第3話:わたしは、人魚のセレインよ。
星ヶ丘高等学校の温水プールは、梅雨の時期でも難なく練習ができる。一週間ほど降り続く雨は、海斗目当てで水泳部に見学に来る女子たちを、遠ざけていた。
この日の放課後、海斗と田辺は、全体練習が終わってから、居残って自主練をしていた。
「ラスト! いけ海斗!」
「はぁ! はぁ! はぁ!」
「よし! 自己ベスト更新だ、海斗!」
海斗は、水の膜を破るようにしてプールサイドに上がった。田辺にハイタッチをして、更衣室の方に去っていく。
「調子いいじゃん、海斗」
「うん。ちょっとスタート変えてみた」
「今度、おれにも教えろよ」
「おう」
ふたりは、いつものように個室シャワールームの壁を挟んで話をする。立ち込める湯気の中、腰にタオルを巻いて出てきた海斗は、すっきりしない顔で右耳を触っていた。
「耳、どうかしたか?」
「・・・なんか、川に入ったときから、ずっと水が抜けてないような気がする」
海斗は、右耳を下にして、片足でジャンプしながら言った。
「さすがに病院行った方がいいんじゃね? 川に入ったの、1ヶ月以上前だろ?」
「うん・・・」
そう言って田辺は、すばやく荷物をまとめ、帰る支度をした。
「じゃあな、海斗! また明日!」
「おう。またな、潤」
海斗は、夏服のポロシャツに腕を通しながら、閉まっていく更衣室の扉に向かって言った。すると、入れ替わるようにして水泳部三年・副主将の三浦が入ってくる。
「結城、これ、8月末の世界ジュニア選手権の書類。親にサインしてもらって、今月中に持ってこい。さっき顧問からもらったから、忘れないうちに渡しとく」
そう言って三浦は、封筒をベンチの上に投げた。
「はい、ありがとうございます」
「あと、おまえが最後だから、鍵閉め頼んだぞ」
「はい。わかりました」
また、閉まっていく更衣室の扉に向かって言った。そして、また、右耳に違和感を覚える。
(ほんとに病院行った方がいいかな・・・)
コポコポコポコポ・・・。
「ん・・・?」
水の中から泡が浮かび上がってくるような音が聞こえる。海斗は、思わず、勢いよく頭を右斜め下に振り下ろした。
ピチャン―――。
「うわ・・・っ!」
水が跳ねる音がしたと思ったら、海斗は、妙な物体を前にして、毛を逆立てた猫のように、うしろに飛び退いた。
「・・・っ⁉︎ ・・・っ⁉︎ ・・・っ⁉︎」
そして、からだをピタッとロッカーにくっつけて、背筋を凍らせる。
「お、女の人・・・? いや、人・・・じゃない?」
漆黒の大蛇のように大きく描かれた曲線美。重なり合う手のひらサイズの角質が、薄白い蛍光灯の光に反射して、不気味に虹色に光っている。急激に細くなった部分から、細い骨が放射線状に大きく広がる尾ヒレのようなものがついていた。
「ウッ、ウロコ・・・? 魚の・・・しっぽ?」
海斗は、生唾をのみ込みながら、ウロコが途切れたくびれに視線を移した。しっとり輝くきめ細かい肌。赤みがかったプラチナの長い髪が、むき出しになった上半身を隠すようにおおっている。すると、伏せていた長いまつ毛がピクッと動いた。
その瞳がゆっくり開く―――。
「ん・・・」
無防備な声が聞こえ、海斗は、ムクッと起き上がった彼女の大きな瞳と、目が合った。それは、空のように青く、どこまでも澄んでいる。
時計の秒針だけが音を立て、更衣室の時を刻む―――。
それは、クジラのような大きな尾ヒレを床に広げ、S字を描きながらバランスよく立っている。海斗は、彼女の頭のてっぺんから、ボリュームのある両胸をおおう髪の毛を通過して、白い肌と虹色にテカる魚の境界線、尾ヒレまでを、食い入るように何度も視線を行き来させた。
「きゃはっ! やっとつながった!」
「つ・・・つながった⁉」
その一言を発すると、彼女は頭からプールに飛び込むように、海斗の胸に向かってジャンプした。
「うわっ!」
海斗は、思わず両手を顔の前で交差させ、背中を丸めるようにして目をつぶった。
また、時計の秒針だけが音を立て、更衣室の時を刻む―――。
「・・・へ?」
海斗が顔を上げたときには、更衣室には自分ひとりだった。何かにぶつかった感覚はなく、飛び込まれた胸の付近を、ポロシャツの上から押さえてみるが、なにも変わったことはない。
「いっ、いまのは・・・?」
海斗は、たがが外れたような動悸がおさまるまで、ロッカーにもたれかかっていた。そして、おもむろに、更衣室からつながった男子トイレの鏡の前に立つ。
(あれ? 耳が治ってる・・・)
耳の気持ち悪さがなくなっていた。しばらく、尾を引く心臓の痛みと、不可解な顔をした自分とにらめっこする。
(・・・とりあえず、ここに立っててもしょうがない。帰ろ)
海斗は、乱れ飛んだ感情を箱に入れて密封し、棚上げした。背中が半分隠れるほどの大きさのスポーツカバンを斜めがけし、更衣室から出る。
職員室―――。
そこは、何十本もの蛍光灯が、机のみを煌々と照らしていた。
「あ、結城くん」
「ん?」
海斗は、出入り口付近の鍵保管庫に手をかけたところで、声の聞こえた方に意識を向ける。
「よい・・・っしょ!」
そこに、プルプル背伸びをしながら、顔が半分隠れるほどの大きさのダンボールを、須藤の机に置いているみさきの姿があった。海斗の顔が思わずほころぶ。
「ちょっと、いま、また笑ったでしょ」
みさきは、海斗の顔に赤外線を照射するように言った。
「あ、うん。笑ったかも」
海斗は、無垢な笑顔を見せた。
「・・・っ!」
(相変わらず素直・・・。それに、なんかその笑顔、久しぶりに見たかも)
みさきの胸が高鳴り、ほおが赤く染まる。
「ぶ、部活、いま終わったの?」
「うん」
「相変わらず、すごい体力だよね。毎日、朝練もあるんでしょ?」
みさきは、平然と返事をする海斗を崇めるように言った。
「うん。みさきは? テニス部だっけ」
海斗は、ふわっとやわらかい顔を見せて言った。
(結城くん、わたしがテニス部だってこと、知ってたんだ・・・)
「う、うん、でも雨で中止になったから、りさの学級委員の仕事の手伝いをしてた。りさは、田辺くんが待ってるからって、ちょっと前に帰ったけど・・・って知ってるか」
「へ? 潤?」
「うん。あのふたり、ラブラブだよね。意外にりさも、あー見えてマメだし、毎日、田辺くんが部活終わるの、待ってるんだよ」
そう言ってみさきは、制服のスカートをポンポンとたたいて、身なりを整えた。
「へ?」
「え? もしかして・・・あのふたりが付き合ってるの、知らないの?」
「うん。知らない」
「あ・・・そ、そう。もう、一ヶ月ぐらい前の話になるよ」
みさきは、スクールカバンが肩からずり落ちるほど、全身の力が抜けた。
「へえ・・・そっか」
そう言って海斗は、職員室の扉を開けながら、振り返ってみさきと目を合わせた。
「みさき、帰ろ」
みさきの心臓がトクンと音を立てた。
「う、うん」
(普通にそういうことを言ってくる・・・)
みさきは、廊下の方に見えなくなっていく海斗を、小走りで追いかけた。
ふたりは、湿気に包まれた下駄箱で、ローファーに履き替えた。
「うわー。やっぱ、まだ降ってるねー」
みさきは、親指にシャープな鉄を食い込ませながら、ビニール傘を広げた。
「あ、おれ・・・傘、更衣室に忘れた」
海斗は、肩にかけたカバン以外、なにも持っていないことに気がついた。
「え・・・、どうやって濡れずに職員室まで来たの?」
「どうやって・・・?」
海斗の脳裏に、虹色に光った放射線状の尾ヒレがよぎる。腹の底で、密封したはずの恐怖に似た感情が渦を巻いた。
「・・・更衣室に戻る?」
みさきは、全身が硬直している海斗を見上げて言った。そのうしろで止まない雨は、真っ暗闇の中、外灯に照らされながら、何本もの白い棒状になって降り注いでいる。
「いや・・・今日は、更衣室はもういいや。行こ」
そう言って海斗は、校門までのアスファルトを、迷うことなく歩きはじめた。
「え? ちょっと、結城くん!」
みさきは、慌ててうしろから背伸びをして、海斗の頭を傘でおおった。海斗のひじが、腕をまっすぐ上に伸ばしたみさきの胸に触れる。
(ひぇっ・・・っ!)
「あ、ごめん」
海斗は、何事もなかったように、みさきの傘の柄を持った。
ひとつの傘に、ふたりがおさまった―――。
(キャーッ! なんなの、この状況は! てか、胸、当たったよね! “ごめん”って、なんのごめんよ! 胸のこと⁉︎ 傘のこと⁉︎)
みさきは、とりあえずスクールバッグを胸の前に移動させ、力いっぱい抱きしめた。海斗は、小さく震えるみさきの肩が濡れないように、傘の角度を微調整する。
「そ、そんなに寄せたら、結城くんが濡れちゃうよ」
そう言ってみさきは、傘の柄を押し戻し、チラッと海斗を見上げる。
これ以上にない、やさしい瞳をした海斗と目が合った―――。
(ひゃ〜っ! やっぱり見るんじゃなかった! わたしのバカ!)
みさきは、顔から火が噴き出しそうになり、髪を振り乱して、激しく正面を向き直した。歩くリズムで、自分の突き出す肩が海斗の上腕に当たる。みさきは、海斗の弾力ある質のいい筋肉を肌で感じ、ひとり興奮状態になっていた。
(とっ、とりあえず、落ち着こう。わたしだけがテンパってもしょうがないじゃない。結城くんは、なんとも思ってないんだから・・・っ!)
駅―――。
(はぁ、はぁ、はぁ・・・。いっ、生きた心地がしなかった)
海斗が傘をたたんでいる間、みさきは構内の柱に手をついて息を整える。
「みさきじゃねーか!」
「へ?」
みさきが顔を上げると、亮太の姿が飛び込んできた。7組のクラスメイトを引き連れて近づいてくる。
「亮太⁉︎ みんなも⁉︎ 何してんの?」
「カラオケだよ。みんな部活が休みになったし、せっかくだから遊んでたんだ」
「あ、結城くん!」
「きゃ、ほんとだ!」
女子たちは、みさきに目もくれず、海斗に突進していった。
「結城くん、部活お疲れさま!」
「うちの学校、温水プールじゃなかったら、いっしょに遊べたのにね、ざんね〜ん」
「今度、休みがあったら、遊ぼうよ!」
「あ、そうだ! 今日こそ、連絡先教えて〜」
一瞬にして、海斗は、四方を女子に囲まれる。そして、海斗は、また、周りから熱せられても溶けない、カチコチの冷凍魚のような表情になって固まった。
(・・・結城くんが、いつもの教室の顔に戻ってる。なんか、さっきまでと・・・全然違う)
みさきは、確かに感じる胸の高鳴りを、うまく取り扱えずにいた。
「みさき、あいつといっしょだったのか?」
亮太は、声のトーンを落として言った。
「う、うん、帰りに職員室でバッタリ会って・・・」
亮太は、女子の中心にいる海斗を薄目で見つめ、唇を歯に巻き込ませる。
「みさき、あんなのほっといて、さっさと帰ろうぜ!」
そう言って亮太は、みさきの腕をわしづかみして歩き出した。
「ちょ、ちょっと、亮太!」
みさきは、スクールバッグをぶつけながら改札を通過し、ホームの方へ引きずられていく。いつの間にか、ひとまわり大きく、分厚くなった亮太の手は、みさきのきゃしゃな前腕の感覚を支配していた。
「りょ、亮太、痛い!」
そう言ってみさきは、ホームで亮太の手を振りほどいた。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・」
みさきは、赤くなった腕を押さえながら、男性の力強さの残響を肌で感じる。亮太は、みさきの目尻に、光るものを見て我に返った。
「あ、ごめん・・・悪かった」
そして、消え入るような声を出して、みさきから目をそらした。
ふたりを風圧で押さえ込むように、電車がホームに入ってくる―――。
「・・・亮太、普通に帰ろ」
そう言ってみさきは、持ち上がるスカートを押さえながら、静かに電車に乗った。続いて、同じ方面のクラスメイトも、なだれ込んで乗車する。車両の扉付近が7組の生徒で埋め尽くされ、その中に、女子たちに包囲されたままの海斗もいた。
「亮太のバーカ。見てよ、腕が真っ赤になったじゃない」
みさきは、気まずい空気を断ち切るように、亮太の目の前に腕を差し出した。
「うるせ。おまえが調子に乗ってるからだろ」
「はぁ? そんな覚えないですけど」
(よかった、いつもの亮太だ)
短いやり取りを終えて、みさきは、安堵の表情を浮かべた。ふと、海斗の方に目をやると、女子たちのツーショット写メに付き合わされている。
(うわ〜・・・結城くんって、やっぱモテるんだ。ひとりでいると、こんなことになるのね)
みさきは、あわれみの目で海斗を見つめる。海斗は言われるがまま、腰をかがめて、向けられるスマホのカメラをのぞく。そして、女子の満足いくショットが撮れるまで、何度もシャッターが押されるのだった。
(そりゃ、だれかといっしょに帰りたくもなるか。ま、わたしは戦力外だったみたいだけど。こればっかりは、申し訳ない!)
みさきは、自分で幕を下ろすように目を閉じ、身の程を噛み締めた。そして、海斗に背中を向け、亮太のうしろで電車の扉が開くのを待つ。
「じゃあな〜。また遊ぼうぜ〜」
「おう! またな、亮太!」
「みさき〜、またね〜」
「うん、バイバイ」
そう言ってみさきが、電車からホームをまたいだときだった。
「みさき!」
「へ?」
海斗の声が聞こえ、振り返ると傘の持ち手が現れた。
「これ、みさきの!」
「あっ・・・うん!」
傘を受け取ると同時に、電車の扉が閉まる―――。
みさきは、人肌にぬくもった柄をにぎりしめ、扉が閉まる寸前に見えた海斗の笑顔と、発車した電車に吸い込まれるように、その場で立ち尽くした。
「ちっ」
そして、亮太の舌打ちがスイッチになったかのように、みさきはハッと意識を取り戻す。
「待って、亮太!」
そう言ってみさきは、急ぎ足で亮太の背中を追いかけるのだった。
みさきの自宅―――。
駅から徒歩15分の一戸建ては、モダンなたたずまいをしていた。玄関周りの繊細な照明が、重圧感のあるドアを上品に魅せる。
「ただいま〜」
「みさき! 遅かったじゃない。さっさとご飯食べちゃって」
「はぁい」
みさきは、台所で手を洗い、制服のまま食卓についた。ふたり分の夕食が並べられている。
「あれ? お父さん、帰ってないの?」
「さあ。知らないわ、あんな人。また、どこかで一杯やってるんじゃない?」
「そう・・・。いただきます」
母親は、花柄のティーカップに紅茶を注ぎ、みさきの真向かいに座る。
「もう、みさき、聞いてよ。あの人ったら、わたしが稼いだお金で、また競馬に行ったのよ。そのくせ、家事の手伝いもしないし、働いたと思ったら飲んで帰ってくるし。本当に、いやになっちゃう」
「うん、そうだね」
みさきは唇だけ横に伸ばし、冷めたみそ汁をすする。
「ねえ、やっぱり、離婚した方がいいかしら。みさきは、どう思う?」
「どうだろう・・・お母さんがそうしたかったら、そうしたらいいと思うけど」
「みさき、それってわたしのこと、どうでもいいって思ってるでしょ」
「え、思ってない―――」
「思ってる。だって、離婚したらこの家も財産も、全部半分にされちゃうのよ。なんで、わたしが苦労して積み上げたものを、あの人にタダであげなきゃいけないのよ」
みさきは、お茶碗を持ったまま、ご飯を口に運ぶ手が止まった。
「じゃあ、お母さんは、一体どうしたいの・・・?」
みさきは、蚊が鳴くような声で言った。
「もういいわ。みさきに話すんじゃなかった。結局、だれもわかってくれないんだから」
「ごめん・・・」
「言っとくけど、わたしがいまの仕事で稼ぎがなかったら、あんた、いまの高校にも通えてないんだからね。感謝しなさいよ」
「・・・うん」
そう言って母親は、席を立ち、自分の部屋へ去っていった。
海斗の自宅マンション―――。
「ただいま〜・・・ってだれもいないけど」
そう言って海斗は、スマホを取り出した。スクールバッグを三人がけのソファに投げ、自分の身も投げるようにして座った。長い足を投げ出し、頭を背もたれに乗せるようにして、白い天井を見上げる。
耳に当てたスマホから、コール音が鳴り響く―――。
「はーい! 海ちゃん?」
「うん」
「海ちゃんから電話くれるなんて嬉しいわ〜。元気してる? この前の全日本、どうだった⁉︎」
「ああ、入賞にはほど遠かったけど、世界ジュニアに選ばれた」
「さっすが、わたしの息子!」
「母さんたち、いま、どこにいるの?」
「さあ〜、どこでしょう。ふふふふ」
「そういうのは、いいから、どこ?」
「ダーリンが本社勤務になったから、ドイツだけど」
「今度、日本に帰るのは、いつになりそう?」
「う〜ん、わかんないけど、お正月には一応帰るつもり」
「わかった。じゃあ、いまから書類をメールで送るから、サインして送り返してくれる?」
「はーい!」
「じゃ、それだけ。ありがと」
「えー、もっとしゃべろうよ、海ちゃ―――」
海斗は、耳からスマホを外して、通話を切った。
「ふぅ・・・」
海斗は、しばらく天井に埋められたリビングの照明を見つめる。
「夢・・・じゃないんだろ?」
ピチャン―――。
「もう驚いてくれないの?」
海斗の目の前に、プラチナの赤髪がウェーブを描き、真っ青に澄んだ瞳が現れた。両手で海斗のほおを包み、互いの鼻のてっぺんがくっつきそうなくらいの距離から話している。
「おれは、自分が見たものを疑う気はない」
「きゃはっ!」
弾けるような笑みを浮かべる美女。きれいに真ん中でわけられた髪の毛が、ほお骨を隠すように、まっすぐおへそのあたりまで下りている。海斗の足を広げた股の間に、漆黒のウロコをまとう下半身がピッタリおさまり、折れ曲がったヒレが太ももに乗っていた。
「とりあえず、そこどいてくれない?」
「え〜、このままがいい」
「ダメ」
そう言って海斗は、彼女の手をそっと下ろしながら、ひとりがけのソファに移った。
「つまんな〜い」
「そんなことより、説明して。おまえ、一体なにもの?」
海斗は、ソファと一体になるようにして深く座った。
「わたしは、人魚のセレインよ。人魚界から来ました!」
彼女は、目とウロコをキラキラ輝かせて言った。
「に、人魚界・・・」
海斗は、改めてセレインの尾ヒレに目を移して言った。そして、一呼吸置いて口を開く。
「駅から家までの間、土砂降りの雨だったのに、ひとつも濡れなかった。どういうこと?」
「う〜ん、わたしが海斗の中に入っていたからかな。人魚の養分!」
セレインは、元気いっぱいに答える。
「人魚の・・・養分。そもそも、なんで、おれのからだの中に入ることができる?」
「いまは、光の存在だから」
「は? 光・・・?」
「魂って言った方がわかりやすい?」
「・・・・・・? ・・・・・・?」
海斗は、思考が追いついてくるまで、眉間にシワを寄せて目を閉じていた。また、ふうっと息を吐いて、会話を続ける。
「おれの中に入る理由は?」
「そんなの、海斗に宿らないと、消えちゃうからに決まってるじゃん」
「ん? 消えちゃうって、死んじゃうってこと?」
「う〜ん、人間界の言葉で言うなら、そうかな」
海斗は、今度は目を閉じて天を仰ぎ、口を一文字にして頭の整理整頓をした。
「まあいい。人間界になんの用があって来た? なんでおれのからだを・・・って、おい、聞いてる?」
セレインが、天井をぐるりと見渡している。
「ここ、海斗の巣?」
「巣っていうか・・・おれの両親の家だけど」
「きゃはっ!」
セレインは、バネのように下半身を跳ね上げ、ソファから飛び降りた。そして、尾ひれの下に水を敷き、その上を滑るようにしてフローリングを移動しはじめる。
「お、おい!」
海斗は、上体をソファからひねり起こした。セレインは、リビングとつながったダイニングルームを通り過ぎてキッチンに立つ。そして、目に映るあらゆるスイッチというスイッチを押し、つまみをまわしたと思ったら、取っ手のついているすべてのものを引っ張った。
稼働した電子レンジが光を放ち、空っぽの冷凍庫から、白い冷気が煙のように吹き出す。熱を帯びはじめたトースターの近くで、滝のように落ちる蛇口の水は、排水口で渦を巻いた。
「・・・っ!」
海斗は、転げるようにして立ち上がり、水浸しになったフローリングの上を走ってキッチンに向かった。全開になった戸棚や引き出しに、頭や腰をぶつけながら、踊らされるようにして、稼働しているすべての電子機器を停止させた。
「ふう・・・」
海斗が一息ついたころには、セレインの姿はリビングから消えていた。
「・・・っ! あいつ、どこ行った⁉︎」
玄関につながる廊下に水の膜が張っている。トイレの水が流れる音が聞こえた。次に、洗濯機が始動した音楽が奏でられ、乾燥機が空っぽでまわり出す。浴室では、浴槽から轟きが聞こえ、シャワーヘッドが水しぶきをまき散らしながら暴れていた。
「マジか・・・っ!」
セレインと入れ替わりになって浴室に入った海斗は、見事に頭から水をかぶった。そして、水跡を追って、一心不乱にリビングの奥の両親の部屋と、書斎をチェックした。
「い・・・いない。空き部屋も無事・・・ってことは、最後はおれの部屋!」
海斗は、滑り込むように、自分の部屋の前まで来た。
「海斗、見て見て〜!」
セレインは、海斗のベッドの上で、何冊ものビキニ姿の女性が載った雑誌に埋もれ、それらのポーズを真似していた。
「うわ・・・っ! ・・・っ!」
目の前で火花が散る。海斗は、尻もちをついた勢いで、廊下の壁に後頭部を打っていた。
セレインは、下半身を人間の足に変化させ、ふたつに割れたお尻をなでる。さらに、五本にわかれた足の指を見つめながら、広げたり、折り曲げたりして遊んでいた。
「ねえ、海斗。この下はどうなってるの?」
「へ?」
海斗が頭を押さえながら顔を上げると、セレインが目の前で、写真の女性の股の部分にある小さな三角の布を指さしていた。
「・・・っ! ・・・っ! ・・・っ!」
海斗は、もう一度、後頭部を打ち、からだ全体を丸めて痛みを散らす。
「海斗?」
「ちょ・・・ちょっとタンマ」
そう言って海斗は、足元がおぼつかないまま、壁伝いに立ち上がった。静かにセレインから雑誌を回収し、ベッドの上で散乱状態になっていた女の子たちも、まとめて元の場所へ戻す。
「きゃっ!」
セレインの視界が暗くなる。海斗は、クローゼットから上下のスウェットを取り出し、セレインに向かって投げ渡した。
「とりあえず、なんか着てくれ」
海斗は、そのままベランダに続く窓まで歩き、きらめく夜景を締め出すように、分厚いカーテンを閉めた。
「海斗〜」
「・・・っ!」
スウェットに巻かれたセレインがいる。海斗は、無言でセレインの頭と腕を通し、すばやくズボンをはかせた。
「ったく! おれ、いまから掃除して風呂入ってくるから、この部屋から一歩も出るな!」
海斗は、一雨降ったようになった廊下から言った。
「やだ! つまんない!」
「ダメ!」
そう言って海斗は、バタンと部屋の扉を閉めた。
浴室―――。
(あ〜、疲れた。なんなんだ・・・あいつ)
海斗は、シャワーヘッドに顔を突き出すように向き合い、水圧を細胞で感じる。立ちこもった湯けむりがライトに反射して、光のまゆのようになって海斗を包み込んだ。途切れることなく噴き出すぬるま湯は、海斗の引き締まったボディラインに沿って、枝分かれと合流を繰り返し、滑るように足元へ向かう。
(それにしても人魚って・・・。完全にぶっ飛んでる話だ)
ふと、曇った鏡に映ったもうひとりの自分と目が合った。
(あいつの魂が、おれの中に宿るって・・・だれが信じる?)
結露が自分の顔をゆがませながら流れ落ちる。海斗は、勢いよくカランをひねり、考えすぎて沸騰した頭を冷水に当てた。
数十分後―――。
海斗が部屋の扉を開けると、セレインはベッドの上で細い寝息を立てていた。
「・・・・・・」
海斗は、閉ざされたセレインの瞳を見つめながら、バスタオルで髪の毛の水分を飛ばす。無理やり着させたLサイズのスウェットと、シルクの糸のようにツヤのある赤髪が、セレインをおおうブランケットのようになっていた。
(そういえば、ここは濡れてないのか・・・。移動するときだけ水だらけになる・・・?)
海斗は、ベッドシーツに手のひらを滑らせた。
「・・・腹へった。なんか食べよ」
そう言って海斗は、静かに扉を閉じて、キッチンの方へ行った。
海斗は、冷蔵庫の残り物をかき集め、乱雑に一皿に盛り付けた。左手でフォークを持ち、右手の親指で『人魚』と、スマホに入力する。
(伝説の生き物・・・1500年代の大航海時代に描かれる・・・か。水泳能力・・・げっ、嵐の海でも平然と泳ぐ。やっぱ、水の抵抗がないってことか。へぇ、日の当たらない深海まで潜れるってのも、すごいな)
海斗は、スマホの画面から目を離さず、グラスに入れた水を口に含んだ。
(でも、人に宿ることなんて、どこにも載ってないし・・・ん? 海の魔物? 美しい歌声で、航海者を惹きつけて難破させる。そして、人間を襲い・・・食い殺す)
ひとかたまりになった水が、食道の筋肉を大きく広げながら、体内に流れていく。
(あいつ、おれを食べるつもりか? いや、おれの中にいないと生きられないって言ってたから、それはないか・・・。やっぱ、もっと、ちゃんとあいつと話さないとな。わからないことだらけだ)
海斗は、スマホを手放し、右手にフォークを持ち替えて、残りを一気にかき込んだ。




