体に広がり、倉庫を隅々まで明るく照らした。


「おれのからだが・・・光ってる。セレイン・・・? わわっ!」


 海斗は、まるでベッドに寝かされるように、絶妙な下からの噴流に乗って仰向けになった。


「・・・っ! み、みさき!」


 海斗は、水上でバランスをとりながら、腰元で乱れ浮くみさきを左手で引っ張り上げる。そして、ラッコが貝殻を抱えるように、みさきを自分の胸に乗せて気道を確保した。すると、ふたりは、そのままロケットが発射するように、月光差し込む屋根から、藍色の星空へ投げ出される。


「ぐ・・・っ!」


 海斗は、思わず奥歯を噛み締めて声を出した。経験したことのない重圧で、内臓が押し潰されるかと思ったら、瞬時に浮かび上がって回転する。ぼう然と立ち尽くす土井を残して、ふたりを包んだ光のしずくは、流れ星のようになって、星ヶ丘の住宅街の上を駆け抜けていった。


 そして、海斗の意識は、大海原で静かに沈む船尾のようになって、消えていったのだった。

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