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第8話:悔しいって言っちゃえば?

 最終日・インターハイ予選会場―――。


「うげっ! 結城くんの横断幕・・・っ⁉︎」


 みさきが、薄暗いコンクリートの階段を上って観覧席に出た瞬間、異様な熱気に包まれた。二階席の対岸から『翔泳! 結城海斗選手!』と書かれた、燃えるような真っ赤な幕が堂々とかかげられ、その奥に、横断幕と同じ色のTシャツを着た老若男女が、目をぎらつかせて、海斗の出番を待ち構えている。


「りっ、りさ! なに、あの人たち!」


 みさきは、思わずりさのシャツを引っ張って言った。


「結城くんの応援団。ファンクラブみたいなもんね。全国から集まるんだって」

「マジ・・・。わたしたち、いままで、そんな人と普通に会話してたの⁉︎」

「しっかりクラスの女子も、何人か混じってるね」

「ひぇ〜・・・」


 りさは、荒い火の粉のように落ち着かないみさきを、ドライアイスのような冷ややかな目で見た。


「はぁ・・・みさき。前から言おうと思ってたけど、あんた、もっと自分に自信を持った方がいいよ」

「え・・・? りさ、それ、どういう―――」

「結城―っ!」

「結城 海斗―っ!」

「がんばれーっ!」


 すると、みさきの声をかき消して、地響きするような歓声が起こった。


「な、なに⁉︎」


 みさきのうぶ毛が跳ね上がった。観客の視線が、プールサイドに現れた海斗に注がれている。


「個人メドレー、400メートルの決勝だね」

「へ、へぇ・・・」

「バタフライが最初で、背泳ぎに平泳ぎ、自由形の順番だって」


 みさきは、中央のスタート台に向かって歩く海斗の姿に、吸い込まれていく。長い手足に、彫刻のように美しいバランスの取れた筋肉。大きな背中は、まるで翼が生えたように、繊細に仕上がっていた。まっすぐ鼻筋の通った横顔から、絹糸のように細長く、なめらかな呼吸をしているのがわかる。そして、鋭い鷹のような眼光は、ゴーグルをはめていても、みさきの胸に突き刺さった。


(ゆ、結城くん・・・。別人みたい。でも、意外と他の選手に比べて痩せてる・・・?)


 みさきは、会場を大きく揺らす熱気と歓声の中、威風堂々の海斗に、ただただ圧倒されていた。スタート間際の張り詰めた緊張感と、あふれ出す高揚感が入り交じった感情で、汗ばむ手をにぎり締める。


「ちなみに、左隣、田辺くんだから」

「え? あ、ほんとだ!」

「あと、右隣は茂木先輩。三浦先輩は第6レーンだね」

「マジ⁉︎ 決勝に残った八人中、四人が星ヶ丘なの⁉︎ うちの水泳部ってそんなレベル高かったんだ・・・」

「顧問の須藤がうまいんだよ。選手集めるの」



 パーン!



 水しぶきとともに、すべての泳者が水中に消えた。


「うわ・・・っ!」


 みさきは、乗り遅れた大型バスを必死に追いかけるようにして、会場の雰囲気と、海斗のパフォーマンスについていく。


 潜水艦が水面に浮上したと思ったら、ジェット機が大きく翼を広げて飛び立つように、海斗の両腕が同時に羽ばたいた。イルカのようにしなる力強いキックは、蝶のように美しい舞いに変わった海斗のスピードを、どんどん加速させていく。


「結城くん! 田辺くん、がんばれーっ!」


 みさきは、いつの間にか、風船が急に破裂したかのように、のどを震わせながら大声を出していた。


 海斗は、バタフライを終え、田辺、茂木に頭ひとつ分の差をつけて折り返す。仰向けになって浮かび上がってきた海斗は、放たれた矢が水面を突き進むかのように、まっすぐ腕を肩から振り上げて水をかき上げた。


「田辺が結城に追いついてきたぞ!」

「得意の背泳ぎ!」

「いいぞー! ふたりともいけーっ!」


 会場は、新星のように舞い降りた海斗と田辺に、声援が渦を巻く白熱状態となっていた。


(すごい、ふたりとも・・・っ! これだけ注目されてるなんて)


 みさきは、大空を仰ぐように、観覧席をぐるりと見渡した。


 海斗は、目にも止まらぬターンを見せ、魚雷のように高速な潜水で進んでいく。そして、穏やかになった水面から、上半身が出てきたと思ったら、胴体に引き付けた腕と膝を指先からつま先まで一直線に伸ばし、平らな水面を滑るように進んでいく。一見、凛とした、優雅な伸びは、海底で来たるべき狩りに備えるシャチのような不気味さをかもし出していた。


 そして、青く四角いキャンバスに、中央で並ぶ三人を頂点にして、急斜面の氷山が描写される。


「見ろよ! 星ヶ丘、三人の対決だ!」

「茂木も速えーっ!」

「いけー、茂木ーっ! 最後の夏ーっ!」


 みさきは、りさの腕をとっさにつかむ。


「りさ! 田辺くんが平泳ぎ、トップで折り返した!」

「ちょっと、みさき! あんまり服引っ張らないで! わたしも、ちゃんと観てるから!」


 ふたりの興奮は最高潮に達し、田辺のリードで観客席が大きく揺れる。


「田辺が上半身リード!」

「おい! 茂木が結城と並んでるぞ!」

「三浦も伸びてきた! さすが平泳ぎのプリンス!」

「どうした、結城ぃ! がんばれーっ!」


 みさきとりさは、手を取り合い、息をすることも忘れたかのように、固唾をのんで見守る。


 海斗は、自由形に切り替わる最後のターンで、ジェット機のエンジンのリミッターを外したように、凄まじい爆発力で壁を蹴った。


「おぉぉぉっ!」


 会場全体が上昇気流に乗って浮かび上がっていく。みさきは、今日いちばんの歓声に巻き込まれた。さらに、その声は、みさきの胸に津波のようになって押し寄せてくる轟に変わり、鼓膜を激しく振動させる。

 海斗の一切ブレない体幹は、水上の高い位置をキープし、スムーズな息継ぎを実現させる。伸びた足から交互に放たれる衰えないキック力と、肩から遠いところに着水していく左右の腕は、全身を猛烈なスピードに乗せ、ぐんぐん田辺に急接近していった。


「田辺が減速⁉︎ 抜かれるぞ!」

「いや、結城の加速が半端ねーんだよっ!」

「そのままいけーっ!、世界の自由形!」


 みさきの心臓が駆け上る。


(すごい、結城くん! もう、独走状態・・・っ!)



「結城 海斗、4分20秒46」



「おぉぉぉぉぉぉ!」

「結城ぃぃぃぃ!」

「大会新記録ーーー!っ!」


 舞い上がった会場は、ゴーグルを外した海斗を胴上げするかのように、歓喜で囲み上げた。海斗は、肩で息をしながら、続いてゴールをした茂木と握手し、レーンを挟んで三浦と目を合わせた。みさきは、高鳴る鼓動とともに、その姿を目に焼き付ける。


「田辺くん、完全にスタミナ不足ね。メダルに届かず」


 りさは、冷え切った表情をして、コースロープに頭を乗せて天を仰ぐ田辺を見つめた。


「りっ、りさ、田辺くんも十分速かったよ! 背泳ぎで銀メダル獲ってたじゃん! 褒めてあげようよ!」


 みさきは、風が吹いて消えてしまった火を、もう一度起こすように言った。


「安心しろ、斉藤。田辺には、しばらく陸上部のメニューをこなしてもらう」


 後方から、親しみのある、心地よい安定した男性の声が聞こえた。


「うげ・・・っ! 須藤っ・・・先生⁉︎」


 みさきは、腰を思いきりひねって振り返って叫んだ。一列飛ばしたうしろの席に、須藤が教室と同じポロシャツとジャージ姿で座っている。


「結城には、世界大会が終わったあと、本格的な筋トレを取り入れるか・・・」


 そう言って須藤は、静かにメモをとる。


「せっ、先生、いつからいたんですか⁉︎」

「いつからって、朝からいたが」

「めずらしく、顧問の仕事もしてるんですね」

「ちょっと、りさ・・・っ!」


 りさは、澄ました顔をして、刃をちらつかせるように言った。


「なにを言っている。おれほど優秀な顧問はいないくらいだ」

「ま、そのメモを茂木先輩と三浦先輩に渡して、これだけ選手が育つんなら、だれも文句は言わないですね」


 そう言ってりさは、須藤の使い込んだメモ帳を見つめる。そして、須藤は、口角を上げながら、メモの続きをとりはじめた。



 会場が、あたたかく、大きな拍手で包まれる―――。



 海斗は、右手を高々く上げて、360度の拍手に応えた。みさきの瞳に、海斗が遠い異国の人物になったかのように、ぼんやりと映る。


(すごいよ、結城くん。わたしと、全然違う人生を歩んでる。ひとつのことに打ち込んで、輝いて・・・これからもっともっと手の届かないところに行こうとしてるんだ)


 先ほどまでのみさきの興奮が、鎮静で上書きされ、胸に冷えた風が通り抜けた。


「みさき、結城くんが、こっち見てるよ」

「へ・・・?」


 みさきがプールサイドを見下ろすと、海斗の澄み渡った瞳が、みさきの目の奥に流れ込んでくる。まるで、ふたりだけが無音の世界に放り込まれたようなときが流れた。


「ね? 自信持っていいって言ったでしょ?」

「へ?」

「結城くんは、あんな顔、みさきにしか見せないよ」

「・・・っ!」


 みさきの心臓は飛び上がり、熱がこもった顔から蒸気が噴き出した。


(え・・・なに? わたし・・・ちょっと期待していいの・・・?)



 夕方―――。


「りさー! みさきちゃーん!」


 田辺の活き活きとした声が、会場のロビーに響いた。田辺は、複数のメダルを首からぶら下げ、大手を振りながら現れた。海斗は、胸元でゴソゴソ動くセレインの興奮をしずめながら、田辺のうしろを歩く。


「ふたりとも、インハイ出場、おめでとう!」

「ありがとう、みさきちゃん! どうだった⁉︎」

「もう、すっごくカッコよかったよ! びっくりしちゃった!」


 みさきは、5歳児になったように目を輝かせ、飛び跳ねるように言った。


「みさきってば、最後のリレーの決勝で泣いてたよ」

「え?」


 海斗の耳がピクンと反応し、田辺の背中から、みさきをチラリと見る。


「・・・っ! だって、みんなのレースにかける思いが伝わって、それがひとつになって、どんどん差が広がっていくんだもん! ほんとうに、感動したんだから!」


 海斗は、終始あふれ出すみさきの感情に唇をほころばせ、心地よくからだを任せる。


「海斗の中、いま、すごく気持ちいい!」

「しぃぃぃ!」


 海斗は、すぐさまポロシャツの中に頭を突っ込むようにして、セレインを黙らせる。


「結城 海斗くん、東花スポーツだけど、ちょっとインタビューのお時間いいかしら?」


 うしろから落ち着いた女性の声がした。ウェーブのかかった長い髪をかき上げ、上品なスーツに身を包んでいる。甘い香りで海斗を誘惑するように、ゆったりとした笑顔を見せていた。


「あ、はい」

 

 海斗は、石ころのような無表情に戻って返事をした。みさきたちと引き裂かれるように、ロビーの隅に連行されていく。りさは、いつの間にか合流した他社のメディアに埋もれていく海斗を、落ち着き払って見ていた。


「さすが結城くん。この三日間で、ほぼすべての大会記録を塗り替えただけのことはあるわね」

「うわ〜。ほんとにどこに行っても人に囲まれるんだね。すごいフラッシュの数・・・」


 そう言ってみさきは、発光体になったような海斗を、遠目で見つめる。大人相手に、淡々と質問に答える姿は、まるで単純作業をこなす機械のように映っていた。


「あの〜、最後に、笑顔の写真を一枚取らせていただきたいんだけど、いいかな?」

「・・・笑顔?」


 そう言われて海斗は、大きなカメラレンズを前に思考回路が停止し、表情が固まった。


「はぁ・・・あいつに笑えって、無理に決まってるじゃん。ちゃんと、なんのために笑顔をつくるのか言ってやんねーと」


 ずっと海斗を見ていた田辺は、りさとみさきの横でつぶやいた。


「ゆ、結城くん・・・愛想笑いもできないの?」


 みさきは、顔を引きつらせて言った。


「みさきちゃん、思い出して。目的思考の単細胞ってやつ」

「そうだけど、そこまでなの・・・?」

「どうせ、愛想笑いをする理由に興味がないんでしょ。このままじゃ、いつになっても帰れそうにないわね・・・ってことは」


 そう言ってりさは、細い目をしてみさきを見た。


「みさきの出番だよ!」

「へ?」

「結城くんに、ここから手を振ってみな」

「なるほどな。さすがりさ」

「え? なに、田辺くんまで・・・」


 みさきは、りさと田辺の歩幅に合わず、いつものように遅れをとる。


「あんただけなんだよ。彼を理由も目的もなしで笑顔にできるのは」

「はぁ?」

「まあ、いいからいいから!」


 そう言ってりさは、みさきの腕を上に放り投げた。


(ひえっ! 結城くんと目が合った!)


 そして、腹をくくったように、宙に舞った手を、そのまま海斗に向けて左右に動かした。



 瞬く間にフラッシュが焚かれ、それは海斗を何重にも覆った―――。



「ね? 言ったでしょ?」

「・・・・・・っ!」

(なんだろ・・・なんか、あの笑顔、だれにも見せたくなかった気がする・・・っ!)



 海斗は、引き潮のように去っていった記者たちを横目に、田辺たちの元へ戻った。


「なあ、海斗。今夜、星ヶ丘の花火大会にみんなで行こうって言ってるんだけど、おまえもどうだ?」


 みさきは、田辺の問いに、耳をゾウのように大きくさせた。


「いや、今日は家で休む」

「そっか」


 みさきは、風船に空いた穴から空気が抜けるように、ひそかに肩を落とした。


「結城くん、来なよ! みさき、浴衣着るんだって!」

「え⁉︎ りさ! わたし、そんなこと言ってないよ!」

(また勝手なことを・・・っ!)


 海斗は、みさきのりさに噛み付くような顔を見て、ふっと微笑んだ。


「ごめん、明日も練習あるし―――」

「冗談だよ、結城くん。しっかり休んでね。また機会があったら集まろ」

「うん。ありがと」


 りさは、自分で散らかした部屋を片付けるように、早々と会話を切り上げた。


 

 その夜・海斗の自宅―――。


 ピコン!


 海斗は、風呂上がりの髪の毛をタオルで乾かしながら、ソファに転がるスマホをのぞいた。


『結城くん! みんなの浴衣姿、送るね! りさ』

(浴衣・・・?)


 スポッ!


「・・・・・・」


 送られた画像には、薄い紫色を基調とした生地に、やわらかい白の花が咲いた浴衣姿のみさきが写っていた。振り返りざまにシャッターを切られたと思われる様相は、海斗のほおをゆるませる。三つ編みにした髪の毛をうしろでまとめ、小さな光がこぼれるような繊細なかんざしをさしている。落ち着いたクリーミーな帯は、背中で大きなリボンをつくり、みさきのプリッとしたお尻を、より一層かわいくさせていた。海斗は、ポチッと画像を保存する。



 ピチャン―――。



「海斗、顔熱い。心臓も動きまわって忙しい」

「うるさい」


 ピコン!


(ん? みさきから、直接・・・?)


『結城くん、みさきです。さっき、りさから変な写真が送られたと思うけど、気にしないでね! あと、露店でなにか食べたいものある? もしよかったら、買って持っていくよ』


 海斗は、ふっと笑みを浮かべた。


『たこ焼き、食べたい』


 スポッ!


『了解! じゃ、花火終わったら届けるよ! また連絡するね!』

『うん。ありがと、みさき』


 スポッ!


「ん?」


 海斗は、小さなウサギが凛々しい顔をして親指を立てたスタンプに、笑いをこらえる。


「海斗のからだ、久しぶりにやわらかくなってる」

「やわらかい?」

「白身魚みたいに、すごくほぐれてる」

「・・ああ、茂木先輩が目指してたタイムを出せたから、ほっとしてるかも」

「なんだ、みさきと話してるからかと思った」

「・・・・・・」


 海斗の視線は、ゆっくりスマホの画面からセレインに移った。


「おまえ、文字読めたっけ?」

「モジ?」

「いや、なんでもない」


 そう言って海斗は、静かにスマホの画面を暗くした。



 星ヶ丘・河川敷―――。


 車一台がやっと通れる河川敷の遊歩道に、人がこぼれ落ちるように密集している。花火は、普段の鬱憤を木っ端微塵にしてくれたかのように、人々の足取りを軽くさせる。7組の生徒は、亮太を先頭に固まって歩いていた。


「花火、きれいだったね〜」

「あーあ、結城くんも来てほしかったなー」

「斉藤さん、ちゃんと誘ってくれた〜?」

「誘ったわよ」


 みさきは、斜めうしろから聞こえるりさたちの会話で、夢から覚めたように、自分の行いを振り返っていた。


(これから、結城くんと会う約束しちゃった・・・。勢いとはいえ、直接メッセージした挙句、押しかけるようなことして、迷惑じゃなかったかな)


 みさきは、花火の一滴が夜空に消えるように、精魂が抜けていく。


「じゃあ、みさき。わたしたちは、ここでおいとまするわ」


 りさの声が聞こえた。気がつくと、遊歩道と向こう岸に渡る橋が交差する場所で、田辺とりさが立ち止まっている。


「え、あ、うん! 田辺くん、ゆっくり休んでね! 来月のインハイ、がんばって!」

「おう! ありがとな、みさきちゃん!」


 そう言って田辺は、大きく手を振った。みさきは、まるでコンベヤーに乗せられたように、遊歩道で後続する人々から、ふたりと引きはがされていった。


「・・・みさき、ひとりで大丈夫かな」

「ん? みさきちゃんが? なんで? クラスのみんながいるだろ?」

「そうなんだけど、なんとなくね・・・」

「大丈夫だよ。行こうぜ」


 そう言って田辺は、りさの指に、自分の指をからめるようにしてにぎった。


「あんたは、大丈夫?」

「なにが?」

「いつまでも、強がってなくていいと思うんだけど」

「・・・・・・」

「悔しかったら、悔しいって言っちゃえば?」

「・・・お見通しか」


 田辺は、観念したように、ふうっとため息をついた。



 ふたりの間で、無言の時間が流れる―――。



 すると、田辺がボソッと口を開いた。


「小さい頃からずっと海斗と泳いできて、同じように練習してきたはずなのに、ここまで差を見せつけられるとは思わなかった」

「うん」

「あいつがいる限り、おれが日に当たることは、ないんだろうなって感じた」

「うん」

「絶対に勝てない相手がいるのに、毎日しんどい思いして練習してる自分が、ちょっとバカらしくなった」


 田辺は、力のない瞳で、ただ、まっすぐ歩きながら話す。


「正直、海斗じゃないけど、いま、なんのために泳いでんのかなって、理由がよくわかんなくなってる」


 とうとう、荒野のようになった田辺の心が、冷たい手を通してりさに伝わった。


「そうね。結城くんは、すごいよね。見栄えいいし、スマートだし、必ず結果残して、先輩からの信頼も厚い上に、みんなの期待を裏切らない」

「おい、りさ・・・おれをさらに落ち込ませる気か?」


 田辺は、目を大きく開いて、淡々と話すりさを見た。


「田辺くんは、すっごくがんばってるよ」

「・・・・・・」


 田辺は、りさのぐるぐるまわる羅針盤のような会話を、落ち着いて聞きにいった。


「結城くんがどれだけすごいかより、自分がどれだけのことをやってきたか、ちゃんと見て」

「・・・・・・」

「よくここまできたねって、もうひとりの田辺くんが言ってるよ」

「・・・・・・りさ」


 田辺の心臓が波打つと同時に、胸のしこりが溶けるようにあたたかくなる。


「・・・わかった」


 そう言って田辺は、人が行き交う橋の上で立ち止まった。そして、りさを自分の胸の中に放り込むようにして、強く抱きしめた。


「サンキュ、りさ」


 田辺は、身をかがめ、りさの頭にほおをうずめる。干からびていた土地が、再び湧き水で潤いを取り戻すように、心がゆっくりと満たされていく感覚を覚えた。


「うん。ありがと、話してくれて」


 そう言ってりさは、田辺の背中にやさしく腕をまわした。



 遊歩道―――。


「よーし、これからみんなで、カラオケ行こうぜ〜!」

「いいな、亮太! 行こ行こ!」

「はーい、行く人手挙げて〜。わたし、いつものとこ予約するよ〜」


 亮太の一声で、クラスメイトたちは、川の流れのピッチが変わったように話を進める。


「みさきも、来るだろ?」

「あ、ごめん、亮太。このあと、ちょっと約束があるんだ・・・」


 みさきは、胸がギュッと締まると同時に、たこ焼きの入ったビニール袋をにぎり締めた。


「・・・・・・」


 目を合わせようとしないみさきに、亮太の顔が曇る。


「結城と会うのか?」

「え・・・?」


 みさきは、亮太の鋭い瞳と勘に、心臓が縮こまった。


「会うんだな?」

「う、うん・・・。なんでわかったの?」


 しばらく、足元から砂利を踏み締める音だけが、みさきの耳に染み込んでいく。


「ちょっと来い」

「えっ、ちょっと!」


 亮太は、みさきの手首を力強くつかみ、河原に向かって土手を下りていった。


「おーい、亮太! どこ行くんだぁ?」

「みさきが落とし物したっていうから、ちょっと戻って探してくる! すぐに追いつくから、先に行っといてくれ!」

「そうか、わかった。じゃあ、受付しとく!」

「すまん! 助かる!」


 亮太は、片手で拝むようにして叫び、河原から遊歩道に上がってくる人の流れに逆らいながら、向こう見ずに突き進んだ。


「ちょっと、亮太! なに勝手なこと言ってんのよ! わたし、なにも落としてない!」

「いいから!」


 浴衣の裾が雑草にからまる。みさきは、上体を反らしながら、足元に全神経を集中させて土手を下りていった。亮太は、人がまばらになった橋の下で立ち止まり、みさきから手を離す。


「亮太・・・っ! いったい、なに⁉︎」


 みさきは、肩に力が入った亮太の背中に、荒げる息を押さえながら言った。


「みさき!」


 そう言って亮太は、みさきの真正面にからだを向けた。


「は、はい・・・!」


 みさきは、思わず、背筋を伸ばして返事をした。


「おまえに、話したいことがある」

「どうしたの、急に・・・」


 亮太は、いつになく真剣な眼差しで、みさきを見つめて言った。みさきは、笑顔をつくり、緊迫した空気を和らげようとする。


「おれ、おまえと中学でクラスがいっしょになって、話しかけてくれたときから、毎日、学校に行くのが楽しみだった」

「・・・・・・?」

「少しずつ冗談言い合えるようになって、笑ったり、泣いたり、ケンカもできるまでの仲になれて、すごく嬉しいと思った」

「ちょ、ちょっと、亮太・・・?」


 みさきの鼓動が速まり、まるで、散らかった家に客人が押し寄せるように焦る。


「ずっと、そうやって、そばにいられたらなって思ってたけど・・・最近のおまえは、おれの方を向いてなくて、なんか離れていく感じがしてイライラしてた」

「そ、そんなこと―――」



「おれは、みさきのことが好きだ」



「・・・っ!」


 みさきは、言葉をのどに詰まらせた。


「だから、もし、おれのことを、少しでも想ってくれているなら・・・付き合うってことも、考えてほしい」


 亮太は、顔を赤らめて、みさきをまっすぐ見て言った。


 みさきは、しばらく下を向いて、微動だにしない。活発になった心臓から、ドクドクと血がうねりを上げる。両手でにぎり締めるビニール袋の持ち手は、手汗でびっしょり濡れていた。


「みさき、返事は今度―――」

「待って!」

「え・・・」


 みさきは、下を向いたまま、のどを無理やり広げて声を発した。


(変わりたい・・・っ!)


 みさきのあごが震え、胸の間に流れる汗が止まらない。


(ここには、黙ってても手を差し伸べてくれるりさも、結城くんもいない。そうよ・・・たまには、自分で自分の面倒見たらどうなの! みさき!)


 みさきは、鼻から息を吸い込んで、正面を向いた。


「亮太、わたしは、ちゃんと、いま返事をしないといけないと思う」

「みさき・・・」


 亮太は、これ以上になく堂々としたみさきの姿に吸い込まれ、武器を取り上げられた侍のように、棒立ちになった。


「亮太が、わたしのことを、そんなふうに想っててくれて嬉しい。わたしも、亮太のこと大切に思ってたから」

「ほんとか⁉︎」


 亮太は、足を地面につけたまま、飛び上がるように言った。


「うん。亮太と、いつも楽しい時間を過ごしたいから、すごく気にかけてた。亮太の機嫌ひとつで、わたしの一日が決まっちゃうくらい」

「・・・・・・」


 亮太の膨らみかけた歓喜の風船が、意思に反してしぼんでいく。亮太は、みさきが静かに目をつぶり、眉の間にギュッと寄った顔を見つめる。


(そう、人の顔色ばっかりうかがってちゃダメだ! 相手に合わせて、好かれるように振る舞って、ご機嫌とってばっかり・・・っ!)


 みさきのお腹から煮詰まった熱が、からだ全体に広がっていく。



「亮太は、わたしの大事な友達。だから、付き合えない」



 みさきは、亮太のこわばった顔つきから、目をそらさずに言った。みさきの真ん中から放たれた言葉は、亮太の胸に、刻印のように強く押しつけた。そして、みさきは、細い糸のような息を吐き切ってから、亮太に背を向ける。


「み、みさき! 行かないでくれ!」


 亮太は、引かれた境界線を、一歩踏み越えるようにして手を伸ばした。


「ごめんね、亮太。わたし、これからは、本当の自分を表現していきたい。もう、ウソはいらないや」


 そう言ってみさきは、細胞にへばりついていた汚れを、すべて洗い落としたように、すっきりした笑顔を見せた。


「みさき・・・」


 亮太は、振り返らないみさきの背中に広げた手を重ね、自分の気持ちをクシャッと潰すように、こぶしをにぎり締めた。そして、腹の奥まで空気を吸い込み、はぁっと太い息を吐く。


 亮太は、橋脚の一部になったように、しばらくの間、その場を動かなかった。




 海斗の自宅―――。


「セレイン、おれ、下の公園でみさきに会ってくる。すぐ戻るから、留守番してて」

「きゃはっ! みさき! 今日も、巣に連れて来るの⁉︎」

「連れて来ないよ。時間も遅いし、ちょっと話すだけ」

「え〜っ!」


 そう言って海斗は、濃い灰色の袖なしのTシャツに頭を通し、短パン姿でサンダルを履く。スマホをポケットに入れ、ほたえるセレインに背を向けたまま、玄関の扉を閉めた。


 体温より下がった外気温は、昼間の酷暑を忘れさせてくれる。公園の土を踏むと、心地よい夜風が海斗を迎えた。複数の外灯は、とある日のみさきの残像を映し、ブランコを照らしていた。海斗は、その囲いに腰かけ、明るい夜空を見上げる。住宅から拡散した光は、肉眼で見える星の数を限定させていた。



 ピロロロロロ―――。



(みさきから電話・・・)

「もしもし、みさき?」



『あー、結城 海斗くん?』



 荒々しく、痰が絡まったような声。


(みさきじゃない・・・?)

「だれ・・・?」


『結城くんが、ちっとも相手してくれないから、代わりに君のガールフレンドに付き合ってもらっちゃったー!』

『はっはっはっ! 佐竹さん、その言い方、ウケるっす!』


 海斗の全身に虫酸が走る。脈が急激に速まり、呼吸が波打ち際のように浅くなった。


『いいか。いまから言うところに、ひとりで来い。警察にも通報するんじゃねーぞ』

「おまえ・・・っ! みさきになにをした!」

『“おまえ”じゃねー。佐竹さんだ。星ヶ丘の河川敷の空き倉庫。30分以内に来ないと、かわいい浴衣が脱がされてるかもな』

「・・・っ!」


 海斗は、髪の毛を逆立たせ、途切れたスマホを、ゆっくり耳から離す。


 スポッ!


 同じ画面に、一枚の写真が届いた。そこに、凍りついた表情をするみさきが写っている。乱れた髪の毛と、口に貼られたテープが、必死の抵抗を物語っていた。海斗は、画面にヒビが入るほどの力でスマホをにぎり締め、奥歯を噛み締める。そして、内臓を燃え尽くすような怒りとともに、からだは有無を言わず、駅の方へ駆け出していた。



「・・・海斗?」



 セレインは、リビングのソファで、からだに電流が広がるような違和感を覚えた。胸に手を当て、ぼぉ〜っと白い天井をなぞって瞳を動かす。おもむろに、その延長線上にあったカーテンの前まで二本足で歩き、両手で窓を開けた。そして、ベランダの手すりの上で直立し、星ヶ丘の町をまっすぐ見下ろす。マンションの5階に流れ込んでくる風は、セレインのプラチナの赤髪と、黄色い花びらのワンピースをやわらかく揺らしていた。


 セレインは、そのまま夜を明かすかように、一切、瞬きをせず、微動だにしなかった。

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