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第6話:おれは、怒ってたのか。

 星ヶ丘高等学校は、梅雨明けとともに、期末テストの時期に入っていた。日差しが一気に強まり、日中はアスファルトから上がってくる熱気と相まって、建物の外壁が揺れている。


 放課後、今日の水泳部員は、いつもの金曜日とは違い、華やいだ気分に包まれていた。



 更衣室―――。


「はぁ〜、週末に部活が休みなんて、久しぶりだな〜! 茂木先輩も思いきったことしてくれるぜ!」

「だな! 来週のテスト期間は朝練もないし、ゆっくり起きられるのも最高だ〜っ!」


 田辺は、先輩が全員更衣室から出ていったことを確認して、大きく背伸びをして言った。他の一年も、田辺の調子に合わせて盛り上がる。海斗は、みんなの会話を聞き流しながら、ロッカーの中で寝ていたセレインをそっと起こした。


「おい田辺。茂木は、遊ぶために休みにしたんじゃないからな。ちゃんと勉強するんだぞ」

「うわっ! 三浦先輩、いたんすかっ!」


 そう言って田辺は、トイレから出てきた三浦を見て飛び跳ねた。田辺に同調していた一年は、そそくさと背を向けて、顔を引きつらせながら着替えを続けた。


「じゃ、最後のやつ、鍵閉め頼んだぞ」

「うっす」


 更衣室から三浦が去り、また、田辺たちの緊張の糸がほどけた。そして、それぞれが、せきを切ったように話しはじめる。


「あ〜、テスト勉強か〜。まったく気が乗らね〜」

「おれは、とりあえず寝まくるぞ」

「いいな、寝溜め! おまえ裏切るんじゃねーぞ」

「田辺はどうなんだよ」

「おれは、学年トップの彼女に勉強教えてもらうから、余裕だぜ」

「ふん! この勝ち組め! とことんムカつくぜ!」


 途端に、田辺は頭を腕で固定され、周りから蹴りを入れられる。


「おい、結城。おまえは?」

「ん? おれ? おれは、ちょっと復習するくらいで大丈夫かな」

「くっそ〜! おまえも、どこまで余裕なんだよ!」


 そうして、更衣室の電気が消され、一年たちは、外灯が点灯しはじめた校舎をあとにする。


「結城、いつも鍵、サンキューな〜」

「うん」


 そう言って海斗は、ひとり職員室経由で校門を出た。駅までの坂道に吹き上がる夜風は生ぬるく、制服の下にじっとりした汗が流れる。



 ピチャン―――。



「海斗、またあいつらがいる」

「へ? あ、ほんとだ」


 海斗が胸元から顔を出したセレインの視線に合わせると、歩道をふさぐようにして佐竹たちが待ち伏せていた。


「・・・・・・」


 海斗は、近づいてくる三人を前に、あたりを見渡しながら逃亡経路を頭にめぐらせる。すると、後方に別の三人が現れ、路地に追いやられる。そして、アリが這い出る隙もないほど、ぐるりと取り囲まれた。


「・・・また、なんか用?」


 海斗は、まっすぐ佐竹だけを見て言った。


「今日は、絶対に逃さねーからな」


 そう言って佐竹は、あごを海斗に向かって突き上げた。


「へえ、こいつが佐竹さんの言ってたやつか」

「ケンカなんてしたことなさそうなツラしやがって」


 海斗の背中に、鋭い刃物のような視線と声が突き刺さる。


「海斗、こいつら始末する」

「絶対ダメ。そんなことしたら、試合に出られなくなる」


 海斗は、なるべく口元を動かさず、前を向いたままセレインと会話をした。


「シアイ?」

「うん。泳げなくなるってこと」

「・・・人間界、制限多すぎ」

「ふっ、そうだろ。おまえには、到底、住めそうにないな」


 海斗は、思わず吹き出し、胸元のセレインにかぶさるように背中を丸め、肩を震わせた。


「なにをごちゃごちゃ、ひとりでしゃべってやがる!」


 そう言って佐竹は、弦から勢いよく弓が放たれたような速さで、海斗に向かってこぶしを振り上げる。


 セレインは、すぐさま鉄砲水のような水を、佐竹の足元に向かって流した。海斗は、顔面から地面に打ちつけられた佐竹を飛び越え、破れた網から魚がすり抜けるように脱出した。


「さっ、佐竹さん! 大丈夫すか⁉︎」


 慌てふためいた木下と奥野が、すぐ、佐竹に手を差し伸べた。


「あいつ、また逃げましたよっ!」

「追えぇぇ!」


 佐竹は、鼻から一筋の血を流し、自分に群がる五人を蹴飛ばすように声を荒げた。


「い、いや、でも・・・っ!」


 木下が佐竹のからだを起こしたときには、海斗は暗闇の中に姿を消したように、見えなくなっていた。


「さ、さすが運動部・・・」

「身体能力すげえ・・・」


 海斗の背中を突き刺していた男たちも、その場に、ぼう然と立ち尽くす。


「くっそ! いますぐ土井さんに連絡しろ!」

「え、土井さんですか?」

「文句あんのか⁉︎」

「あ、いえっ!」


 そう言って木下は、佐竹の言われるがまま、スマホを取り出して耳に当てた。



 同時刻・みさきの自宅―――。


「ねえ! みさき! お母さんの気持ち、わかってよ! 毎日毎日、わたしが家族のために、どれだけのことをしてると思ってるの? なのに、なんでわたしばっかり惨めな思いをしないといけないの⁉︎ ねえ! 聞いてるの⁉︎ みさき!」


 みさきは、母親が家に帰ってからの数時間、耳をふさぐ代わりに、意識を宙に漂わせ、すべての音を遮断していた。母親は、みさきの反応に、心とからだを結んでいた感情の糸がプツンと切れる。みさきは、いよいよ肩を執拗に揺さぶられ、首を支点に頭が振り子のようにまわされはじめた。


「黙ってないで、なんとか言ってよ! お母さんがどうなってもいいの⁉︎ いいって思ってるんでしょ! あぁぁぁぁっ!」


 母親は、のどを焼くような声を出して泣き崩れた。


(・・・・・・)


 みさきは、その姿を見下ろしながら、その場からゆっくり離れる。


(・・・っ!)


 気がついたら、みさきは、手に持っていたスマホをにぎりしめ、部屋着のまま、玄関から飛び出していた。



 ただ、無我夢中に走る―――。



 みさきのほおは、流した涙が夜風で乾き、干からびた砂漠のようになっていた。線路に沿って、どれだけ走っていたのかわからない。フェンスを挟んで電車が通るたび、風圧で髪の毛が乱れ、からだがどこかに持っていかれる感覚になる。夜空に光っているはずの星は、線路に灯される明かりに負かされていた。そして、みさきは、迷い込むように住宅街に入り、小さな公園にたどり着いた。複数の外灯が、気持ちよく冷えた鉄の遊具を照らす。



 キィ・・・キィ・・・。



 ひっそりとした公園に、みさきが腰かけるブランコだけが音を立てる。


(あ・・・、りさからいっぱいメッセージが来てた)


 みさきは、手汗にまみれたスマホの画面を明るくした。


(あ・・・、電池切れ)


 ギュウッとのどが締めつけられ、真っ暗になったスマホにボタボタと涙を落とす。それは、ほおを両手で何度ぬぐっても間に合わないほど、止めどなく流れ出していた。近隣住民に気づかれないように声を押し殺すのに、必要以上に息を吸ってしまい、胸に痛みが襲う。



「みさき?」



 なんだか、落ち着いた低い声で名前を呼ばれた。外灯の明かりは、星ヶ丘高校の制服と、手に下げた二つの大きな買い物袋、肩にかけたスクールカバンを、みさきに見せた。


「みさき・・・だろ? なにしてるの、こんなところで」


 そして、明かりは、歩み寄ってくる海斗の顔を照らした。


「ゆっ・・・ゆっ・・・結城くん?」


 みさきが、のどを詰まらせながら声を出す。同時に、スマホが、太ももの隙間から地面に落ちた。海斗を見上げるみさきの顔は、ブランコのサビで茶色く汚れていた。


「泣いてたの?」


 海斗は、買い物袋を下ろし、みさきの前で身をかがめて、地面のスマホを拾う。みさきは、海斗が心配そうに眉をひそめる顔を見て、また、一気に視界がぼやけた。


(そんな顔しないでよ・・・っ! 結城くんのそんな顔見たら・・・っ!)


 みさきの肩が震え出す。


「みさき、なにがあった?」


 そう言って海斗は、そっとみさきのほおに触れて、親指で汚れをぬぐった。


(だから、そんな風にやさしくされたら・・・っ!)


 みさきは、海斗のまっすぐな瞳に吸い込まれるように、両膝を地面に落とす。


(抱きしめてほしくなるじゃない・・・っ!)


 そして、倒れ込むようにして海斗の胸に身をあずけ、のどで激しく息をしながら泣きじゃくった。


「・・・!」


 海斗は、一瞬おさめどころを失った手を、そっとみさきの背中に添えた。そして、みさきが泣き止むまで、ずっとさすっていたのだった。



 十分後―――。


 みさきは、力尽きたように、ペタンと地面に座り込み、海斗の胸から離れた。


「大丈夫?」

「はぁ・・・。いっぱい泣いたら、ちょっとスッキリした」


 みさきは、夜のひまわりのように、うなだれたまま言った。


「ごめんね、結城くん。ありがとう」


 みさきは顔を上げ、乱れる髪の毛の間から笑顔を見せた。海斗の心臓がトクンと反応する。


「なにがあったの・・・って、言いたくなければ言わなくていいけど」

「ちょっと・・・親に反抗してみた。でもこの始末・・・ははは」

「・・・そっか。立てる?」


 海斗は、制服のひざについた土を払いながら立ち上がり、みさきに手を伸ばした。


「うん。ありがとう」


 そう言ってみさきは、海斗の手を取った。



 ぎゅるるるるるる―――。



「は・・・っ!」


 みさきは、立ち上がりながら、慌ててお腹に手を当てた。


「腹・・・減ってるの?」

「あははは。学校から帰って、なにも食べてない・・・」


 みさきは、取り繕う力も失せ、素直に白状した。何度も着こなしたTシャツはよれ、短パンからはみ出た生足は、履き古したサンダルとともに、土ぼこりにまみれていた。海斗は、ふっとほおをゆるめる。


「いまから、晩メシ作るけど食べる?」

「へ?」

「おれんち、あそこのマンションの5階」


 そう言って海斗は、買い物袋を拾い上げ、マンションに指をさした。


「そ、それはさすがに・・・ね。気持ちだけ、ありがたく受け取っておくわ。ありがとう」

(いま、結城くんが作るって言った?)


 みさきは、からだをのけ反りながら答えた。


「おれは、みさきと食べたい」

「へ?」

(ちょっと、マジで言ってんの?)

「いやなら・・・いいけど」

「・・・っ!」


 みさきの正面から、少年のような、海斗の悲しそうな顔が映った。


(かっ、かわいい! ・・・って思ってる場合じゃない)

「いっ、いやってわけじゃないけど・・・! いっ、いきなりお邪魔しても、ご両親にも迷惑だし・・・なんかその・・・ねっ!」

(男の子の家に行くってことが、いかがなものかってことよ・・・っ!)



 バシャッ―――。



「ひゃっ!」

「な・・・っ!」


 たらいがひっくり返ったような、まとまった水がふたりの頭上に落ちてきた。


「なに⁉︎ 雨⁉︎ いや、違うよね! やだ、結城くんもビショビショだよ!」

「・・・っ! セレ・・・!」


 海斗は、前髪からしたたり落ちる水滴を前に、顔を引きつらせる。みさきの服は、からだのラインがはっきりわかるほど濡れ、皮膚にへばりついていた。


「み、みさき。とりあえず、その格好で帰るのは、やめといた方がいいと思う」


 海斗は、ほおを赤く染め、みさきのTシャツに透けて見えるブラジャーから、目をそらして言った。


「げ・・・っ! そっ、そうだね・・・!」


 みさきは、あらわになったボディに気づき、慌てて両腕で胸と股を押さえる。


(なっ、なんて恥ずかしいことになってるの・・・っ! 不快な思いさせちゃって、ごめん! 結城くん!)



 海斗の自宅―――。


「お、お邪魔しま〜す・・・」


 みさきは、恐る恐る玄関でサンダルを脱ぎ、廊下に足を踏み入れた。妙に静かなフロアは、みさきの鼓動を速める。


「ちょっと、そこで待ってて」

「は、はい」


 みさきは、廊下を半分くらい歩いたあたりで立ち止まった。足元で水たまりができるかのように、短パンからのしずくが止まらない。


(きれいなマンション・・・。エントランスもすごく豪華だったし、もしかして、結城くんちってお金持ち・・・?)


 みさきは、小ぢんまりとしながら、廊下の先に見える広々とした空間に目をやった。


「みさき。これ、タオルと着替え」

「あ、ありがと・・・」

(うわっ、結城くん、上着ぐらい着てよね!)


 海斗は、上半身裸の短パン姿で、髪の毛をタオルで拭きながら現れた。みさきの鼓動がさらに速まり、海斗を直視できない。


「ここが浴室。シャワー、浴びるだろ? それと、そこに洗濯機と乾燥機があるから使って」

「え・・・っ! ちょっと・・・っ!」


 みさきが、海斗の言葉をのみ込んだころには、浴室でひとりになっていた。


(これまた・・・なんなの、この状況は・・・っ!)



 海斗は、戸棚から鍋を取り出し、中火で熱しはじめた。手際よく米をもみ洗いし、炊飯器をスタートさせる。そして、買い物袋からいくつか野菜を取り出し、サッと洗って、大きなまな板でカカカカッと刻んだ。鍋に少量の油をしき、薄く切った玉ねぎを、ジュワンと放り込む。クリスタルのように輝く塩を砕き入れ、香り高い粗挽き胡椒を加えた。中火のまま、木べらでひと混ぜし、再び包丁をにぎる。


「どういうつもりか知らないけど、セレイン、やりすぎ」



 ピチャン―――。



「きゃはっ! 海斗、顔、赤かった!」

「うるさい」


 そう言って海斗は、アボガドの種に包丁を振り下ろした。すばやくスプーンで内側をくり抜き、やさしく刃を入れる。先に大きめのボウルに集合していたシャキッとしたレタスと、水々しいきゅうりに、派手に輝くトマト、むらさき色に透き通る玉ねぎたちが、ミルキーなアボガドを迎え入れた。


「海斗がみさきのそばにいると、からだの中があったかくなって、気持ちよくなるから好き」

「・・・・・・」


 海斗は、手を休めることなく、鍋の玉ねぎがキャラメルのようになったところで、小さめに切った肉を投入していく。残りの野菜を入れてジュンジュン炒めると、フロア全体に、食欲をそそる香ばしい匂いが広がった。



 プルルルルルッ―――。



 すると、マンションのエントランスから、コール音が鳴った。海斗は、キッチンから扉のロックを解除する。


「セレイン、そろそろ戻れ」

「え〜、つまんなーい!」


 鍋は、ジュッと音を立てて、加えられた水に蒸気を出して答えた。


「あ、結城くん、シャワーありがとう。服も貸してもらって、ごめんね・・・」


 そこへ、みさきがキッチンに姿を現した。無造作に濡れた髪の毛先を、タオルで挟むように押さえている。


「・・・・・・」


 リズミカルに料理をしていた海斗の手が止まった。みさきの仕草と、袖や裾をたくり上げて、なんとかスエットにおさまっているいでたちに、海斗の目は奪われる。


「やっぱ、結城くんのサイズ、大きいね。ブカブカだよ」

「・・・おれの・・・サイズ、大きい・・・?」


 海斗は、そのまま天井を見上げ、騒ぎ立ててくる細胞を落ち着かせた。とりあえず、目を閉じて、静かに深呼吸をする。


「いい匂い。なに作ってるの?」

「・・・今夜はカレー」

「うわっ! サラダまである! これ、結城くんがいまの短い時間で作ったの⁉︎」

「うん」


 海斗は、ピピッと鍋の火を弱めて、流しに溜まった洗い物をはじめた。


「あ、わたし、洗い物するよ」

「大丈夫。みさきは座ってて」


 そう言って海斗は、目にも止まらぬ速さで片していく。


(なんという華麗な動き・・・。結城くんって、なんでもできるのね)


 みさきは、目を丸くして、その場で立ち尽くした。


「結城くんのご両親は? いつも遅いの?」


 みさきは、カウンターを挟んで、海斗のキッチンでの舞を観賞しながら言った。


「母さんたちは海外に住んでる。正月にしか帰ってこない」

「え? きょ、兄弟とかは?」

「いない。おれ、ひとりっ子」

「じゃ、じゃあ、いま、ひとりで暮らしてる・・・ってこと?」

「うん」

「へっ、へぇ・・・そうなんだ」

(ちょっと待った! わたし、そんな家に上がり込んでるの⁉︎)


 急にみさきの心臓が暴れ出し、顔が火照りはじめる。


(おっ、落ち着いてみさき。結城くんは、ただ、お腹が空いて、服が濡れて、困ってた人を、親切に助けただけ。うんっ!)

「ね、ねえ。スマホ、充電させてもらっていい? 完全に切れちゃっててさ」

「うん、いいよ」


 そう言って海斗は、濡れた手を拭きながらリビングに行き、ソファのサイドテーブルから伸びるコードの先端を見せた。


「なにからなにまで、ありがとね」

(ほんと・・・これ、少女漫画だったら完全に逆よね。女のわたしが面倒見られてどうする。ああ、自分が情けない)


 すると、みさきは、渡されたコードを受け取れきれず、床に落とした。


「あ、ごめん」

「うん、大丈―――」



 コードを拾おうとした、ふたりの手が重なる―――。



「あ・・・」

「あ・・・」



 顔を同時に上げたふたりは、互いの前髪が触れ合い、鼻が交差した―――。



 至近距離で見る海斗の澄んだ瞳に加え、引き締まったセクシーな上半身が、みさきの精神を狂わせる。


「・・・っ! ごっ! ごめん! 手が滑って・・・っ!」


 みさきは、跳ね上がる鼓動とともに、すばやくうしろに下がって距離をとった。


「うん。大丈夫。はい」


 そう言って海斗は、改めてコードを渡した。



 ピーンポーン―――。



「あ、みさき、玄関開けてくれる? おれ、ちょっとシャツ着てくる」

「あ、う、うん!」

(やばい・・・このままじゃ、心臓がいくつあっても足りないかも)


 みさきは、フラフラになりながら、玄関へ向かった。


 海斗は、リビングの奥に姿を消し、自分の部屋の扉をパタンと閉めた。そして、おもむろにクローゼットを開けて突っ立つ。



 ピチャン―――。



「海斗、みさきと稚魚、つくりたいと思ってる」



 ガコッ!



 海斗は、クローゼットの棚に頭をぶつけた。


「だって、ほら。わたしが同じことやっても、なにも変わらないのに、みさきとだったら、からだが熱くなって、心臓が忙しくなる」


 等身大の人間仕様になったセレインは、素っ裸で、服にうずめる海斗の顔を引っ張り出した。


「やめろ」

「ほら、いつもの海斗」



 ガチャ・・・。



 みさきは、玄関の扉をゆっくり開けた。



 ドサッ―――。



 買い物袋が足元に落とされた。みさきは、真正面で硬直している田辺を見て、同じように時間が止まる。


「ばか! 炭酸!」


 そう言ってりさが、田辺のうしろから、転がる炭酸ボトルを拾い上げた。


「って、みさき⁉︎」


 りさは、田辺を押し倒すほどの勢いで玄関に入り、みさきの名前を叫んだ。同時に、金縛りから解かれたように、みさきの口が開く。


「りっ、りさ⁉︎ 田辺くんも・・・!」

「みさきがなんでここにいんの⁉︎ メッセージが既読にならないから、心配してたんだよ」

「ご、ごめん・・・でも、そっちこそ、なんで?」


 みさきは、気持ちが宙に浮いたまま言った。


「水泳部がこの週末休みになったから、みんなで勉強しよってことになったの。田辺くんはお泊まりで」

「ここなら、どんだけ騒いでもいいからなー。メシもうまいし」


 そう言って田辺は、自分の家のように上がり込む。りさは、田辺が廊下を歩いていったのを確認して、みさきを問い詰めた。


「で? なにがどうなってこうなったの? 端的に言いなさい」

「あ・・・はい」


 みさきは、観念したように、その場で、りさにすべてを白状した。


「みさき、あんた、いま下着は?」

「それはさすがに履いてます。結城くんのドライヤー使って、無理やり乾かした」

「でも、ブラはつけてないでしょ」

「・・・っ! やっぱわかる⁉︎」

「ふっ。わたしの観察力をなめないで」


 りさは、高みの見物を楽しむように言った。そして、そのままキッチンに向かい、買ってきた飲み物を冷蔵庫に入れ、スナック菓子をカウンターに積み上げた。


「りさ、あんた、手慣れてるわね・・・。もしかして、ここに来るの、はじめてじゃない?」

「まあね。中間テストのときにも来たから」

「へ、へぇ〜・・・」


 みさきは、気の抜けた炭酸のようになって、言葉を失った。


「あ、結城くん、お邪魔しまーす」

「いらっしゃい」


 Tシャツを着た海斗が、リビングに姿を現した。田辺は、海斗の姿を見るなり、一直線でリビングを突っ切る。そして、海斗をはがいじめするようにして、奥の部屋に連れ戻した。


「なっ、なんだ、潤!」


 海斗は、田辺に頭をネジで閉められたように固定され、手足をばたつかせて抵抗する。


「おい、海斗。おれたちが邪魔なら、帰るぞ」

「へ?」

「みさきちゃんと、どこまでいった?」

「は?」

「とぼけるな。なんでみさきちゃんが、おまえの部屋着を着ていて、ふたりとも風呂上がりなんだよ」


 田辺は、静かに流れる川ように尋問した。


「おれは、シャワー浴びてない」

「じゃあ、なんで髪の毛濡れてんだっ!」

「不可抗力」

「はぁ?」

「潤、悪いことは言わないから、そろそろ離した方がいい」

「はぁぁ?」


 海斗は、田辺の足元に水滴の影が大きく育っていくのが見え、注意をうながした。


「・・・ったく、まあいいや。とりあえずメシ食おうぜ。腹へった」

「おう」


 田辺は、海斗を解放し、リビングの方へ行った。同時に、頭上の水滴も消滅する。海斗は、よじれたシャツを整え、頭を軽く振るって乱れた髪を整えた。



「・・・セレイン、本気だった?」



 ピチャン―――。

 


「海斗が怒ると、からだの中が窮屈になるからいやだ」

「ん? おれ、怒ってた?」

「うん、お腹の血がドクッて動いた」

「・・・そうか。おれは、怒ってたのか」



 四人は、男女が向かい合う形でダイニングテーブルについた。中央に生命がみなぎるように鮮やかなサラダボールが置かれ、オリーブ色に輝く上品なドレッシングが、美しいボートのような容器に入れられて添えられている。


「海斗、いっただきまーす!」

「どうぞ」


 みな、一斉にカレーを口に運んだ。


「うめーっ! やっぱおまえのカレーは絶品だぜ!」

「玉ねぎをよく炒めるのがコツ」

「わたしたちが林間学校で作ったカレーと雲泥の差・・・っ!」


 みさきは、熱々のご飯と絡み合った、リッチで絶妙なスパイスに舌鼓を打つ。


「サラダのドレッシングも美味しいね。レシピ教えてよ」

「うん。じゃあ、あとでメッセージしとく」

「ありがと」


 その瞬間、みさきはのどを詰まらせ、むせ返った。


「ちょっと、みさき、大丈夫?」

「りっ、りさ、結城くんの連絡先、知ってるの⁉︎」


 そう言ってみさきは、グラスに入った水を口に流し込む。


「グループチャット。みさきも追加しとくね。いいでしょ?」

「もちろん。てか、まだ入ってなかったのか」

「・・・・・・っ!」

(この人たち・・・ここまで親睦が深まってたんだ・・・はっ、ははは)


 みさきは、りさと田辺の流暢な会話に、意識を根こそぎ引っこ抜かれ、唖然とした。


「ん? みさき、もう、お腹いっぱい?」


 海斗は、テーブルに置かれた手が止まっているみさきを見て言った。


「あ、ううん。なんかこうやって、みんなでワイワイしながらご飯食べるの、久しぶりだから楽しいなって思ってた!」


 みさきは、とっさに、さまよっていた意識を、無理やり見つけて答えた。


「うん。おれも」


 そう言って海斗は、少年の笑顔を見せた。


「・・・っ!」

(でた〜、このかわいい笑顔・・・)


 みさきの顔が、ぼわんと熱を帯びる。


「結城くんって、そんな顔して笑うんだね。学校では、魚みたいに無表情だから知らなかったけど」


 りさは、包丁をまっすぐ振り下ろすように言った。


「ん? おれ、魚?」

「ちょ、ちょっと、りさ、失礼だよ」


 みさきは、テーブルに上半身を乗り出して言った。すると、田辺がのれんをくぐるようにして、会話に入る。


「りさ、こいつは興味のあることしか、スイッチが入らないんだ。まさに、単細胞レベル」

「ふ〜ん。ってことは、みさきに興味あるってことだよね」

「ああ。そういうことだ」


 そして、りさと田辺は、同時に海斗に視線を送った。


「ん?」


 海斗は、ふたりの凝視をさらりと受け流すように、口に含んだサラダを胃袋に持っていく。


「りっ、りさ! そろそろ、テスト勉強しない? わたし、わからないとこ、教えてほしい」

(そこのカップル! いますぐ、その話をやめなさい。結城くんが困るじゃない!)


 そう言ってみさきは、残りのカレーを口に放り込み、空いた皿を片しはじめた。


「みさき、おかわりいらない?」


 海斗は、立ち上がったみさきを見上げて言った。


「だっ、大丈夫! ごちそうさま、結城くん! すごくおいしかった!」

(てか、なんで、あんたはあんたで、そんな普通にしていられるのよっ!)



 夜8時半―――。


「こら。言い出しっぺのあんたが、速攻ソファでくつろぐんじゃない!」


 りさは、教科書とノートを広げたダイニングテーブルから、リビングのソファで寝転ぶ田辺に向かって言った。


「ちょっと休憩だよ。食べたあと、すぐに動くなって先生に教わんなかったか〜?」

「ばか。それは運動の話。ったく、ちょっとは結城くんを見習いなさい」


 田辺を除く三人は、夕食と同じ席について、勉強を開始していた。


「でも、結城くん、勉強もできるってすごいよね。この前の中間テスト、学年で上位に入ってたの見たよ。朝夕、部活やって、いつ勉強してるの?」


 みさきは、りさにプリントを見せてもらいながら、ざっくばらんに話しかけた。


「あ、みさきちゃん、いま海斗に話しかけても無駄。そいつの集中力、規格外だから」

「え?」


 みさきが海斗に目をやると、海斗は、まるで時空を超越した中にいるように、黙々とペンを走らせていた。


(うわ・・・ほんとだ。なんにも聞こえてなさそう・・・)

「田辺くん、結城くんのこと、よくわかってるんだね」


 田辺は、スマホから目を離し、ソファで寝返りを打ってみさきに視線を移した。


「まあ、幼馴染だしな〜。幼稚園の水泳教室から、ずっといっしょ」

「そうなんだ・・・。なんで星ヶ丘にしたの? ふたりならもっと有名な高校に行けたんじゃない?」


 みさきは、満腹の腹に、デザートを放り込んでいくように質問した。


「家から近いから」


 田辺は、即答した。


「そっ、それだけ・・・?」

「あとは・・・自由に練習させてくれるとこ。おれ、顧問の顔なんて、まだ見たことないくらいだし」

「なるほど・・・。でも、高校生で、そんなことができるってすごいね・・・」

「ま、海斗ほど自分に厳しいやつはいないから、それくらいがちょうどいいんだ」


 田辺は、海斗の保護者になったかのように言った。


「偉そうに。あんたも、もう少し自分に厳しくしたら、世界ジュニア、行けるんじゃない?」


 りさは、ノートに目を落としながら、田辺の急所を金槌で打つ。


「おれは、それをしなくても行ける男なんだよ。来年は選抜されてるから安心しろって」

「別に、心配なんかしてないわよ。ちなみに、水泳部の顧問は、須藤だから」

「えぇぇぇぇぇっ⁉︎」


 田辺は、まな板の上で魚が跳ねるようにして驚いた。りさは、大きなため息をついて、肩を落とす。

 その間、みさきは、りさと田辺の会話が遠景になったかのように、数学の問題を解き続ける海斗の雰囲気に引き込まれていた。  



 夜10時―――。


「ねえ、りさ。今日、りさんちに泊めてくれない?」

「うん、いいよ。親に連絡しときな」

「ありがとね。助かる」


 そう言ってみさきは、数時間ぶりにスマホの電源を入れた。そして、リビングから去り、浴室へ向かう。


「え? おまえら、今夜、ここに泊まんないの?」


 田辺は、ソファから会話に割って入った。


「泊まんないわよ」

「いーじゃん泊まれば。いまから帰るの、めんどくさくね? 空き部屋もあるし、布団もそろってる。なあ、海斗?」

「うん。人数分ある」


 そう言って海斗は、ペンを置いて伸びをした。


「ゆ、結城くんまで・・・。あのね、そういう問題じゃないのよ」


 りさは、テーブルを片す手が止まり、あきれ顔を見せる。


「結城くん、服、貸してくれてありがとう。今度、洗って返すね」


 海斗が廊下に目をやると、みさきが乾燥機から取り出した服におさまっていた。


「着替えたの? もっと着ててよかったのに」

「へ?」

「いや、なんでもない」


 そう言って海斗は、みさきの手から、自分の服をゆっくり引き剥がす。


「え、洗って返すって・・・」

「大丈夫」


 海斗は、やわらかい笑顔を見せて言った。


「そ、そう・・・。ありがとう」

(ほんと、その笑顔は反則だわ)

「じゃ、わたしたちは行くわ。お邪魔しました、結城くん。夕食もありがとう。お菓子、ふたりで食べてね」


 そう言ってりさは、玄関の扉に手をかけた。みさきもあとに続く。


「ふたりとも、駅まで送る」

「いいの?」

「うん」


 海斗は、みさきに続いてサンダルを履いた。 


「なんだよ、ほんとに帰んのか。待てよ、おれも行く!」


 田辺は、閉まりかけた玄関の扉に向かって、足を空回りさせながら廊下を走った。



 静まり返った住宅街に、ペタペタと四人のサンダルの音が鳴る。自動販売機の明かりが、暗闇に慣れた目を射るように照らし、街灯が、等間隔でスポットライトを浴びせてくる。


「ったく、佐竹さんもついてねーな」

「ああ。たかが一年に、これほど手こずるなんてな」


 ちょうどそのとき、木下と奥野が、夜道を徘徊していた。


「ん? お、おい、あれ!」

「ああ?」

「あれ、結城 海斗じゃねーのか⁉︎」

「あっ! ほんとだ!」


 ふたりは、数十メートル先の曲がり角で、海斗たちが通り過ぎるのが見えて心拍を上げた。



「なあ、みさきちゃんも、りさといっしょに応援に来ない? おれたちの地方予選」

「地方予選?」

「水泳部の試合だよ。夏休みの最初の週末に、インターハイの予選があるんだ」

「海斗、おまえも、みさきちゃんに来てほしいよなぁ?」

「うん。観に来てほしい」


 海斗は、田辺の横でうなずいた。


「行こうよ、みさき。結城くんが泳ぐとこ、まだ見たことないでしょ?」

「う、うん」

(結城くん、わたしに観に来てほしいって言った・・・?)


 みさきは、りさの横から顔をのぞかせ、海斗をこっそり見る。


「じゃ、決まりな! くぅぅ〜、ワクワクする〜! 海斗! ぶっちぎりで本戦に進むぞ!」

「おう」


 そう言って海斗は、静かに田辺と胸を高鳴らせた。



「あいつ、このあたりに住んでんのかな」

「ああ。あの格好、絶対そうだ」

「仲良さそうな友達もいるみてーじゃねーか。こりゃ、佐竹さんに報告したら喜ぶぞ」

「くっくっくっ、だな」


 ふたりは、ねっとりした笑みを浮かべ、塀の影から隙だらけの海斗を見届けた。



 海斗の最寄り駅―――。


 りさにお金を借りて切符を購入したみさきは、海斗を見上げて姿勢を正す。


「結城くん、今日は本当にありがとう。すごく楽になったし、気分が晴れたよ」

「うん。よかった」

「じゃあ、また学校でね。バイバイ」


 海斗は、改札を通っていくみさきに、軽く手を振った。


「り〜さ!」

「ん・・・っ」


 田辺は、りさの肩を抱き寄せ、チュッと唇にキスをした。みさきは、改札口を通りながら、聞こえてきた音で想像を膨らませる。


(ひぇ〜、ふたりとも、こんな公衆の面前で・・・っ! りさって、そんな性格だっけ。田辺くんの影響力、恐るべし!)


 そうして、つかの間の金曜日は過ぎていったのだった。

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