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第11話:そんなのは、うそ。

「・・・・・・」


 海斗のまぶたが角膜を滑りながらゆっくり開かれる。目の前が、ぼんやりと、淡いオレンジ色に包まれた。開けっぱなしの窓のカーテンは黄金色に染まり、リビングにやわらかい夕陽が差し込んでいる。


「ここは・・・」


 そう言って海斗は、サンドバッグのように重たいからだを、ひじで支えながら起こした。背中が少し浮いたところで、低いテーブルの縁で顔を伏せたみさきの存在に気づく。まるで、やわらかい薄紫色の花に包まれるように、浴衣の袖に埋もれている。ほおにかぶさって流れる髪の毛の隙間から、クリッとしたまつ毛が見えた。海斗は、ソファのくぼみに沈む尻をずらし、からだをねじって右手をそっと伸ばした。


「みさき、みさき・・・」


 海斗は、静かに彼女の肩を揺らす。


「ん・・・」


 みさきが顔を上げると、汗が張りついて、浴衣の袖がいっしょについてきた。


「ゆ・・・結城くん?」


 ペリッとはがれた袖は、手首の上にふわりと戻る。振り返ると、眉をゆがませ、心配そうにこちらを見つめる海斗がいた。


「はっ! 結城くん!」

「わわわ・・・っ」


 海斗の視界が、何枚もの手のひらでふさがれた。みさきは、反射的にガードした海斗に構わず、ホコリまみれの頭や顔、ほおにペタペタ手を当てていった。


「け、怪我は・・・⁉︎ 大丈夫⁉︎」

「怪我・・・?」


 海斗は、パチッと目を大きくさせ、勢いよく上体を起こした。


「そういえば・・・」


 海斗は、右前腕をひっくり返しながら、指を曲げ伸ばしする。次いで、スクッと立ち上がり、胴体をひねって、からだ全体を見渡した。


「・・・なんともない」

「へ・・・?」

「ほ、ほんとに・・・?」

「うん。ほら」


 海斗は、ボロ雑巾のような姿で、右肩を操り人形のようにグルリとまわし、リズムよく屈伸して見せた。みさきの視界が、一気にぼやける。続いて、目の際に溜まった大粒の涙は、バケツの水がひっくり返るように、ほお骨に沿って流れ落ちていった。


「えぇぇぇん、よかった〜、結城く〜ん!」


 みさきは、マンションにヒビが入るかのような音量で泣き叫んだ。


「みさき・・・」


 涙をぬぐうことも忘れ、座り込んで天を仰ぐみさきに、海斗の心が引き込まれていく。みさきの脱力感と安心感は、入り乱れながら海斗の胸の奥まで流れ込み、しばらくの間、海斗をぼう然とさせた。そして、みさきの呼吸が落ち着いてくるとともに、海斗は、身をかがめて片ひざをつく。


「みさきの手首・・・」


 海斗は、みさきの棒のようになってフローリングに落ちている手を拾い上げた。


「いっ・・・!」


 みさきは、小さな針で全身を刺されたような痛みが走り、ビクンとお尻を浮かした。みさきの手首は、しばられていたテープの跡で、熟した赤ワインのような、むらさきがかった色になっていた。


「切り傷に、捻挫・・・ちょっと待ってて」


 そう言って海斗は、うつむいたまま立ち上がった。


「結城くん・・・?」


 海斗は、右手で後頭部の髪の毛をくしゃくしゃにしながら、リビングの奥の廊下に姿を消した。早々に戻ってきた海斗は、救急箱をテーブルに置き、キッチンで湯を沸かしはじめた。さらに、クルリと方向転換した海斗は、真うしろの戸棚からグラスを取り出し、冷蔵庫で冷やしてあった水を注いだ。


「はい、みさき。のど、乾いてるだろ?」

「あ、うん。ありがとう」


 そう言ってみさきは、差し出された背の高いグラスを両手で受け取った。顔を上げて目を合わせる間もなく、海斗は、黄昏に染まる窓を閉め、エアコンのスイッチを入れている。そして、気がついたら、グラスの水を、まるっとのみ干していた。


「ハァ〜、生き返った〜」


 みさきは、頭のてっぺんから声を出し、白く曇ったグラスをテーブルに置いた。海斗は、それと入れ替えるように、うっすら湯気が昇るお湯の入った調理用のボウルと、一枚のハンドタオルを並べた。


「みさき、手首、見せて。両方」

「あ、はい」


 みさきの指先が、海斗のひとまわり大きい手で、そっと触れられた。傷口を見つめる海斗のまぶたの奥に、悲しげな色がにじみ出ている。みさきの心臓がトクンと音を立てた。


「じゃあ、右手から。あ、これ、お湯に塩を混ぜたやつ。しみないから安心して」


 そう言って海斗は、みさきの手首をボウルの上にかざし、ガーゼでお湯をすくって、傷口にやさしく垂れ流していく。人肌になったお湯は、まるでお花畑に包まれるように痛みを和らげた。海斗は、顔を上げることなく、終始、黙って傷口を洗い続ける。冷んやりしてきたリビングには、源泉かけ流しのような音だけが、小さく鳴り響いていた。


「あの・・・助けに来てくれて、ありがとう」


 みさきは、凪のように落ち着いたトーンで言った。


「おれが、あいつらのことを中途半端にしてたから、みさきを巻き込んでしまった。ごめん」


 みさきは、うつむいてよく見えない海斗の瞳を探した。その海斗に、みさきは、小さな笑みをこぼす。


「・・・結城くんってさ、思いやりがあって、底なしにやさしいから、自分が痛い目に遭ったり損したりするってわかってても、からだが勝手に動いちゃうんだね」

「へ・・・?」

「林間学校のとき、見知らぬ人を助けるために、迷わず川に入って行ったのも、やっと、理解できた気がする」

「・・・・・・」

「でも、うまくいかなかったら、全部自分のせいにして、スネて、人に相談もしない」

「・・・まあ、合ってる」

「でしょ⁉︎ りさみたいにはいかないけど、わたしの観察力も大したもんだわ!」


 そう言ってみさきは、太陽の下で咲き誇ったひまわりのように、明るく笑った。


「でもね、ほんとは、自分を責めてほしくないって思うんだよね。やっぱり、そんな結城くんを見てると・・・辛くなっちゃう」

「・・・おれがそれをすると、みさきは辛いのか」


 海斗は、まるで子供が新しいことを学ぶように、そのままを受け取った。


「あ、勘違いしないで。それは、たぶん、結城くんの役に立てなくて、力になれない自分を、見たくないからだと思う。決して結城くんのせいじゃないからね」

「・・・・・・」


 みさきは、すぐさま、誤った文書を上書きするように、矢印を自分に向けた。


「ずっと・・・みさきの夢を見てたんだ」

「へ・・・? 夢?」

「うん」


 みさきの手首が、白い雲のようにふんわりとしたタオルで、やさしく包まれる。


「反対の手、貸して」

「あ、はい」


 みさきは、思わず背筋を伸ばして、もう片方の手を差し出した。かろうじて見えた海斗の片目は、また、前髪の陰になって隠れていく。


「夢の中のみさきは、すごく強くて、かっこよかった」

「へ、へぇ・・」

「おれの恐怖を吹き飛ばしてくれて、一歩踏みだす勇気を与えてくれた。だから、おれの方こそ、ありがとう」

(あれ? もしかして、わたしと真っ暗闇で会って話したこと、結城くんの中では完全に夢になってる?)


 みさきに、海斗と同じ船に乗っていない現実が、静かに流れていく。


「で、でも意外だな・・・。結城くんにも、恐怖ってあったんだね」

「ははっ。うん、あったみたい」

(あ、笑った・・・)

「だから、みさきが力になれないとか、そんなのは、うそ」

「あ・・・はい」

「うまく言えないけど、みさきがいる・・・それだけでいい」

「・・・っ!」


 みさきの心臓が、トクンと音を立てた。海斗は、やわらかい瞳をのぞかせながら、救急箱を手前に持ってくる。そして、みさきの傷口に、白くて薄いシートを貼った。


「これ、特別な絆創膏。傷が治ったら勝手にはがれるから、それまで取らないで」

「あっ、はい」


 みさきは、サクッと会話の舵を切った海斗に、引き戻されるように返事をした。続いて海斗は、救急箱をのぞきこみ、包帯を手にした。そして、ゆっくりみさきの手首に転がせていく。


「捻挫の腫れもあるから、二、三日、包帯の上から、氷かアイスパックで冷やすようにして」

「・・・はい」


 みさきは、ゴクッと唾をのみ込み、思いきって、海斗に届きそうで届かない手を伸ばし、口火を切る。


「ね、ねえ、結城くん・・・!」

「ん?」

「もし、その夢の中で、わたしが話したこと、本当だったら・・・どうする?」


 直後、海斗の包帯を巻いていた手が、ピタリと止まった。



 数秒間、エアコンの微風が、リビングを騒がしくする―――。



「あ、ごめん! 困るよね、こんな質問! 忘れて! 変だよね、わたし、結城くんの夢で、自分が言ったことも知らないのに! あははっ!」


 みさきは、目を落としたままの海斗を横目に、自分で蒔いた種を慌てて刈り、その場をうやむやにした。



「忘れたくない。それは、すごく嬉しかったことだから」



「・・・!」


 みさきの心臓が跳ね上がった。顔を上げた海斗の真剣な眼差しは、みさきの瞳の奥に入り込み、まっすぐ突き刺さる。



 向かい合うふたりの間隔が、ゆっくり、静かに狭まっていく―――。



 海斗に腕を引っ張られているのか、自分が上体を前に出しているのか、わからなくなる。いつの間にか、おでこやほおに、海斗の体温を感じられるほど接近していた。そして、海斗の汗に混じったほのかなシャンプーの香りが、みさきの脳を溶かしていく。



 互いの鼻が、スッと交わったときだった―――。



 プルルルルルッ。



 キッチンからコール音が鳴り響く。ふたりは、唇が触れる一寸手前で、ピタッと制止した。


「・・・・・・」


 海斗は、包帯を床に転がせ、無言で立ち上がった。


「はい」


 そして、応答ボタンを押しながら、キッチンの壁に向かって返事をした。


『あ、海斗?』

「潤か・・・」

『なんだよ、その感じ。今日、部活来てなかったから、様子見にきてやったのに』

「ごめん。部活のこと、すっかり忘れてた」

『え、マジ? 大丈夫かよ』

「すまん。明日は、ちゃんと行く」

『おう。ならいいけど。あとさー、りさも、みさきちゃんと連絡取れないって言ってるんだけど、知らない?』

「あー・・・」


 そう言って海斗は、リビングで小さくなっているみさきに視線を移した。頭から湯けむりが出るほど顔を真っ赤にさせ、まったく焦点が定まっていない。そして、海斗は、田辺が映る画面に視線を戻した。


「みさき・・・のスマホ、昨日、水没して壊れたって」

『げっ! ついてねーな。わかった、それ、りさに言っとく』

「おう」

『じゃ、また明日なー』


 海斗は、ふうっと息を吐き、みさきの元へ戻る。そして、静かに残りの包帯を、巻きはじめた。


「スマホ、ごめん。弁償する」

「へ? あ、スマホ⁉︎ え⁉︎」


 みさきの意識の中を、ノイズが騒がしく駆けまわり、まともに返事ができない。


「家まで送るから、おれ、すぐシャワー浴びて支度する。もし、腹減ってたら、適当に、冷蔵庫にあるもの、食ってて」


 やっと、宙に浮いていた海斗の言葉が降りてきたころには、リビングは片づけられ、ひとりになっていた。浴室から、床にたたきつけられるシャワーの水音が聞こえる。みさきは、キッチンのシンクで、包帯が濡れないようにして顔を洗った。続いて、テレビの反射を利用し、自分の前髪をつまみ、好き放題に乱れた髪をなでて落ち着かせる。さらに、帯の隙間に指を差し込み、左右にこすりながら、あちらこちらにズレた浴衣を整えた。スッと背筋が伸びると同時に、一本の芯が心の真ん中を通る。


「みさき、お待たせ。行こうか」


 そう言って海斗は、玄関につながる廊下から、みさきに声をかけた。首元がV字になった白のTシャツから、美しく引き締まった二の腕が見え隠れしている。ベージュ色のパンツは、スラッとした長い足を美しく包んでいた。傷ひとつない顔の肌がつやを帯び、無造作にウェーブを描く髪の毛が、軽く目にかかっている。


(あ・・・いつもの雰囲気と違う)


 みさきは、スタイリッシュな服装に身を包んだ海斗の横顔と、生えそろったまつ毛、そして、透き通った目に吸い込まれていく。


「あ、そうだ、結城くん。わたしのスマホ、壊れてないよ。充電の残量は壊滅的だけど」

「え? そうなの?」

「うん。荷物の中身も無事。草履も、ほら」

「・・・・・・」


 みさきは、スマホと巾着袋、草履を両手でかかげ、何度も瞬きをする海斗の視界に入れた。


「・・・セレインさん、だよね」

「・・・!」


 海斗のからだが硬直し、目がひとまわり大きく開いた。


「梅雨で土砂降りの日、結城くんが、更衣室から傘もささずに職員室に来て、制服が濡れてなかったのも、そうでしょ?」

「あ、ああ・・・」


 みさきの威風堂々の口調が、海斗の内臓を熱くしていく。


「結城くんが、口にしないってことは、話しても意味ないって思ってるからかもだけど、わたしは、結城くんのこと、なんでも知りたいって思ってるよ」


 海斗の鼓動が速まり、のどの奥がキュウッと締まった。


「・・・セレインのこと、信じるの?」

「いま姿を見せないってことは、きっと、自分のからだ、取り戻せたんだね」

「・・・たぶん。さっき、ちゃんとシャワー浴びれたから、おれの中にもいないと思う」

「そっか。よかった」


 そう言ってみさきは、落ち着いた笑顔を見せた。そして、突っ立ったままの海斗の前を通り、玄関で草履に足を滑らせる。


「え・・・てか、みさきは、なんでそんなことまで―――」

「知ってるかって? セレインさんが、結城くんのからだから出てきて、教えてくれたよ」

「へ?」

「人魚って、はじめて見たよ。ほんとにいたんだね」

「・・・っ!」


 みさきは、足の指先を鼻緒にねじ込ませ、背中越しで淡々と会話を続けた。そして、勢いよく振り返り、ニッと笑って白い歯を見せる。


「結城くんが、わたしに興味あるように、わたしも同じように思ってるから、これからは、なんでも話してほしいな! なぁんてね!」


 みさきは、澄み切った青空に羽を広げて飛び立つ鳥のように、明るく言い切った。海斗は、硬直していたからだがふっとゆるまり、微笑を浮かべる。




「おれは、興味あるっていうか、みさきのことが好きだから」




(・・・? いま・・・なんて言った?)


 みさきは、異国の言葉が耳に入ったかのように、はてなマークを頭のまわりに点灯させる。


「入学式の日、電車で見かけたときから」

(・・・うそ)


 みさきをまっすぐ見つめる海斗の瞳は、みさきの重心をぐらつかせた。


「だから、興味がある・・・じゃない」


 そう言って海斗は、スニーカーの紐をキュッとしばり、玄関の扉を開けた。


「じゃ、行こうか」

「え・・・あ、うん」


 みさきは、意識が追いつかないまま、横髪で顔を隠すようにして、静かに扉の外に出た。

 


 マンションのエントランスのドアが開くと、むわっとした風が顔にまとわりついた。外灯の隙間から見える星を見上げると、すぐに汗が耳の横を流れる。なかなか冷めない土鍋のように熱がこもった住宅街のアスファルトの上を、ふたりは歩いて駅に向かった。


「そ、そうだ、入学式の電車! 痴漢!」

「ん?」

「あのときも、助けてくれてありがとね! ずっと、お礼言いたかったんだけど、タイミングを逃しちゃってて・・・言えてなかった」


 みさきは、遅れた時間を取り戻すように、早口で言った。


「・・・・・・」

「え? なにしてるの?」


 みさきは、親指から順々に折り曲げていく海斗を見て言った。


「いや、かなり逃してたんだな・・・と思って」

「え・・・っ!」


 まっすぐ伸びた小指だけを残して、目をまん丸にした海斗がこちらを見ている。みさきは、アスファルトの余熱を一気に吸収したように、顔を真っ赤にさせた。


「もう! 結城くんのいじわる!」


 みさきは、巾着を振りかざし、海斗に攻め込む。すると、海斗は、まっすぐ上から降ってきた巾着を、左手でガシッとつかんだ。


「・・・っ!」


 みさきは、返り討ちに遭うように、一向に離さない海斗の懐付近で、身動きが取れなくなった。


(ひぇぇ・・・っ! また、結城くんの顔が近い・・・っ!)


 みさきは、とっさにあごを引いて目をつぶる。そして、ハムスターが全力で車輪をまわすような勢いで、心が逃げ場を探していた。


「浴衣、すごく似合ってる」

「え⁉︎ なんで、いっ、いま、それ・・・⁉︎」

「おれも、言いそびれてた」


 海斗の顔が、ふわっとやわらかくなり、巾着とともに、からだが解放された。


「あ、ありがとう」


 みさきは、浴衣の中でキュッと脇とひざを寄せ、小声で言った。同時に、妙な安心感が心臓を包む。


「手首、あまり動かさない方がいいよ」

「あ・・・そ、そだね」


 海斗の冷静な一言は、自分のしとやかさに欠けた言動を浮き彫りにさせる。みさきは、からだ中が燃えるような恥ずかしさで、顔が上げられなくなった。



 海斗の最寄り駅に差し掛かったふたりは、雪崩のように押し寄せてくる人々と、鉢合わせになった。



 すぐに、海斗は、ギュッとみさきの左手をにぎり、正面から切り込んでいく―――。



 海斗は、みさきを自分の背後になるように、グッと寄せた。


「・・・っ!」


 海斗の繊細な手先の感覚が、血流を通って、みさきの全身を隅々まで火照らせる。さらに、たまに振り返って、こちらの様子をうかがう海斗の顔が、みさきの胸をこれ以上になくたぎらせた。


 そして、ふたりが乗り込んだ電車は、バランスを失ったみさきの心を表すように、ゆっくりと、前後左右に揺らしながら発車していった。

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