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第2話:なんで、そんなに平気でいられるの?

 青々とした木々の葉っぱが、晴れ渡る5月の空へ生命力をみなぎらせる。川の浅瀬には、木漏れ日が差し込み、澄み切った水に浸るオレンジや赤、黄色の砂利を宝石のように輝かせる演出をしていた。太陽の光は、心地よく肌をあたためるが、夏に向かって強さを増して降り注いでいる。


「みさき、山だーっ!」

「うんうん、山だねー!」


 亮太は、空高く舞い上がる風船のように興奮を抑えきれず、みさきは、いつもどおり亮太がつく餅をうまく返していた。


 この日、星ヶ丘高等学校の1年6組から10組は、一泊二日の林間学校に出ていた。生徒たちを乗せた大型バスは、連続して弧を描く山道を走る。その中でも『1年7組』のプレートをかかげたバスは、車内で花火が打ち上げられているかのように、盛り上がりを見せていた。うぶ毛が逆立つほど、大音量で流れるポップミュージック。それは、バスのサスペンションを最大に伸縮させて、リズムに乗せる。好き放題に封の開いたお菓子が、胴上げされながら頭上を通過し、腹がよじれるほどの笑い声が、あらゆる酔いを吹き飛ばしていた。

 そんな中、海斗は、椅子から滑り落ちそうになって、泥のように眠っていた。灰色が混じる赤色のジャージが広い肩を包む。顔の半分を隠すように、ファスナーを裾から一番上まで滑らせ、少し茶色が混じったくせっ毛のある黒髪が、バスの揺れとともにふわふわと踊る。ゆったりしたパンツは、白いスニーカーのすぐ上でしぼられ、短い靴下から、キュッと締まったアキレス腱が見えていた。うしろの席で、押しても引いても起きない海斗に、ヘソを曲げる女子たち。田辺は、そんな海斗の隣でイヤホンをつけ、窓から流れる景色をぼぉ〜っと眺めている。学級委員長を任されたりさは、前方の席で須藤とお茶をするように、到着後の予定を確認していた。そして、みさきは、終始、亮太の合いの手をしつつも、脳裏には海斗の映像が流れていたのだった。


(結局、まだ結城くんにお礼言えてないんだよね・・・。ま、この林間学校で、話すチャンスはあるはず)


 知らないところで、鼓動が速まり、手に汗にぎる。


(てか、今度こそ絶対に言うんだから! うん、できるぞ、みさき!)


 そして、戦場におもむく戦士のように、心を強く持ち、斜め前を向いた。



 宿舎に着いたころ、少し湿った空気が顔の皮膚に張りつき、薄いベールのような灰色の雲が青空を覆っていた。ぼんやりとした陽光は、まだ東の山の上でのんびりしている。冷んやりとした風が鼻を通り、生い茂る草木や植物の匂いが懐かしい。純粋に遊んだ少年期を思い出した生徒たちは、目の輝きを取り戻し、無意識に大きく深呼吸をしていた。


「部屋に荷物を置いたら、班ごとに広場に集合するようにー」


 須藤は、駐車場で交通整備をするように、淡々と生徒に指示を出す。


「うーっす」

「はぁーい」


 ニュートラルに返事をした生徒たちは、荷物を肩にくい込ませながら、宿舎の中に入っていった。



 広場―――。


 窪地になったその場所は、黄緑色の絨毯が敷かれたように芝生で覆われている。すでに、数人の男子たちが子犬のように寝転がってたわむれていた。徐々に、灰赤色のジャージ集団が列をなす。海斗は、まるで、バスからの睡眠を続けるように立ちながらうとうとしていたため、班員たちが海斗と田辺の元に集まるようにして並んだ。みさきは、海斗たちから離れたところで、亮太といっしょに班長のりさのうしろに並んでいる。


「いまから正午までの約2時間、山林の散策タイムだー。各班からひとり、救急キットを取りに来い。応急処置に加え、登山の緊急時に必要なものが、ひととおり入っている」


 須藤は、広場の朝礼台に立ち、ひとつのリュックを生徒に見せながら言った。


「散策の目的は、クラスメイトと親睦を深めること。それぞれ話し合って好きにルートを決めていいが、地図上のコースから絶対に外れないように! 班長の言うことを聞いて、必ずまとまって行動しろ! いいな!」


 須藤は、徐々に語気が強まり、軍隊の指揮官になったように、威厳をかもし出した。


「はーい」


 生徒たちは、スポンジのように返事をする。


「なにかあれば、同行している先生を見つけろ。みんな、正午までに戻ってくるように。それじゃあ、出発!」


 須藤は、台から下りて生徒たちに手を振った。


「えー、先生はいっしょに来ないんですかー⁉︎」

「おれは、ここで、おまえらの昼食の弁当を準備してやるんだ。感謝しろ」

「えーっ! ずるーい!」


 須藤は、声を上げた女子生徒を軽くあしらい、宿舎の中に戻っていく。



 そうして、生徒たちは、バラけるようにして、広場から山林へ入っていった。



「ほんと、空気がきれいだね、亮太!」

「マジ気持ちいいな、みさき!」


 男女三人ずつで構成された班は、おだやかに流れる川を見下ろすようにして、散歩道を歩いていく。二人が並ぶと、両脇に生い茂る草木に触れるため、一列になって歩を進めていた。頭上には、高い木々の枝葉が重なり合い、隙間から灰色の雲が見える。少し荒い風で揺れる葉っぱの音は、まるで内臓を根こそぎ清めるように、周囲に鳴り響いていた。


「なあ、おまえら、けっこう仲いいけど、付き合ってんの?」


 唐突に、みさきと亮太のうしろを歩く班員の男子が問いかけた。


「はぁ・・・⁉︎ なんでおれがみさきなんかと、付き合わないといけねーんだよ!」

「そうだよ! わたしたち、ただの中学からの友達だよ!」


 みさきと亮太は、同時に足を止めて振り返り、顔を腫らして否定した。


「お、おう。わかった、すまん」


 男子は、至近距離のみさきと亮太の顔から、のけ反るようにして返した。うしろに続くりさと班員が、互いの背中で鼻を打ちそうになり、つま先に力が入る。


「みさき、亮太、前で止まんないで。迷惑」


 りさは、冷静に場を仕切る。


「ちょっと亮太、“みさきなんか”ってなによ。失礼ね」

「うるせ。友達が少ないおまえと、仕方なくいっしょにいてやってんだ。感謝しろ」


 亮太は、プイッと顔をそむけ、口を尖らせる。


「なあ、やっぱ・・・好き同士じゃねーの?」


 男子は、ふたりに聞こえないように、りさに耳打ちをした。


「はぁ・・・。だったら、わたしはこんなに頭抱えてないんだけどね」


 りさは、広いおでこに手を置いて、どこにも発散できない感情を、息に乗せて吐き出した。



 一時間後―――。


 灰色の雲は、鉛のように重くなり、いまにも泣き出しそうなほど分厚くなっていた。

 

「なんか、降ってきそうだな」

「どうする? 宿舎に戻るか、このままコース通り行くか?」

「みさき、おまえどうしたい?」

「わたしは、どっちでもいいよ。みんなに合わせる」

「一応、須藤がくれたレインコートあるけど、薄っぺらいし、あんまり役に立たないかも」


 りさは、リュックの中をのぞき込みながら言った。


「よし! じゃあ、コース変えて、近道で宿舎に戻ろうぜ!」


 そう言って亮太は、地図を広げてコースを確認する。同じように、別の7組の班が合流し、亮太たちの話し合いに参加していた。散歩道に、約15名の生徒があふれる。



 みさきの頭に、蛙のおしっこのような水滴が落ちてきた―――。



「ひえっ! 降ってきたよ!」


 みさきは、毛穴を開かせ、ほっぺに連続して落ちてくる大粒の雨を、袖でぬぐいながら叫んだ。


「あれ? あんたたちの班、人数少くない?」


 りさは、おもむろに合流した班員に、違和感を覚えて言った。


「さすが、学級委員長。実は、結城と田辺とはぐれちゃってさ」

「すっかり、最後尾でついてきてるものだと・・・」


 班員たちは、申し訳なさそうに、張りのない声で言った。その間、みさきは、りさのリュックからレインコートを出して、みんなに配る。


「え? それ、いつ気づいたの?」


 りさのお腹に、ドクッと血液が波打つ。


「けっこう前・・・かな。最初から、いるのかいないのか、わからないくらい、静かなふたりだったから・・・」

「あ、でも、田辺くんは率先して、須藤のリュックを持ってくれたよ」

「それ、速攻、結城に持たせてたけどな」


 班員は、顔を見合わせながら答える。


「おーい、とりあえず、急ごうぜー。かなり降ってきた」


 そう言って亮太が先頭を切って歩きはじめた。大きな水滴が、葉っぱという葉っぱに滑り落ちながら、安物のレインコートに降りかかる。まるで、靴下を靴の中でもみ洗いするように、つま先からグショグショと音が鳴りはじめた。昼間だということを忘れるくらい、真夜中のように暗い散歩道。次第に、みさきたちは、激しい雨音に逆らって大声でしゃべることを止め、ただ、無言で宿舎に向かう状態になっていた。



「ん? 亮太、ちょ、ちょっとあれ・・・」


 みさきは、茶色い川に人らしきものが見えて、背後から亮太のレインコートを引っ張った。


「どうした?」


 そう言って亮太は、みさきが指さす方向に視線を移し、雷に打たれたような緊張が走る。


「・・・っ! おいおい! だれか、流されそうになってる! ってか、川岸にいるの、田辺なんじゃないの⁉︎」


 亮太は、灰赤色のジャージを目にし、身を乗り出すようにして叫んだ。


「じゃあ、もしかして、川の中にいるのって・・・」

「結城くん!」


 りさは、厳しい顔をしてのぞき込み、田辺と海斗の姿を確認した。



 数十分前―――。


「海斗〜。みんなは?」

「さあ。おれは潤のうしろを歩いてたから」


 そう言って海斗は、前髪からボタボタ落ちる雨粒を、犬のように振るって飛ばす。


「雨も強くなってきたし・・・来た道、戻るか〜」


 田辺は、海斗からの水しぶきと、木々の間から落ちてくる滝のような雨を、受け止めながら言った。


「・・・っ! 潤! あれ!」


 そう言って海斗は、田辺の肩を突き飛ばすようにして追い越し、わき目も振らず走り出した。


「うわっ! なんだよ、海斗! 急に!」

「下! 川の真ん中で、車が動けなくなってる!」

「はぁ⁉︎ ・・・って、ほんとだ!」


 田辺が海斗の指差した川を見ると、中州で一台の車が立ち往生していた。徐々に、土砂混じりの水が中州を侵食し、数十メートル先の向こう岸に渡ろうにも、流さてしまうのが目に見えるほど水かさが増してきている。田辺は、ゆるみ切っていた細胞を、瞬時に引き締め、海斗のあとを、腕がちぎれるほど前後に振りながら走っていった。海斗は、散歩道から川岸につながる階段を、滑るようにして駆け下り、車の中から手を振って助けを求める壮年の男性と目を合わす。


「海斗、どうする⁉︎」


 田辺は、海斗の後方から叫んだ。海斗は、肩からリュックを下ろし、中からロープを引っ張り出した。


「潤、これ!」


 フックの付いた先端を田辺に投げ渡し、もう片方を自分の腰にくくりつけた。田辺は、すぐに適当な木を見つけて固定する。


「よし! つないだ!」 


 海斗は、その声が聞こえると同時に、全速力で川へ入って行った。土砂で濁りきった川は、すでに海斗の太ももまで水かさが増している。水面は白波が立ち、岩を砕くようにして、その勢いに拍車をかけていた。川底の不ぞろいの石が、足首を噛みちぎってきて、まともに歩かせてくれない。海斗は、ふうっと息を吐き、全神経を集中させ、足をすくわれないように前進していった。


「海斗、急げ!」


 田辺は、中州の車のタイヤにぶつかりはじめた水位を見て叫んだ。斜めから矢が飛んでくるような雨が、ふたりの視界と動きを容赦なく封じ込める。


「わかってる・・・っ!」


 そう言って海斗が、なんとか中州にたどり着いた。


「いいぞ! 海斗!」


 田辺は、こぶしを高く上げる。海斗は、集中力を保ったまま、壮年の男性が座る運転座席のドアを開け、ロープを自分の腰からハンドルに移した。助手席には、蒼白な顔をした女性が一点を見つめて座っている。


「おじさん! このロープを伝って、ひとりで岸までいける⁉︎」


 そう叫んだ海斗は、ぐうっと歯を噛み締めて動けなくなっている男性のからだに、手を差し伸べる。男性は、海斗の肌に触れ、息を吹き返したように車から脱出した。


「ああ! 妻を・・・頼みます!」


 海斗は口角を上げて、大きくうなずいた。そして、男性と入れ違いになるように、車内に入る。


「大丈夫。水は、まだ腰よりも低いから。おれにつかまっているだけでいいですよ」


 海斗は、やわらかい瞳で女性を見つめ、落ち着いた声で言った。中州の水位は、すでにひざ上まで達している。


「は・・・はいっ」


 裏返るような声で返事をした女性は、水に触れることなく、海斗の背中に全体重を委ねた。海斗は、おぶった女性を背中の真ん中にくるように整え、ジャージの上着で腰をしばって自分と固定した。耳元で、女性の乱れた呼吸が聞こえ、背中から震えと恐怖の感情が伝ってくる。海斗は、もう一度、高い集中力を呼び起こし、中州から一歩踏み出した。腰をねじ曲げてくるような流れの強さに、ゴクッと生唾をのみ込む。ほおに張りついた髪の毛から、大量の雨粒と冷や汗が入り混じって流れ落ちた。そして、眉間にシワを寄せながら、向こう岸でぼやける田辺に目をやった。



 思ったより遠い―――。




「りさ、どうしよう! 電波が・・・圏外だ!」


 みさきは、スマホをにぎりしめて叫ぶ。レインコートのフードから、大きな水滴が涙のようにしたたり落ちていた。


「みさき! 走って! 宿舎で待機してる須藤に知らせるの!」

「・・・っ! わかった!」


 いままでにない、りさの大きな声が、みさきの背中を勢いよく押した。みさきは、なりふり構わずスタートを切る。


「おれは、あいつらを手伝ってくる!」


 そう言って亮太は、川岸につながる小さな階段を駆け降りていった。


「亮太、待って! わたしも行く! そこにいる男子、あんたたちもよ! 女子は、近くにいる先生を見つけて呼んできて!」


 りさは、周囲で棒立ちになっていたクラスメイトを、蹴飛ばすように動かした。



「おっちゃん、大丈夫か⁉︎」


 その間、田辺もロープを伝って川の中に入り、男性を岸まで引っ張り上げていた。そのまま男性を支えながら浅瀬に移動する。そして、中州に乗り捨てた車のタイヤが、ほとんど見えなくなっていることに気がついた。


「海斗! もうすぐ車が流されるぞ!」


 むなしくも、田辺の声は、轟が増す川音にかき消される。激しく荒立つ白波は、海斗の首筋に容赦なくぶつかり続け、頭は女性が覆いかぶさって自由が効かなくなっていた。海斗は、低い姿勢を保ち、水面から見え隠れする田辺に向かって前進する。


「海斗・・・っ!」


 田辺は、唇を強く噛み締め、いままでになく苦い顔をする海斗の姿に言葉を詰まらせた。



「田辺ーーーっ!」

「田辺くん!」



 田辺は、聞き覚えのある声に、一筋の光を感じた。うしろを振り返ると、りさと亮太を先頭に、7組の男子が走って近づいてくる。りさは、ピンと張ったロープを挟んで、田辺の真横で状況を確認した。その間、ひとりの男子は、救出されたばかりの男性に肩を貸し、歩道につながる階段を上っていく。


「・・・田辺くん、まだ、体力残ってる?」

「え? あ、ああ」


 田辺は、しとやかなりさの声に吸い込まれるように返事をした。りさは、リュックからロープを取り出し、無言で田辺の腰に巻きつけた。


「学級委員長・・・?」

「斎藤 りさ。そろそろクラスメイトの名前ぐらい覚えて」


 そして、りさは、一本の折りたたみナイフを田辺に差し出す。


「これで、結城くんと車の間のロープを切ってきて」


 りさは、力強い目で、田辺をまっすぐ見て言った。


「・・・っ! よし!」


 田辺のからだに命が吹き込まれる。そして、瞬時に、ナイフをりさの手から奪い取り、川に向かって走り出した。りさは、田辺のロープを海斗と同じ木に引っかけ、亮太と男子に向かって叫ぶ。


「みんな! 田辺くんの合図があったら、一斉にロープを引っ張るのよ! いい⁉︎」

「おう! 任せろ!」


 亮太と五人の男子は、ふた手にわかれ、ロープをにぎり締める。田辺は、ナイフを口に挟み、ほとんど女性しか見えなくなっている海斗の元へ向かった。



 とうとう、車が浮上し、フロントガラスが空を見上げるように流れはじめる―――。



「うわっ!」


 海斗は、一瞬、ゆるんだロープで体勢を崩し、水の中に引きずり込まれた。女性はその衝撃で、必死に顔を水面に残すべく、海斗の頭を水中に押さえつけ、手足をバタバタさせた。海斗は、水のうねりにも襲われ、体力が削がれるように奪われていく。


(これ・・・マジでやばいかも・・・)


 海斗の握力が弱り、意識がもうろうとしはじめたときだった。



 キ―――――――――ン



 海斗の右耳で、金属音に似た高音が、細く、長く鳴り響く。


(なんだ、この音・・・)


 その音は、すべての轟音を消し去り、海斗を真っ暗な無重力の空間で浮遊させ、ゆっくり細胞に染み込んでいく。


(あー・・・気持ちいい・・・)


 そのとき、田辺が海斗のすぐうしろのロープを切断し、りさに合図を送った。続いて、海斗の髪の毛をわしづかみにして、勢いよく水中から引っ張り上げる。


「しっかりしろ! 海斗!」

「・・・っ!」


 海斗は、我に返って息を大きく吸い込んだ。


「はぁ! はぁ! 潤!」


 そして、水の中の三人は、網にかかった魚のように、岸に引っ張り上げられる。



 気がつくと、地上をめった斬りにした豪雨は、霧吹きのようにサラサラと形を変えていた。



 海斗は、フラフラと散歩道に上がり、倒れ込むようにして手をついた。枝が折れたように首を落とし、呼吸を整えながら、使いきった体力を呼び戻す。


(あの音、一体なんだったんだ・・・)


 海斗は、脳みそに酸素を送りながら、目を閉じて右耳を押さえた。


 一方、少し離れたところで、安堵の表情で抱き合う夫婦がいた。そのそばで、亮太と男子たちは、高い興奮状態になり、互いの活躍をほめたたえている。りさは、男子たちを点呼し、田辺と海斗の姿を見て胸をなで下ろした。


「グッジョブ、海斗! 疲れ果てたおまえを見るのは久しぶりだ!」


 田辺の活き活きとした声が聞こえた。顔を上げると、目の前に手のひらが見える。


「・・・おう」


 海斗は、そのままの体勢で、パチンと田辺の手をはたいた。しばらく、また下を向いて、その場を動かなかったが、思い立ったように、鼻からありったけの空気を肺に送り込み、ゆっくり口から息を吐き出した。そして、最後の空気を出し切ったところで、何事もなかったようにスクッと立ち上がる。しっとり目にかかる前髪を両手でかき上げ、頭を左右に振るって水分を跳ね飛ばした。そして、皮膚にベッタリとへばりついたTシャツを剥がすように脱ぎ、上半身をあらわにした。


「ふう・・・っ」


 シャツの繊維が壊れるほどひねり上げ、ありったけの水分をしぼり出す。田辺も同じようにシャツを脱ぎ、両手で短い髪の毛をくしゃくしゃにして水滴を飛ばした。亮太と男子たちは、ふたりの上質な筋肉が浮かび上がると、それに思わず目を奪われてしまう。そして、互いに目を合わせ、ひじで押し合うようにしながら、海斗と田辺の方へ向かった。


「おまえら、いいからだしてんな!」

「どうやったら、そんなのになれるんだ?」


 男子たちが子供のように無邪気になって聞くと、田辺は、おちゃらけて、ボディビルダーのようなポーズをとりはじめた。男子たちは目を輝かせ、ひとりが黄色い声援を送りはじめたと思ったら、田辺の盛り上がった筋肉を指でつつき、みんなして少年のように笑い転げる。海斗は、それを横目に、ねじれたTシャツをバスタオルのようにして頭をふいていた。


「あんたは行かないの?」


 りさは、すっかりタイミングを逃して、立ち往生している亮太に言った。


「・・・っ! 行かね! おれは子供じゃねーの!」


 そう言って亮太は、腕を組み、あごのラインが見えるほど、りさから目をそらした。


(ガキね・・・)


 りさは、しらけた顔をして、口を尖らせる亮太の顔を見る。



「りさーーーっ!」


 すると、みさきが須藤を連れて戻ってきた。さすがの須藤も、歩道の惨状を目の当たりにして、緊張を走らせた。みさきは、そのまま走るスピードをゆるめず、一直線にりさの元へ向かった。


「えぇぇぇぇ〜ん、りさ〜、無事でよかった〜っ!」

「はいはい。よしよし」

「あ、亮太も〜っ!」

「おれをついでみたいに言うな!」


 みさきは、りさのやわらかい胸に埋もれ、鳴り響く川の轟音をかき消すほど号泣した。りさは、いつもどおり、みさきの頭をなでて落ち着かせる。


「ったく、そんなに泣くんじゃねーよ、みさき」


 その横で、亮太は、そり返って言った。その間、海斗は、泣き声に引っ張られるように、みさきを目で追っていた。


「・・・・・・」


 まるで、雪崩のような勢いであふれ出すみさきの感情が、海斗の胸をつかんで離さない。


「もしかして、気になる?」


 田辺は、単刀直入に聞いた。


「・・・なんだろ。なんか、あれだけ泣けるってすごいな・・・って思った」


 海斗は、つぶやくように答えた。


「ちなみに、あの学級委員長も、なかなかすごいぞ」


 田辺は、ビリッと肌に残るりさの芯の強さを感じながら言った。



「みんな、救急隊が来るのに時間がかかってるから、とりあえず山道まで歩け。川に入った結城と田辺は、念のため病院で検査を受けてもらうからな」


 須藤は、座り込む夫婦のそばから、生徒に向かって言った。


「はーい」


 そう言って生徒たちは、群がって移動を開始した。そして、須藤も、宿舎から持ってきた予備の上着を夫婦に手渡し、生徒に続いて川をあとにした。



 5時間後―――。

 

 海斗と田辺が病院から戻ってきたころには、宿舎に明かりが灯っていた。昼間の灰色の雲が一掃された濃い藍色の空に、一番星が輝いている。広場では、生徒たちがキャンプファイヤーを中心に、大きな輪を描いたベンチに腰かけながら、それぞれ好きな時間を過ごしていた。その中央には、天に昇るオレンジの龍のような炎が、ゆらゆらと長い人影をつくり、皮膚をやわらかく照らす。


 海斗と田辺は、タクシーから下り、宿舎の方へ歩を向けた。


「あ、ふたりとも、もし、疲れてなかったら広場に行きなさい」

「うぃーっす」


 返事をした海斗と田辺は、病院に付き添った先生と別れ、自分たちの部屋へ直行した。そして、布団の中にくるまり、数秒後には、安らかな寝息をたてるのだった。


 しばらくして、真っ暗闇に浮かび上がる紅蓮の華のようになった炎は、満天の星空の下、広場一帯を包んでいた。生徒は、スマホに入っている音楽をスピーカーから流し、ひとときの青春に浸っている。一方、須藤は、生徒を放牧するようにして、宿舎で事後処理に追われているのだった。


「りさ、わたし、トイレ行ってくるね」

「うん」


 そう言ってみさきは、りさのそばから離れ、宿舎の方に姿を消した。



 宿舎―――。


「あ・・・」

「ん?」


 みさきが用を済ませて廊下に出ると、海斗も同じタイミングで男子トイレから出てきた。みさきの心拍数が、急激に上がっていく。


「ゆっ、結城くん。戻ってたんだ。大丈夫だった?」


 みさきは、自分で緊張の糸を張るように、力みながら話しかける。


「うん、平気」


 海斗は、寝起きの頭をさすりながら言った。


「あ、あの―――」

「走ったんだろ?」

「へ? 走った?」


 みさきは、不意をつかれて、会話の手綱を渡してしまう。


「今日、宿舎まで走って須藤に知らせたのって・・・えっと・・・」

「あ、小沢 みさき・・・わたしの名前」


 みさきは、海斗の澄んだ瞳に目を奪われ、語尾が弱々しく消えていく。すると、それを遮断するかのように、海斗の手のひらが目の前に現れた。


 白くて、まっすぐに伸びた長い指―――。


「へ?」

「ナイスラン、みさき」


 手のひらの奥にいる海斗の顔は、まるで、清涼飲料水のようにさわやかだった。


「あ、ああ・・・」

(って、下の名前を呼び捨て・・・⁉︎)


 みさきは、慌てて手を合わせにいった。



 みさきの手が空を切る―――。



「えっ⁉︎」


 ターゲットにしていた海斗の手は、はるか頭上に移動していた。


「ごめん、ちょっとからかいたくなった」

「・・・・・・っ!」

(マジで⁉︎ 結城くんって、そんな感じの人なの・・・⁉︎)


 みさきのほおは熱を帯び、怒りとはずかしさが胸に込み上げる。


(でも・・・そんな無邪気に笑うんだ・・・意外)


 みさきは、振り切っていた心拍数がウソのように下がる。


「はい、みさき。今度はよけないから、もう一回」

「・・・・・・」


 海斗は、落ち着いた声を出して、改めて手のひらをみさきに向けた。みさきは、しばらく目を細め、口を一文字にする。


「・・・怒った?」


 そう言って海斗は、夕陽が水平線に沈むような哀愁を漂わせる。



 その瞬間、パチン! と皮膚が合わさる―――。



「あははっ! 怒ったと思った?」


 そう言ってみさきは、満悦の笑みを見せた。それは、海斗の瞳に、なにもないところから、パッと咲いたひまわりのように映り、胸がジリジリと音を立てた。



 キ―――――――――ン



「・・・っ⁉︎」


 そのとき、海斗の右耳に、川の中で聞いた同じ金属音が鳴り響く。


「――――――・・・」


 海斗は、しばらくの間、地球上でひとりきりになったかのように、動かなくなった。



 なんとも言えない、心地のいい音がからだに広がっていく―――。



 そして、その音は、真っ暗闇に尾を引きながら、ゆっくりと消えていった。目が覚めたように意識を取り戻すと、みさきと至近距離で目が合った。


「大丈夫? もう少し部屋で休んだ方がいいんじゃない? 須藤に言っとくよ」


 みさきは、クリッとした目を見せて、海斗の顔をのぞき込む。


「・・・腹へった」


 海斗は、宙に目をやり、お腹をさすりながら言った。


「あ、結城くんと田辺くんの夕食なら、食堂の冷蔵庫にとっておいてあると思うよ。行ってみる?」

「うん。行く」


 みさきは、すっかり自然体で話していた。海斗は、みさきの小柄な背中について行く。歩く調子に乗って、肩までまっすぐ下りた黒髪がリズミカルに跳ねる。海斗の意識は、ジャージがはち切れそうになって、左右に踊っているみさきのお尻に注がれていた。


「・・・・・・」


 そして海斗は、知らん顔して、無言でみさきと肩を並べる。



 食堂―――。


「あ〜、あったよ! ふたり分のカレー! 田辺くんも食べるかな。あたためて、部屋に持っていく?」


 みさきは、薄暗い調理場で、自分のキッチンかのように振る舞って言った。そして、パントマイムのように大きくからだを動かしながら電子レンジを探す。


「ははっ。うん、そうする」

「ちょっと、いま、笑ったでしょ?」


 みさきは、作業の手を止め、両手に皿を持ったまま振り返って言った。


「うん。笑った。なんか、かわいいなと思って」


 やわらかい笑顔を見せた海斗は、調理場を挟んだカウンターで、ふんわりとしたトレーナーの袖を、枕のようにして顔をうずめる。


「な・・・・・・っ!」

(いま、わたしのこと、かわいいって言った⁉︎ しかも、なに、その反則レベルの笑顔っ!)


 みさきは、スパイスを一気に飲み込んだかのように、顔を火照らせた。



 カレーの皿は、小さな箱の中でスポットライトを浴びはじめた。ブーンと空気を伝う細かい電子音が、みさきの跳ね上がった鼓動を鎮めていく。



「・・・ねえ、怖くなかったの?」

「ん?」


 みさきは、海斗の心の立ち入り禁止区域に足を踏み入れるように、口火を切った。


「川に入るとき、万が一、流されたらどうしようとかなかったの・・・? いくら泳ぎが得意でも、プールとはまた話が違うでしょ?」

「別に。入るときは、まだ水かさも大したことなかったから、いけると思った」


 海斗は、表情を変えず、一点の曇りなく答えた。みさきは、思うように入り込めないジレンマから、開かずの扉をノックしはじめた。


「りさに聞いたけど、結城くん、もう少しで危なかったって」

「うん。流されかけた」

「・・・っ!」


 みさきは、淡々と答えた海斗に、唇を震わせた。


「なんで、そんなに平気でいられるの? 死ぬかもしれなかったんだよ?」

「へ?」


 海斗は、みさきの腹の底から出た太い声に、思わず顔を上げた。

 みさきは、目を丸くする海斗を見て、はっと我に返る。


「あ、ごめん・・・。なんか、結城くん、自分の命は、どうでもいいみたいに感じちゃって」

「・・・おれの命?」


 みさきの感性は、まるで、海斗を未開の地に放り込むように、方向感覚を失わせた。



 ピー・ピー・ピー。(電子レンジの音)



「あ! あったまったみたい! カレー!」


 みさきは、慌ててこじ開けた扉を閉め、話題を元に戻した。


「はい! どうぞ!」


 おぼんに乗った、ほんわかしたカレーの匂いと、みさきの全力のアプローチが、海斗のほおをゆるめた。


「ありがと、みさき。じゃあ、潤と部屋で食べてくる」

「う・・・うん」

(やっぱり、最後まで呼び捨て・・・)


 しばらくの間、はじめて見た海斗のやわらかい笑顔で、みさきの心は宙を舞っていた。



 広場―――。


「ただいま」

「あ、遅かったね、みさき。なんかあった?」


 りさが、オレンジ色の炎より、熱を帯びたみさきの顔を見て言った。


「うん。途中でバッタリ結城くんに会って、夕食、渡しといた」


 みさきは、胸をドキドキさせながら言った。


「じゃあ、例のお礼も言えたの?」

「は・・・っ!」

「言えてないのね」


 みさきは、一瞬で青ざめた表情を見せた。


「でも、いいことはあったようね」

「・・・・・・っ!」


 みさきは、手足を折りたたみ、みのむしのように背中を丸めて小さな声を出す。


「え? かわいいって言われた?」

「しぃぃぃぃっ! 声がでかいよ、りさ!」


 みさきは、手でりさの口を、首がもげる勢いでおおった。


「え! みさき、だれにかわいいって言われたの⁉︎」

「なになに? わたしにも聞かせて!」


 みさきは、近くにいた女子から、おしくら饅頭のようにもまれ、火の吹く顔から冷や汗を流す。


(ごめん、みさき)


 りさは、みさきの横で、地蔵のように無言になる。


「ふん。そんなこと言われたくらいで、調子に乗ってんじゃねーよ」

「あ、亮太・・・」


 すると、亮太が痰を吐き捨てるように言いながら、みさきのうしろを通り過ぎていった。みさきは、亮太の荒々しい感情の波にのまれ、海のもくずのように小さくなる。


「なによ、あいつ! みさき、気にすることないよ」

「・・・うん」

「ほんと、なんなのあの態度」

「無視していいよ、みさき」


 女子たちの言葉は、海の底に沈んだみさきの上部を浮遊する。そして、みさきは、ぼ〜っとして、金粉のように舞い上がる火の粉を見つめていたのだった。

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