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第12話:みさきは、悪くない。

 三日後・某ファストフード店―――。


「で?」


 みさきの視界が、りさの顔でいっぱいになった。


「え・・・?」

「壮大な救出劇を経て、家でふたりきりになり、向こうから告白され、満員電車から降りるまで手をつないでた。それで?」


 りさは、店内の冷房よりも冷んやりした目で、みさきを突く。


「・・・それだけだよ」

「はぁ? そんなことがあって、なんでハグもキスも、付き合うとかもないわけよ⁉︎」

「・・・っ!」


 りさの開き切った毛穴が見えるほど、至近距離になった。


「だ、だって、好きって言われただけだし。向こうはどうしたいかとか・・・なかったし」

(なんだ・・・人魚のことも、話した方がよかったのかと思った)


 みさきは、か細い声で答えた。


「確かにそうだけど・・・ったく! 結城くんも、押し倒すくらいのことしなさいよね。どっちも煮え切らないんだから!」

「ゆっ、結城くんは、そんなことしないよ!」


 そう言ってみさきは、立ち上がる勢いで大きな声を出した。


「みさき、あんた避けるような態度、とったでしょ」

「え・・・」


 一瞬で、みさきの表情が固まる。


「やっぱり。彼、やさしいから、それを察したんだね。きっと」

「・・・・・・」


 そう言ってりさは、氷をカラカラ混ぜ、ストローを口に入れた。シュワッと気泡が表面に上がり、グラスの淵からパチパチ弾け飛ぶ。


「みさきさ〜、なんで結城くんの気持ち、素直に受け入れたらダメなの? うれしかったんでしょ?」

「・・・っ!」


 みさきの胸は、厳重に鍵をかけていた扉をノックされたように、ざわざわと波風が立った。


「なんか、都合悪いことがあるから、からだが拒否ったんだよ」

「ま、まあ、受け入れたら・・・とりあえず他の女子に、背中刺されそうだよね」


 そう言ってみさきは、顔を引きつらせた。


「みさきって、いつも周りにどう思われるか気にするよね。亮太のことは、しっかりふっといてさ」

「・・・だいぶ、がんばったけどね」

「詰まるところ、どうせ、自分だけ幸せになっちゃいけないとか、相手からもらっても、なにも返せないとかって思ってるんでしょ」

「・・・・・・っ!」


 みさきは、いよいよ扉をこじ開けられそうになり、黙り込んで抵抗した。りさは、空気をゆるめるように、鼻から息を出して、会話の幕に手をかける。


「ま、結城くんは、来週から一ヶ月ほど遠征で帰ってこないから、ゆっくり考えな」

「え⁉︎ 来週⁉︎ しかも、そんなに帰ってこないの⁉︎」

「聞いてないの? 夏休み終わるころまで、試合で海外にいると思うよ」

「し、しかも、距離あるね・・・いろんな意味で」

「結城くんの顔は、ネットでいくらでも拝めるわよ。メッセージでも送ってあげたら?」

「そ、そだね・・・」


 そう言ってみさきは、眉をしかめながら、一点を見つめて黙り込んだ。


「そういえば、結城くんに家まで送ってもらって、あんたのヒステリックな母親は大丈夫だったの? 丸一日、家空けて、一切、連絡しなかったんでしょ?」

「ああ、それなら・・・」



 三日前・みさきの自宅前―――。


「わざわざ家まで送ってくれて、ありがとう」

「うん」


 みさきは、小さな玄関の門扉の前に立ち、海斗を見上げて言った。すると、軒下の照明が点灯し、玄関の扉がガチャっと音を立てる。


「みさき! やっと帰ってきた! あんた、一体いままでなにして―――」


 みさきの母親は、問答無用でみさきに振り下ろした刀を、海斗の姿を見た途端、慌てて鞘に戻した。


「あ、お母さん、ただいま。遅くなってごめんなさい」


 みさきは、無表情で振り返って言った。母親は、自分の影になって薄暗い中に立つ海斗を、目を細めながら舐めるようにして見る。


「お母さん、えっと―――」

「みさきさんと同じクラスの、結城 海斗です。この度は、ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」


 そう言って海斗は、両足をそろえ、深々と頭を下げた。みさきは、ガラリと雰囲気を変えた海斗に心を持っていかれたあと、すぐに母親に目を移す。


「えぇ⁉︎ 結城 海斗くんって、あの結城 海斗くん⁉︎」


 母親は、急にきらびやかな声を出し、門扉を飛び越える勢いで前のめりになって言った。


「へ? お母さん、結城くんを知ってるの?」


 みさきは、しゃちほこのようにからだを反らせて、一歩下がる。


「知ってるもなにもぉ! 世界の自由形! 競泳界に舞い降りた王子様じゃない! そんな人に、家まで送ってもらったの⁉︎」

「ま、まあね・・・」

(なに⁉︎ この母親のテンションは・・・っ!)


 母親は、いそいそと門扉を開き、一直線に海斗に向かっていく。それは、いつも両手に鎌を持って、闇雲に振りまわしているような母親が、滑稽なピエロのように映った瞬間だった。


「結城くん、せっかくだからうちに上がっていかない? おいしいお茶菓子があるの。あ、晩ご飯はもう食べた? もし、まだだったら―――」

「ちょっと、お母さん! 結城くん、疲れてるんだから、あんまり引き留めちゃダメだよ!」

(マジで恥ずかしいからやめて!)


 みさきは、心の中で母親の首根っこをつかむようにして、いっしょに入る穴を探した。


「ありがとうございます。うれしいお誘いですけど、今日は、これで帰ります」

「えぇ〜、そお? じゃあ、今度ゆっくり遊びにきてねぇ」

「はい。失礼します」


 そう言って海斗は、さわやかな笑顔を母親に向けた。みさきは、口をあんぐり開け、微笑みを交わすふたりから、対岸に追いやられた感覚になる。

 

「じゃあ、みさき。また学校で」

「が、学校? あ、うん! またね! ごめんね、騒がしくしちゃって!」

「うん、大丈夫」


 そう言って海斗は、みさきに小さく手を上げ、暗い夜道の中に消えていった。



 店内―――。


「ってな感じで、結城くんの女性キラーで助かった」


 そう言ってみさきは、汗をかいたドリンクのカップを手に取った。


「なるほど。やつは礼儀も心得てるのか。さすがだね」


 りさは、ストローで、氷をザクザク刺しながら言った。


「あんな母親、すっかり忘れてたよ」

「ん?」


 りさは、みさきのしんみりとした声に、思わず手を止めて顔を上げた。


「あのあと、ずっとご機嫌だったんだよね。鼻歌うたって、まるで、小鳥がお花畑を飛びまわるみたいに」

「へえ・・・意外と単純な人なんだね」

「それを見てたら、わたしが小さいころ、よくあんな顔してたな〜って、思い出してさ」

「ふ〜ん」


 そう言ってりさは、ストローを斜めから口に差した。


「あの人、一度、話してくれたんだよね」

「なにを?」

「彼女が学生だったころのこと。放課後、周りのみんなが楽しそうに遊んでる中、家の手伝いとか習い事を、毎日させられてたって。それが、その家に住む条件だったって」

「へぇ〜」

「特に父親が厳格な人だったみたいで、できる姉二人にひいきしてたから、早く家を出たかったって言ってたな」

「ま、よくある話だよね」


 りさは、氷水で薄まった炭酸水が、さらりと食道を流れるように、冷ややかに返した。


「それでね、お父さんと出会って、やっと自分の家族がつくれるって、すごく嬉しかったんだって」

「意外。そんな感情、あの人にあったんだね」

「きっと、彼女なりに、必死で生きてきたんだと思う。ずっと、認めてほしい人に相手にされなくて、寂しかったんじゃないかな」

「だからって、みさきに八つ当たりするのは迷惑だし、勝手すぎるよ」


 りさは、ぼ〜っと窓の外を見つめて話すみさきを、叩き起こすように言った。


「そう、だから、気づいたんだよね。その勢いに流されて、わたしが彼女の寂しさを埋めようと、必死にがんばってたんだってこと」

「・・・・・・!」

「いま思うとさ・・・、小さいころから、わたしが楽しく遊ぶだけで、母親を笑顔にできてたんだよ」

「・・・・・・」

「うん、確かに、そのときは、なにかを返さなきゃなんて気持ち、ひとつもなかったよね。わたしが、ただ、わたしでいただけだった」


 みさきは、小さな自分に語りかけるように、遠くを見つめながら話す。



『みさきがいる・・・それだけでいい』



 みさきは、突然、海斗の言葉が胸をよぎり、クスッと笑った。


(そっか。わたし、結城くんのでっかい愛情に見合うもの、なんにも持ってないって思ってたから、受け入れようとしなかったんだ)


 りさの唇から、ストローがポトンと落ちた。みさきの肌のトーンが明るくなっていく。まるで、みさきの中で、美しい女神が目覚め、自らをあたたかい光で包み込んでいく光景が、りさの目に映った。


「わたし、結城くんと、もう一度会うよ。会って、ちゃんとわたしの気持ちを伝える」


 りさの胸に、生まれ変わったようなみさきのオーラが、流れ込んでくる。


「うん、そうしな。いまのみさきなら、大丈夫だよ」


 そう言ってりさは、ずっとつないでいた、小さなみさきの手を、そっと放した。



 星ヶ丘高等学校・更衣室―――。


 海斗は、頭から水を散らしながら、ロッカーを開けた。


(セレインは・・・いない。いまは、完全におれだけのからだ)


 海斗は、空っぽのロッカーを見ながら、まるで現実をからだに染み込ませるように唱える。


(あいつは500年越しの目的を果たして、自由になったはず。もしかして、どっかで人間として生まれ変わってるかもな)


 どこからともなく降ってきた自分の思考に、思わず口角が上がった。そして、触れたタオルに、手先の水分が吸われるように、意識がからだから離れていく。


(・・・じゃあ、結局、おれの目的は、なんだったんだ?)


 もつれた糸を、さらに絡めるように、くしゃくしゃと頭をタオルでこする。


(ミシェルを助けることじゃなかったとしたら・・・単純にセレインを助けることだった?)


 海斗は、いつもセレインが顔を出していた胸筋あたりの水分をぬぐった。


(セレインは、おれにしかわからないことだって言ってたな。だったら、セレインを助けるってのは、しっくりこないから違う)


 海斗は、一度、思考をリセットするように、バサッとタオルを広げ腰に巻いた。


「海斗、なに真剣な顔してんの?」


 すると、すでに制服に着替えた田辺が、海斗に声をかけた。


「あ、潤。いや、なんでもない」

「そういえば、みさきちゃん、なんか怪我したらしいぞ。しばらく部活も休んでるってさ」

「うん」

「うん・・・って、おまえ知ってたのか?」

「まあ」

「そっか。じゃあ、おれは、りさと約束あるから行くわ」

「おう」


 そう言って海斗は、田辺から目を切って、制服のポロシャツに頭を通した。 



「なあ、おまえら、付き合ってんの?」



 田辺が、更衣室から消えたと思いきや、扉の隙間に顔だけ挟んで、こちらを見ていた。


「へ?」


 顔を出した海斗は、いつもの魚のような表情をしている。


「・・・・・・」

(こいつ、もしかして、付き合うって意味をわかってないんじゃ・・・)


 田辺のこめかみに、扉の角がずっしりと食い込んだ。


「あのさあ・・・海斗。おまえ、みさきちゃんのこと、好きなんだろ?」

「うん」

「・・・・・・」


 扉の角は、容赦なく、田辺の頭蓋骨を圧迫していく。


「それで、どうしたいとかないの?」

「どうしたい?」

「・・・っ! なんか、あるだろ! 好きだったら、もっと、こう・・・っ!」


 田辺は、とうとう扉を手で押し開け、まるで、猫がのどにつっかえた毛玉を、吐き出すようにして言った。


(ん? みさきからメッセージ?)


 海斗は、遠くの水面でもがくようにしている田辺を置いて、カバンからはみ出したスマホを手に取った。


「なあ、海斗! 聞いてんの⁉︎」

「潤、話の途中で悪い。おれも、すぐ帰る」


 そう言って海斗は、サクッと荷物をまとめ、鍵を手にした。そして、田辺をうしろ向きに歩かせるようにして、更衣室から押し出した。


「じゃあ、潤、また明日」

「え、おい!」


 海斗は、わき目もふらず足早に去っていく。田辺の声は、その背中に、むなしく消えていった。



 職員室―――。


「あ・・・」

「ん?」


 退出間際、海斗は、不用意に声を出した男子生徒に、往く手をふさがれた。


「・・・・・・」

「・・・・・・」


 そこには、亮太がポケットに手を入れて立っている。黒目が半分まぶたに隠れているが、力強い視線は、海斗のからだを突き刺した。海斗は、スッと左に移動し、黙って道をあける。


「みさきを泣かせたら、おれが許さねえ」


 すれ違いざまに、腹に響く、ずっしりとした亮太の声が入ってきた。海斗は、前を向いたまま、亮太の真横で、静かに口を開く。


「そのときは、思いきり殴っていい」


 そして、そのまま立ち止まることなく歩を進めた。



 星ヶ丘の坂道で、かたむきはじめた太陽が、海斗の左半身をシャープに照らす。乾き切っていない髪の毛は、頭に熱をこもらせ、お湯をかぶったように温度を上げていた。海斗は、頻繁にポロシャツの襟や袖で鼻の汗をぬぐいながら、駅へ向かった。

 乗り込んだ電車の中で、肌が凍てつくような冷風が当たり、吹き出していた汗は、慌てて毛穴に引っ込んだ。海斗は、ドア付近で、ポケットからスマホを取り出し、画面に目を落とす。


『今日、結城くんのマンションの公園で会えるかな?』

『うん。いま部活終わったから、30分後には着くと思う』

『わかった。じゃあ、いまから、わたしも向かいます!』


 海斗は、敬礼する小さなウサギと目が合い、ふっと微笑んだ。そして、オレンジ色に焼けながら流れていく景色に目を移す。ふと、鉄道橋から見えた河川敷の工業団地は、一足先に、古い白黒写真のようにトーンを落としていた。



「みさき、ごめん、待った?」


 木々の呼吸が聞こえるほど静まり返った公園で、海斗は、みさきのうしろ姿に声をかけた。夕日に照り返ったみさきの健康的な肌が、ダボっとした白い半袖のTシャツと、ひざ上のデニムのスカートから、顔を出している。


「あ、結城くん。部活おつかれさま。ごめんね、急に呼び出しちゃって」


 おだやかな笑顔で振り返ったみさきの姿が、繊細な星くずを散りばめたように輝いて映る。


「うん。大丈夫。怪我の具合はどう?」

「あ、もう、ほとんど治ってるよ。来週から、部活にも復帰できそう」


 海斗の胸がトキンと鳴った。手を伸ばすと、指先が触れるくらいの距離で、みさきが手首を大事そうに胸の前に抱き寄せている。


「そっか。よかった」


 そう言って海斗は、やわらかく微笑んだ。


「結城くんこそ、あれから、からだの調子はどう?」

「うん。なんともない」

「ほ、ほんとに、なんともないんだ・・・」


 みさきの脳裏に、ソファで砂浜に打ち上げられた魚のように、ピクリとも動かなかった海斗が浮かぶ。そして、まぶたを閉じて、それを吹き消すように、大きく息を吐き出した。


「実は、今日・・・結城くんに話したいことがあってさ」

「うん」


 足元で、長細く真横に寝転んだ影は、オレンジの宝石のように光り輝く夕日を挟んで向かい合うふたりを、静かに見つめていた。



「わたしも、結城くんが好きです」



 みさきは、落ち着いた声で、まっすぐ海斗を見て言った。


「このまえ、結城くんが、わたしのことを好きって言ってくれて・・・それに対する、わたしの気持ち」


 ゆるやかな風が公園に吹き込んだ。それは、みさきの肩まで下りた毛先を持ち上げ、ほおをなでるように揺らした。みさきは、いたずらっ子のように、白い歯をこぼして続ける。


「今度は、返事に何日かかったか、数えないの?」


 すると海斗に、ふっと吹き出すような笑みがこぼれた。




 みさきが、ピッタリと海斗の胸の中におさまる―――。




 乾いた表面の砂をなでるように吹いていた風が止んだ。そして、公園は、まるで、波のなくなった海面のように、静寂を奏でる。


「はぁ〜・・・」

(え? ため息⁉︎)


 みさきは、海斗の胸の中で、からだが固まった。


「ずっと、こうしたかった」


 海斗は、みさきをギュッと抱きしめ、耳元でささやくように言った。


(な、なんだ、そういうことか・・・)

「・・・うん、わたしも」


 そう言ってみさきは、顔をうずめながら、海斗の腰に腕をまわす。そして、思ったよりも速い海斗の心拍数につられ、みさきの鼓動が高鳴っていった。


「また、運命がおれからみさきを奪おうとしても、もう離さない」


 みさきのからだは、炎の塊が込み上げてくるように熱くなる。


「いま、ここにいるみさきを大切にする。なにが起こっても、絶対みさきを守る」


 その瞬間、吹きこぼれていたみさきの心に、冷水が差された。


「・・・みさき?」


 海斗の胸が、さざ波のように細かく揺れ、まるで、自分の腕の中にいるはずのみさきを、見失ったようになった。


「あ、あのね、結城くん。わたし、それを聞くと、心にぽっかり穴が開いたようになって、悲しくなるんだよね。なんでだろ。すごく、うれしいはずなんだけどな」


 海斗を見上げたみさきの目に、涙がたまっている。眉をゆがませ、歯を食いしばるみさきの表情は、海斗の思考回路をショートさせた。


「どういうこと? うれしいけど、悲しいって・・・」


 そう言って海斗は、みさきの両肩に手を添え、身をかがめて視線の高さを合わせる。


「これまでみたいに、わたしをいっぱい助けて、守ったら・・・」

「うん、おれは、みさきを守る。ずっと、そばにいる」


 海斗は、まっすぐみさきを見つめて言った。


「・・・結城くんは、どうなっちゃうの? なんか、それをすればするほど、遠くに行っちゃいそうで怖い。ごめん、おかしいよね」


 みさきは、のどを火傷させながら、言葉を押し出すように言った。


「おれが、みさきのそばで、守ろうとしたら・・・遠くに感じる?」


 とうとう、あらゆる思考が根絶やしにされたように、海斗の頭がさら地になった。意識が、なにもない所で歩きまわり、そのまま下を向いてしまう。


「わかんないよね、ごめん」

「いや・・・みさきは、悪くない。なんか、すぐそこに答えがあるような気がする」


 そう言って海斗は、手のひらから全身に流れてくるみさきの体温と感情を、腹の底に落とし込む。


 ふたりの間で光を放っていた夕日が退き、一帯は、セピアのフィルムを貼り付けたように、薄暗くなった。それは、ものの境界線をぼやかし、海斗の心を異空間に放り投げる。


(ああ・・・そういうことか)


 海斗は、おもむろにみさきから手を離し、スッと姿勢を正した。


「ゆ、結城くん・・・?」


 みさきは、呼吸を乱しながら涙をぬぐい、海斗を見上げる。海斗は、潤ったみさきの瞳の奥に映る、自分の姿を直視した。


「大丈夫。おれは、みさきを大切にするのと同じくらい、自分のことも大切にする」

(助けに行ってたんだ・・・苦しみから抜け出せなかった、おれ自身を)


 海斗は、戒めのように自分に刺していた刃を溶かし、そこに、あたたかい光を当てて癒していく。


「だから、安心して。これからは、辛いと思ってる自分がいたら、ちゃんと、それにも手を差し伸べるようにするから」


 海斗の生まれ変わったような瞳と、内側から放たれる繊細な光は、再び、みさきの熱を呼び覚ました。そして、みさきは、安心感に包まれ、一気に全身の力が抜けて、ぼんやりと立ち尽くす。


(なんだ・・・辛かったんだな、おれ)


 海斗は、みさきのほおに、そっと手を当てた。海斗の指の間に、涙で湿ったみさきの髪の毛が、ゆっくりからんでいく。


「もう、悲しくない?」


 そう言って海斗は、やさしく親指でみさきのほおを滑らせた。


「・・・うん。うれしくて、あったかい気持ちになる」

「よかった」


 海斗の顔が、まるでおだやかに流れる川のように、ゆっくりみさきに近づいていく。唇を探すように、海斗の鼻が肌に触れると、みさきは無意識にあごを上げた。



 ふたりの唇が重なる―――。



 やわらかく、からだが溶けるような感触は、みさきの心臓をドクンドクンと鼓動させる。手先がしびれるほど、血液が全身を駆けめぐり、気がついたら唇が離れ、互いのおでこがくっついていた。


 そのあと、みさきは、顔を上げられないまま、ただ、海斗の腕の中で、ジンジンする細胞を感じていた。



「げっ! 結城 海斗・・・っ!」

「・・・ん?」


 海斗は、マンションの外壁に反射して聞こえた声に反応した。公園の入り口付近に、見覚えのある男のシルエットが目に入る。みさきは、心地よく揺られていたボートから、無理やり降ろされたように、海斗の視線の先に目を向けた。


「ゆ、結城くん! あの人たちって、このまえの・・・っ!」


 みさきは、瞬時に身を縮こませ、海斗の陰に隠れて言った。


「ああ、えっと・・・」

(えっと、じゃないわよ! 早く逃げよ!)


 そこに、木下と奥野がいた。そして、木下が体勢を乱した奥野に一言話す素ぶりを見せ、ふらっと公園内に入ってくる。ダボっとしたズボンのポケットに手を入れ、まっすぐ海斗に向かって接近してきた。海斗は、うしろからポロシャツを引っ張るみさきを、そっとしまうようにして、木下と向かい合う。口元に絆創膏を貼り、目のまわりが、薄っすらと紫がかっていた。


「まだ、なんか用?」


 海斗は、落ち着いた声で、薄目を開ける木下に言った。


「・・・ったく、なんでピンピンしてんのか知らねーけど、今後、佐竹さんも土井さんも、おまえには手を出さねーから、安心しろ」

「なんで?」

(ゆ、結城くん⁉︎ なんでってどういう意味⁉︎)


 みさきは、顔色ひとつ変えない海斗を、二度見した。


「勝てない試合はしねーんだよ。言わせんな」


 木下は、端的に答え、背中を向けた。


「ああ、あと、大会がんばれよ」


 そして、小さく手を上げ、そのまま振り返らずに去っていった。

 みさきは、頭の理解が追いつかず、しばらく海斗のうしろで目を開けっぱなしにする。



「みさき、このあとの予定は?」

「へ? えっと、特にないけど・・・」

「じゃ、行こ」


 そう言って海斗は、みさきの手をとった。


「え? あ、うん。どこに?」


 みさきは、あたりまえのようににぎられた手に、意識を奪われる。


「みさきと、たこ焼き食べたい」


 そう言って海斗は、少年のような無垢な笑顔を見せた。みさきの胸がドキンと音を立てる。


「うん!」


 そして、弾け飛ぶような満面の笑みで返事をした。



 むらさき色の空に浮かんだ一番星が顔を出す。それは、まるで、ピチャン―――と、しずくのような音を立てたかと思うと、住宅街を歩くふたりの上で、しっとり輝いていた。

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